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最終更新日:2008年4月21日

熊谷〔くまがや〕宿

【特徴】 忍〔おし〕藩領で、忍藩の陣屋もあった。二、七に市が立ち白木綿・太織物などが売買されていた。酒屋、肴屋などもあってにぎわった。

【歴史】 一谷の戦(1184年)で源氏方の勇将として名を馳せた熊谷次郎直実〔なおざね〕が領有していた地。 地名は直実の父の直貞が熊を倒したのにちなむ。

空襲で市街地の7割を焼失し、宿場らしい景観は消えてしまった。  最後の空襲(1945年)

【歩く】 国道17号線を進み、「鎌倉町」交差点から八木橋百貨店の中を通過して外にでてから、一番街にはいる。やがてまた国道17号線に出て進む。

高城神社

高城神社

905年に延喜式、式内社に指定された。大里郡の総鎮守で熊谷直実の氏神でもあった。石田三成の忍城攻めで類焼したが、1639年に再興された。本殿は1671年の造営。
[写真]2008年3月撮影

高札場

高さ3.3m、長さ5m、幅2mで屋根があった。

【今】「札の辻跡」の標石と説明板がある。 本陣であった竹井家に14枚残っている。

本陣(竹井)

竹井家が務めた。間口は27mで、敷地は現在の国道から星川まで続いていて、日本一の規模を誇るものだったといわれる。 1887年の火災と戦災で焼失した。

【今】「本陣」の標石と説明板がある。

熊谷寺〔ゆうこくじ〕

熊谷寺

熊谷直実が出家した後、1205年に開山した。1854年に焼失し1915年に再建された。 全てケヤキの赤味材を使用した大伽藍。 熊谷直実一族の墓とされる宝篋印塔が残っているが、境内は公開されていない。
[写真]2008年3月撮影

星渓園〔せいけいえん〕

星渓園

本陣竹井家の別邸で、慶応年間(1865〜68年)に星川の源泉である「玉の池」を中心に築かれた池泉回遊式庭園。

【今】公開されている。
[写真]2008年3月撮影

石原

【歩く】 国道17号線を進み、「熊谷警察署前」の交差点で国道407号線を渡り、500mほど先のY字路を左の道にはいる。しばらくの歩道のない2車線の道を歩くことになる。農林総合研究センター前で国道17号線にでるがすぐに「久保島」歩道橋をわたって200m先で右側の細い道にはいる。

秩父道志るべ

秩父道志るべ

3つあるうち左側のものは1766年に造立されたもので「ちゝぶ道、志まぶへ十一り」と刻まれている。「志まぶ」は秩父34ケ所観音札所の第一番の四万部寺のことである。中央は1858年のもので「秩父観音巡禮道、一ばん四万部寺へ、たいらみち十一里」と刻まれている。右側は1847年に江戸講中が初登山記念にたてたもので「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」と刻まれている。
[写真]2008年3月撮影

植木一里塚

植木一里塚

日本橋から17番目の一里塚。南側の塚は石原村に、北側の塚は新島村にあった。

【今】南側の塚が現存し、高さ12m、樹齢約300年のケヤキの大木がたっている。
[写真]2008年3月撮影

新島

忍領〔おしりょう〕石標

忍領石標

忍城主が領地の境界を示すために16箇所にたてたものの一つ。始めは木材を用いていたが1780年に石標としてたて直された。 明治維新で撤去されたが、1939年にこの石標が再発見され、元の位置に再建された。「從是南忍領」と刻まれている。
[写真]2008年3月撮影

玉井窪川越場

『五街道細見独案内』に「満水のときは、往来を人足にて渡すことあり」と記されている。

【今】細い水路があるだけである。

東方

熊野神社

927年に小社を建て上野国碓井郡熊野本宮より奉遷して東方と号した。

国済寺

国済寺

国済寺三門

1390年に深谷城主の上杉憲英〔のりあき〕が創建した。当時は8万坪の広さを誇った。 黒門、三門などが文化財に指定されている。
[写真]国済寺三門(2008年3月撮影)

見返りの松

深谷に泊まった旅人が江戸に向かうときに振り返って別れを惜しんだといわれている。2006年に枯死により伐採された。

【今】石碑があり、2代目が植えられている。