かって、「芦屋エスペラント会」があった...





Kion mi skribis?



2015年5月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (一)
2015年6月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (二)
2015年7月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (三)
2015年8月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (四)
2015年9月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (五)
2015年10月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (六)
2015年11月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (七)
2015年12月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (八)
2016年1月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (九)
2016年5月 エスペラント・ランドの本屋さん
2016年5月 エスペラントの本の森に素敵なお話を求めて (番外編)
2015年5月 Briĝo kun veneno
2015年4月 忘れえぬ3人の達人

La revuo orienta (2015) 4月号 28-29頁


忘れ得ぬ3人の達人

 2002年夏、ブラットルボロ市での北米夏季合宿(NASK)でのこと。ロシアから招かれたアレクサンダー・メルニコフ先生は、施設の構内を白い半そでシャツと短パン姿で闊歩し、老若男女の生徒たち十数人を相手に、熱血指導をした。授業の最中に、居眠りしそうな生徒が出そうになると、車座に座っている皆を椅子から立ち上がらせ、板書したザメンホフの詩、 'Lavojo' の一節、 "Obstineantaŭen! La nepoj vin benos, se vi pacienceeltenos." を、大声でこぶしを振りながら叫ばせ、一斉に輪の中心へと歩ませた。三週間にわたる授業の中で、何回もくり返されたので、最後が近づくころには、皆、すすんで立ち上がり大声で "Obstineantaŭen! ..." とやって、先生を喜ばせたものだった。このとき先生が使っていた教材は、コルカーさんの 'Vojaĝo en E-lando'からコピーしたもの。黒い背表紙の モスクワで1992年 に発行されたザラ紙のものである(2002年に、UEAからアート紙で二色刷りの改定第二版が出版され、現在は2005年印刷の大判の第三版が入手できる)。その本には、見覚えがあり、途中で放り出していたものだったので、日本へ帰ってすぐ通読した。この本にはたくさんの宝石のかけらがちりばめられているが、その時わたしが見つけた宝石は、ブロンシュテインさんの'Oni ne pafas enJamburug'と、モデストさんの 'Aŭtuna rendevuo' である。

 このメルニコフ先生 をはじめ、わたしには、忘れられないエスペラントの達人が3人いる。イローナ・クトゥニ先生は、おなじ2002年のNASKで、最上級クラスを受け持ち、身体表現の意味が民族間でどのように違うのかをテーマに、各国から集まった生徒に質問し解説させていた。「日本ではどうか?」と、何度も質問されたし、頭を丸めて謝る日本の風習などを説明したことを覚えている。このとき、副教材として使ったのが、彼女の著作で、教育と仕事に関する用語を英語-エスペラン ト-ハンガリー語で対照して調べられる小冊子、 'Angla-Esperanta-Hungara etvortaro pri Lernado kaj Laboro' だ。同伴されていた先生の御主人が合宿中に誕生日を迎えられとかで、先生の部屋に何人かの生徒が呼ばれお祝いをしたことがある。何か歌えといわれ、一番目に指名されて、とっさに「スキヤキ」が世界ヒットしたから皆知っているだろうと「上を向いて歩こう」をわたしは歌った。好評だったが、いま、思い出してもそれはふしぎな思い出である。ハンガリー では、大の大人がこんな風にして誕生日を祝うのかと。

 メルニコフ先生やクトゥニ先生について言えることは、エスペラントはもはや死語だとか、世界共通語は英語だとかいった世俗的な議論には全く関係がない次元で、彼らは厳然としていて、エスペラントのプロフェッショナルであるということである。授業は、手抜きと思われるようなことは全くなく、わたしは、これは大学レベルの授業ではないかと、うならされた。その後、エスペラントを手ほどきする機会があるごとに、手をぬいてはいけないとわたしは心した。

 一度は世界大会を、 前後の大会と合わせてすべて参加しようと決め、2003年のヨッテボリでの世界大会で、それを実行 した。ポスト・コングレーソ2日目の午前中は、モールバッカ(スェーデン ヴェルムランド地方にある邸宅。ここでノーベル文学賞受賞のセルマ・ラーゲルレーフが生まれ育った。現在はラーゲルレーフ記念館)への遠足だった。今でも、背の高い並木が続く果てに、すがすがしい夏の朝日をうけて白く輝いていた、こじんまりとした館が目に浮かぶ。われわれのバスがそこへ着く前に、この小旅行の世話役だったアグネッタ・エマヌエルソンさんは、この年、ヨッテボリ大会を記念して急遽出版されたステン・ヨハ ンソン訳の 'Lamirinda vojaĝo de Nils Holgersson' を取り出し、わたしたちにその一部を読んで聞かせてくれた。わたしはそれに圧倒された。その内容にではなく、その読むスピードに。揺れるバスのなかで、片手で体を支えながら、そんなに早口でエスペラントが読めるのか、と。彼女はたった一人でポスト・コングレーソ参加者30人あまりを5日間に渡って世話をした。わたしは、2007年の横浜大会で、ポ スト・コングレーソの世話をしたが、50人ほどの人たちを一台のバスで、五十嵐氏と二人でである。しかも、行く先々やホテルでたくさんのヘルパントに助けられてである。わたしは、アネッタさんに、欧米のエスペランティストの力量をまざまざと知らされた。いま、自分の嗜好に合うエスペラントの本を見つけ、読みすすめるとき、いつもわたしはこんなレベルで満足し ていてはいけないぞ、と自分をいさめている。

 余談だが、'Vojaĝoen E-lando' (第2版)の紹介 文をKLEGの機関誌の”モバード”に書き、それをエス訳してコルカーさんにメールしたことがあった関係で、わたしはこの横浜大会のポスト・コングレーソに参加されていたコルカーさんに、一緒に写真を撮らせていただいたり、ハグされたりと、とても親しくしていただいた。ホテルの自室に招かれて、短い時間だったが話も聞いた。「メルニコフはロシアでわたしの本をすべて買い占めてしまった」とか(夏季合 宿では、メルニコフ先生からその本(第一版)を買っている人たちがいた!)、これは だれも知らないことだけど、と 'Vojaĝo...' 53頁を開き、写っている二人のうちの一人を指し、「これは若いころのわたしだ」と。

 昨年の暮れに、わたしは西宮のマンションから名古屋へ引っ越した。家内の実家だった古家を建て直し、本を収納する場所も少し広くなり、エスペラントの本も背表紙で本を探せるようになった。まだ読んでいない本が一杯出てきた。自分のホームページで、内容をすぐ思い出せるようにとメモしていた本 も240冊ほどになった。このさき、右目の黄斑変性がひどくなる前に、あとどれくらい読めるかと思うことがある。3人のプロたちを思い浮かべ、ささやかな努力をこれからも続けようと思っている。


(resumo)

 Tri neforgeseblaj esperantistoj por mi estas prof. A. Melnikov, prof. I. Koutny kaj s-ino A.Emanuelsson. Du profesoroj gvidis nin en 2002a NASK kaj s-ino A.  Emanuelsson estiszorganto de postkongresa ekskurso en Gotenburga UK. Ilia  sincera, diligenta, kajentuziasma sinteno por Esperanto chiam kuraghigas min.