FUKUSHI Plaza街道 Now and Then東海道

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[八丁畷〜]
最終更新日:2011年9月11日

川崎〔かわさき〕宿

【特徴】 東海道を上る旅人には昼食や休憩をとる宿場で、下る旅人には六郷の渡しをひかえた最後の宿泊地であった。 また、川崎大師への分かれ道にもあたっていたため、多くの参詣者が利用した。 油屋、煙草屋、小間物屋、酒屋などの店があり、職人や農民も居住して活気に満ちていた。

【構成】 久根崎〔くねざき〕、新宿〔しんしゅく〕(今の本町一帯)、砂子、小土呂〔こどろ〕の4村で構成されていた。 今の砂子交差点付近が宿の中心だった。

【歴史】 1128年に平間寺〔へいげんじ〕(川崎大師)が建立され、門前町の形成が始まった。 東海道ではもっとも遅く、1623年に宿場として成立した。砂浜の低地で多摩川の氾濫時には冠水の被害に見舞われる地域で、宿の設置にあたっては盛土が施された。当初は本陣がなく、農村とあまり変らない宿場町であった。 1761年の大火で、小土呂から六郷渡し場まで全焼した。 1813年に厄年を迎えた11代将軍の徳川家斉が川崎大師を公式参拝してからは、庶民の間で厄除け大師詣でが流行した。 安政大地震(1855年)、文久の大火では大きな被害を受けた。 1862年には川崎宿一帯が外国人遊歩区域となった。

梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の
大師河原は程ちかし 急げや電気の道すぐに  鉄道唱歌 第1集 4

大空襲のため、江戸の面影はすべて焼失した。

【今】 京急川崎駅前の商店街としてにぎわっている。

【歩く】 新六郷橋を渡り、国道15号線と分かれて右手の細い道へとはいる。「本町」交差点で国道409号線をわたり、「砂子」交差点で市役所通りを、さらに「小土呂橋」交差点で新川通りをわたる。

道標

1663年造立で川崎大師を指示したもの。

【今】道標は川崎大師境内に移築保存されている。川崎大師の燈籠がある。

万年屋

明和年間(1764年〜72年)には十三丈均一の一膳飯屋であったが、奈良茶飯が有名になってから宿場一の茶店となり、旅籠も兼業するようになって本陣をもしのぐようになった。 奈良茶飯は、大豆、小豆、粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、六郷川で採れたシジミの味噌汁または豆腐汁のほか、煮染〔にし〕め、煮豆なども付いていた。もともとは奈良の東大寺や興福寺の僧食であったが、どのようにして川崎に伝来したかは不明である。『東海道中膝栗毛』で有名になり、『江戸名所図会』にも紹介された。

【東海道中膝栗毛】 弥次・北があじの干物でおそい朝食をすませる。

ハリスが下田から江戸に向かう途中田中本陣に泊る予定であったが、あまりの荒廃ぶりを見て急遽万年屋に宿を変更した。  ハリス入府(1857年)

【今】マンションが建っていて、説明版がある。

本陣(田中)

江戸側にあったことから「下本陣」と呼ばれた。延べ231坪の建物であった。

1704年に本陣職を継いだ田中休愚(丘隅)〔きゅうぐ〕は名主、問屋を兼務し、宿場の財政再建や多摩川(六郷川)の治水にも尽力した。1729には幕府代官に任命された。

【今】深瀬小児科医院があり、標柱がたっている。

助郷会所〔すけごうかいしょ〕

公用旅行者のための人馬が集められた。  ことば「助郷」

一行寺〔いちぎょうじ〕

1631年に、念仏弘通〔ぐつう〕の道場として開創された浄土宗の寺。閻魔信仰でにぎわい「おえんまさま」の名で親しまれた。 1983年に本堂・客殿が再建された。

宗三寺〔そうさんじ〕

鎌倉時代の初期に僧玄統が開いた古刹で川崎宿では最も古い。佐々木高綱の菩提寺でもあった。 『江戸名所図会』では「本尊釈迦如来は一尺ばかりの唐仏」と紹介されている。

飯盛女(遊女)供養塔

供養塔

川崎宿貸座敷組合が建立した。墓地の左手奥(京急川崎駅のそば)の角地にある。
[写真]2007年10月撮影

稲毛神社

創建は6世紀ごろとされる。1718年に拝殿を修復し大鳥居を建立したが、安政大地震(1855年)で倒壊した。

【今】「山王〔さんのう〕さん」と通称されている。例祭の川崎山王祭りの宮座式は県無形民俗文化財に指定されている。

問屋場

問屋3人、問屋代4人、年寄5人、帳付6人、人馬指11人の総計29人の宿役人が勤めていたとの記録がある。

【今】近畿日本ツーリスト川崎店になっていて、川崎宿の総合案内板が設置されている。

高札場

本陣(惣兵衛)

田中・惣左衛門両本陣の中間にあったことから中の本陣とも呼ばれていた。 江戸後期に廃業した。

【今】説明板がある。

本陣(惣左衛門)

京都側にあったことから「上の本陣」とも呼ばれた。181坪の建物だった。

佐藤本陣の後裔である佐藤惣之助の生家でもある。惣之助は「赤城の子守唄」「湖畔の宿」「人生劇場」などの作詞をした詩人である。

【今】「佐藤本陣跡 惣之助生誕地」と刻まれた石標がたっている。

小土呂〔こどろ、ことろ〕橋

小土呂橋

幅5mほどの新川堀に架かっていた石橋。 堀は1931年から1933年に埋められて暗渠になった。

【今】擬宝珠〔ぎほうじゅ〕2基が残っていて説明板がある。交差点やバス停に名前を残している。
[写真]2007年10月撮影

教安寺

開山は1553年とされる。富士講を設立し幕末には活発に活動した。

灯籠

1840年に川崎宿内の富士講が建立したもの。 3mほどの大きなもので山門の左手にたつ。

上手土居〔かみてどい〕

川崎宿の京都側からの入口。外国人警護のため第一関門が設けられた。 馬嶋病院が建っていたが駐車場のなった。

【今】説明板がある。

芭蕉句碑

芭蕉句碑

1694年、芭蕉が帰郷に際し、弟子たちと京口近くの腰掛茶屋で別れるときに「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句を詠んだ。
句碑は1830年に俳人の一種によって京口付近にたてられ、その後何度か移動した。

【今】八丁畷駅前に移されている。