FUKUSHI Plaza街道 Now and Then奥州街道

[前の宿へ] 青森 [次の宿へ]

最終更新日:2013年8月12日

青森〔あおもり〕宿

八甲田山
青森駅付近から見た北八甲田連峰
(カシミール3Dにて作成)

【特徴】 多くの廻船問屋や豪商が軒を連ねた。

【構成】 中心部は奥州街道の本町通り(大町)である。 街道の北の通りは浜町(現=本町3丁目)で、その東に蜆貝町があった。 街道の南は米町通(現=本町2丁目)で、その東の博労町〔ばくろうちょう〕(馬喰町、別名馬町、現=青柳2丁目)とともに呉服商が集中し商店街を形成していた。博労町東端には魚市場があり、近在の農家が野菜販売に市を造っていた さらに南が寺町通(現=本町1丁目)で、東には鍛治町(現=本町2丁目)、大工町(現=本町5丁目)、新博労町(松森町)と続いていた。

【歴史】 江戸時代の始めには善知鳥〔うとう〕村と呼ばれ、葦や萱が生い茂る安潟というな沼のほとりの戸数60戸ほどの漁村だった。安潟には荒川と入内川が合流した大川目が注ぎ、東側には蜆貝という村があったとされる。 津軽2代藩主信枚〔のぶかず〕から家臣森山弥七郎が大浜(油川)に代わる湊としてこの地に港づくりの命を受けた。 1624年に派立〔はだち〕となり港町となって、1625年に青森村と改めた。 町の中央部にあったいつも青々としていた松の森が、それまで入船の目標として親しまれていたことから、「青森」と呼ばれるようになったと言われている。そしてその森が、その後「松森町」となったとされるが諸説がある。

浜町、本町、米町の三町が次々と成立し、1628年には戸数700戸に成長した。 1664年には博労町、多葉香町、塩町ができ、1671年には堤川端町、新町、寺町、鍛治町、大工町が整えられた。 シャクシャインの乱(1669年)を契機に北海道への渡航地として見直された。 幕末には戸数3000戸を数え弘前藩最大の商業都市として発展した。

1889年に塩町遊郭が柳原(堤川河口右岸、現=港町)に移った。1910年の大火により柳原遊郭が旭町へ移転した。

大火や青森大空襲(1945年)により歴史的な建築物をほとんど焼失した。

【今】 旧町名を示す標柱がたっている。

【歩く】 柳町通りを渡って次の信号を右折しすぐまた次の信号を左折し浜町通りを進む。青森駅付近で街道は失われているので南へ迂回してあすなろ橋で線路をまたいですぐ右折して100m先を左折する。350m先で国道280号に合流して道なりに進む。

堤川端町(堤町)

青森町の東端にあたる。

【今】旧町名の標柱がある。

堤川

「舟渡し場」、「馬渡し場」などがあった。 1671年に架橋され、生活河川として舟運を利用して魚類や諸物資が行き交った。 陸奥湾の魚が集まり、界隈にはこれを加工する業者が現れた。

堤川一里塚

【今】何の痕跡もない。

丸石沼田商店

創業は1918年。初代は宮城県石巻市出身で、陸奥湾の魚が集められる堤川河口に工場を構えた。出身地の石巻の石を丸で囲んで屋号とした。 皮のこげ目が牡丹〔ぼたん〕の花びらに似ていることから名付けられた。牡丹竹輪が有名。

【今】株式会社丸石沼田商店として四代目社長のもとで営業している。 主力製品の焼竹輪は「牡丹焼き」と呼ばれる。

平田屋

創業1902年のそば屋。 歩兵五連隊(現=青森市桜川8丁目青森高校敷地)の兵隊がこの店で家族と待ち合わせをしたという。

【今】「そば食堂 平田屋」として営業している。

小田九〔おだく〕

創業1897年のそば屋。1934年ごろから「中華蕎麦」も始めた。 寺山修司がこの店の中華蕎麦を好んだという。

【今】「めん処 小田九」として営業している。

多葉粉町(莨町)〔たばこまち〕

「多葉香町」とも標記される。 1668年に煙草商売が許可され町名ができた。

【今】小学校の名称などの残っている。 旧町名の標柱がある。

甘栄堂

甘栄堂

創業は1893年。白餡にバナナの香料を混ぜた「バナナ最中」が名物だった。

【今】菓子店として営業していて「芳香バナナ」を売っている。
[写真]2011年9月撮影

入〆〔いりしめ〕

創業は1902年のそば屋。 1940年に「支那そば」を始めたが、青森市内で最初の中華そばではないかといわれている。1961年には「中華ざる」を考案した。

【今】「有限会社いりしめ」となって営業している。

塩町

1668年に塩の独占販売ができたことから町名が起きたが、1690年には一手販売が解かれた。1695年に往来宿や芝居小屋の建設が許されにぎわった。

【今】旧町名の標柱がある。

本町(大町)

最初は「中町」と呼ばれていたが、1673年の町絵図には「本町」とある。 町年寄が住み、政治、行政の中心地で、酒屋も多く立ち並んでいた。 1754年ごろ「大町」と改称された。

【今】旧町名の標柱がある。

カネセ 高橋かまぼこ店

高橋かまぼこ店

創業1903年の青森初のかまぼこ屋。

【今】魚肉練り製品を製造している。
[写真]2011年9月撮影

西沢善兵衛宅

伊能忠敬

伊能忠敬第1次測量(1800年)で往路の6月29日(旧5月8日)に宿泊した。 復路の11月7日、8日(旧9月21日、22日)にも青森に宿泊している。

第2次測量(1801年)では12月11日(旧11月6日)に宿泊した。 「沿海日記」に「比日風少々度々雪、止宿米町西沢善兵衛」とある。 往路の12月5日(旧10月30日)は西沢伝兵衛宅だった。

第3次測量(1802年)でも青森を訪れているが、宿泊は 油川だった。

【今】説明板がある。

武内製飴所

武内製飴所

創業1858年の津軽飴の店。津軽藩四代藩主・津軽信政が領民の副業として製造したというのが由来とされる。 初代の武内喜兵衛忠信は、佐賀県武雄市武内町からきて津軽藩に仕えた武士。2代目が弘前で水飴の御用にたずさわり、幕末の4代目のときに青森へ移り専業の飴屋を開業した。 鰊漁の出稼ぎ者に人気があり青函連絡船が運航されると乗客の土産品として使われた。

【今】「津軽飴本舗 有限会社上ボシ武内製飴所」として営業している。 くず米を粥状にし、麦芽を加えて糖化させ、煮詰めて作るという技法を引継いでいる。 ゴムに入れたゼリー「じゅえるシリーズ」、「手造りかりんとう」などもある。
[写真]2011年9月撮影

青湾貯蓄銀行

1900年に開業した。

青森大空襲(1945年)でも焼失せず、東奥日報社がはいった。

1949年に青森商業銀行と合併して消滅した。

青森銀行

1931年に第五十九国立銀行青森支店として建設され、1943年に青森銀行本店となった。

【今】青森県立郷土館になっている。 1階大ホールは国の登録有形文化財となっている。

蓮華寺

京都妙顕寺の日住が1652年にこの地にきて庵を結び、1664年に現在地へ移り蓮華寺と称したのが始まりである。

青森大空襲(1945年)でも焼失せず、戦後一時青森市役所仮庁舎として使用された。

蓮心寺

寺伝によれば、越前国米ヶ浦の敬念が1615年に外ヶ浜の根岸(現=平舘村)に草庵を結び、1640年に当地に移ったという。

明治天皇東北訪問(1876年)では行在所になった。

正覚寺

1628年に弘前の龍呑〔りゅうどん〕が開いた。青森市で最も古い寺院である。 最初は覚正寺と称したが、津軽為信の菩提寺革秀寺と紛らわしいというので正覚寺と改めたという。

石灯籠

1761年に7代藩主が徳川家重の追善供養のため江戸の増上寺に献納したものが、後年当寺に下付されたものである。本堂前にある。

常光寺

若狭国(現=福井県)出身の僧天芸が安方町に草庵を結んだ。 信徒も増加した1648年に寺号を許され、1653年に現在地に寺を建てたのが始まり。

湊奉行所

津軽藩が設置した。

【今】「聖徳公園」になっている。

浜町桟橋

切手

1873年、北海海開拓使が外輪蒸気船「弘明丸」で青森・函館間定期航路を開設。

明治天皇東北訪問(1876年)ではここから小船を乗りつぎ沖に停泊した「明治丸」に移乗、函館に向かった。 青森から室蘭に向かい函館から帰港した1881年の北海道巡幸でも使用された

1885年、日本郵船株式社を創設、青森・函館間の就航を一日一往復とした。

1930年に「明治天皇御渡海記念碑」がたてられ、1931年に青森市に寄付されて「聖徳公園」が開園した。 1990年に「海の記念日発祥の地」碑が建てられ、「明治丸」の碇のレプリカが設置された。 なお海の日は青森を出発した日ではなく横浜に到着した日である。

毘沙門堂(香取神社)

横内城にあったのを遷した。青森総鎮守。

1871年に神仏分離で香取神社となった。 1991年に青森市大矢沢に遷宮した。

【今】駐車場になっている。

棟方志功出生の地

1903年9月5日に、板画家の棟方志功が刀鍛冶職人の三男として生まれた。

【今】説明板がある。

青森町奉行所

1686年から青森町が町奉行の直轄となった。 このあたりは政治の中心地であった。

高札場

善知鳥〔うとう〕神社

善知鳥神社

658年に安倍比羅夫〔あべひらふ〕が蝦夷征討にやってきたとき宗像神をまつったとも、坂上田村麻呂の東北遠征の807年に再建された。 1641年に青森町奉行森山弥七郎が藩名で再建したともいわれる。 江戸時代には弘前藩が管理した。1641年に開港奉行・森山弥七郎は藩命によって社祠を再建し、以後藩の祈願所の一つとなった。 青森大空襲(1945年)で堂宇は全焼し、本殿は1955年に、拝殿は1964年に再建された。

【今】青森市民の心のふるさとである。境内には安潟と呼ばれた沼地の名残の池がある。
[写真]2008年8月撮影

奥州街道終点

江戸時代初期に著された「幕府撰慶長日本図」では青森が終点とされている。 これより北は、参勤交代で利用するのは松前藩だけで、松前道、上磯街道、外ヶ浜道、三厩街道などと呼ばれていた。 三厩や筥館〔はこだて〕(現=北海道函館市)を終点とすることもある。

1992年に「奥州街道終点記念の碑」がたてられた。

青森市道路元標

道路の起点または終点を表示するための標識で、1922年に建てられた。 参道入口北にある。

廣田神社

1625年に遷宮されたと伝わる。 1673年に青森御仮屋2代城代に命じられた進藤庄兵衛正次が1670年に境内末社の青森観音堂の再建に尽力されたといわれている。

1910年の火災で焼失した正次夫妻の木像が1948年に復活された。

青森御仮屋

1671年に築かれて城代が置かれ、北海道への前線基地としての役割をになった。 1686年に城代は廃止された。 1864年以降は陣屋と称された。 1871年から1882年までは県庁として使われた。

【今】県庁になっていて、東玄関脇に「青森御仮屋跡」の石碑がたっている。

安方

安方停車場(青森駅)

1891年9月1日に日本鉄道の駅として開業した。  上野・青森間全通(1891年)

青函連絡船就航(1908年)に合わせた連絡待合所などの駅の改築により南へ100m移動した。  青函連絡船廃止(1988年)

東北新幹線の駅は「新青森」になり、JR東北本線は青い森鉄道線になった。  東北新幹線が青森へ(2010年)

沖館

青森大林区署

1886年に開庁した。 1908年に青森県産ヒバ材を主に利用したルネッサンス式木造建物の庁舎が建てられた。 1924年に青森営林局に改称。 1982年に旧庁舎を転用して青森市森林博物館が開館した。

【今】森林に関する資料を展示している。

青森貯木場

青森大林区署に隣接してあった。

津軽森林鉄道

津軽半島の「ひば林」の木材の輸送のための鉄道で、1909年に本線の67kmが完成した。日本で最初に完成した森林鉄道。 青森貯木場を起点として津軽半島を北上し、蟹田で向きを西に変えて2つのトンネルで中山峠を越えて日本海側に抜け、今泉で向きを南に変え、喜良市〔きらいち〕貯木場(現=五所川原市金木町)へ至る。

自動車輸送の発達により衰退し、1967年に幹線が廃止され1970年にはすべての支線が廃止された。 青森市内の線路跡地は、1972年に市に無償譲渡され、市道の整備などに用いられた。

【今】鉄道敷地の道路が残っていて、「津軽森林鉄道碑」がある。