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最終更新日:2011年8月8日

馬籠〔まごめ〕宿

馬籠宿

【特徴】 木曽路の最南端に位置し宿場町として栄えた。両側に石垣を築いて建物が造られた。馬の背のような丘の上にあり、全国でも珍しい「坂に開けた宿場」となっている。

【歴史】 古くは「孫妻」「孫目」とも書いた。豊臣の時代に宿駅の機能を有していたが、1601年に宿として指定された。 水利が悪く風が強いことからしばしば大火に見舞われた。1895年と1915年の大火により江戸時代からの古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したが、その後復元された。 島崎藤村の生まれ故郷で、小説『夜明け前』の舞台となり有名になった。

【今】 全長600mの石畳の坂道に沿って続く軒の低い格子造りの家並みが宿場時代の面影を残す。 宿内は車の進入を禁止し、観光地として整備されている。
[写真]2007年11月撮影

桝形

他の宿場には例のない急傾斜地に設けられたため城郭を思わせる。

陣場

1547年に伊那軍が木曽へ侵入し馬籠城を攻撃した時の陣跡。 小牧・長久手の戦(1584年)で、木曽に攻め入った家康方の兵の一部が馬籠城を攻略すべく、陣を敷いた。

【今】一帯の地名になっている。展望台には「馬籠上陣場」としるされた四阿がある。

高札場

高札場

木曽代官により毒薬・キリシタン禁止・徒党禁止等の高札が掲げらた。

【今】復元され、1711年の「御朱印、毒薬等の定書き」や1770年の「徒党禁止」の札などが楷書に書き直され掲げられている。 バス道を横切って続く馬籠の宿が見渡せる。

脇本陣(八幡屋)

代々、年寄り役をつとめた蜂谷家で屋号が八幡屋〔やわたや〕である。酒造・金貸しもした金満家で、初代源十郎から4代100年にわたって書き残された文書は『夜明け前』の資料となった。 『夜明け前』に登場する桝田屋のモデル。 16部屋を有した大規模なものだったが1895年の大火で焼失した。

【今】馬籠脇本陣資料館になっていて、諸大名が宿泊した上段の間の復元や蜂谷家に伝わる古文書・民具なども展示されている。

大黒屋

大黒屋

酒を醸造していた。 10代目大脇兵右衛門が1826年から1870年まで書き続けた大黒屋日記がきっかけで『夜明け前』の執筆が始まったとされる。小説では伏見屋金兵衛として登場する。藤村初恋のおゆふはここの娘であった。

【今】酒林を吊るし民芸と喫茶の店になっている。

本陣(島崎)

島崎氏は馬籠城を守った島崎監物の子孫といわれ、本陣と問屋をつとめた。 島崎藤村の生家でもある。 1895年の大火で焼失した。

1947年に村人によりふるさと友の会が結成され、藤村堂が建てられた。1952年に藤村の長男から約5000点の資料の寄贈を受け、藤村文庫(展示室)が完成、藤村記念堂として開館した。

【今】冠木〔かぶき〕門が復元され、藤村記念館として公開されている。庭に母屋の礎石が残っている。

隠居所

大火で焼け残った本陣唯一の建物。藤村の祖父母が暮らしていた。『夜明け前』や童話集にもたびたび登場する

蜂谷家

『夜明け前』の梅屋のモデル。

【今】観光案内所になっている。

永昌寺

1558年に創建された臨済宗の古刹。堂宇は寛政年間(1789年〜1801年)に再建された。 恵那山を望む小高い丘の上にある。寺宝に阿弥陀如来像や円空仏がある。 島崎家の菩提寺だが、藤村の墓には遺髪と爪が納められているだけ。『夜明け前』の万福寺のモデル。

清水屋

初代から組頭ほかの要職を勤めた家。8代目は藤村と親交が深く、『嵐』にはあ「森さん」で登場する。

【今】資料館になっていて、藤村書簡や馬籠の文化・生活を知る資料が展示されている。

桝形

桝形

直角に2度折り曲げてあり、山手側は切り土になっている。 1905年の道路改修により原形を消失したが、その後復元された。

【今】石垣が残っていて、常夜灯がたっている。緩やかにカーブする新道もあるが石段を下りて左に折れるのが旧街道である。

阿弥陀堂

円空作の聖観音立像が安置されているが非公開。

馬籠〜

馬籠城(丸山城)址

1558年に木曽義昌が築城、島崎監物により守られたと言われている。 小牧・長久手の戦(1584年)では豊臣方島崎重通が守ったが大軍に攻められ妻籠城に脱出した。関ヶ原の戦の後廃城になった。

【今】城の遺構は残されていない。街道沿いに庚申塚などの石像物があり説明板がある。

諏訪神社

島崎正樹翁碑

島崎正樹は藤村の父で『夜明け前』の青山半蔵のモデルである。1905年にたてられた。鳥居のそばにある。

新茶屋

立場茶屋があって、名物のわらび餅を売っていたと伝えられる。十曲峠にあったのが江戸時代の終わりころに移ってきことから名付けられた。

【今】小公園があり美濃路を一望できる。

翁塚〔おきなづか〕(芭蕉句碑)

馬籠の大黒屋・大脇兵右衛門の発案により「美濃派」と称する俳人たちが1842年にたてた。 碑面には「送られつ送りつ果は木曽の龝〔あき〕(秋)」、裏には「天保十三壬寅年水無月建之裏梅園古狂」と刻まれている。 芭蕉はこの道を1684年と1688年に通っているが、句は2度目のときのもの。

島崎藤村の『夜明け前』でも序章で「句塚の建てられた頃は、何と言っても徳川の代はまだ平和であった」などと言及されている。

国境

街道を横切る水抜きの細い溝が「美濃」と「信濃」の国境になっていた。 また、中津川市に越県合併されるまでは岐阜県と長野県との県境であった。  越県合併(2005年)

自然石に「是より北 木曽路 藤村老人」と刻まれた碑がたっている。1940年の島崎藤村の揮毫によるもので、藤村記念館落成10周年を記念して1957年にたてられた。「国境」の標石もある。

新茶屋一里塚

新茶屋一里塚

日本橋から83番目の一里塚。「84里目」という説明もある。 立木は西塚(江戸から京に向かって右)に松、東塚はなしだった。

【今】東塚が形状を保っていて、1993年に整備され榎が植えられた。西塚には松が植えられた。 「一里塚古跡」と刻まれた石碑があり、説明板がある。
[写真]東塚(2007年11月撮影)

十曲〔じゅっきょく〕峠

十石峠ともいう。 どこを指すかははっきりしないが下桁橋から医王寺間を指していたものと考えられている。

落合の石畳

落合十曲峠付近から馬籠宿にかけての山道は難所のため歩行の便宜をはかり道路の欠損を防ぐために自然石を敷き詰めて整備した。江戸時代末期と推定されているが敷設時期は不明である。荷車等などが通るようになって次第に取り除かれていった。

【今】1988年から1993年に、約840mにわたって復元した。 このうち、江戸時代から保存されていた3カ所(全長約70m)は岐阜県の史跡に指定されている。

なんじゃもんじゃの杜〔もり〕

学名を「ヒトツバタゴ」というモクセイ科の落葉高木で、木曽川流域に分布する。5月頃の開花で小枝に多数の花を咲かせ満開時には樹上が真っ白で雪が積もったようになる。村人が正式名を知らなかったっことから「なんじゃもんじゃ」と呼んでいた。

医王寺(山中薬師)

天台宗の寺院であったが争乱で廃寺となったのち、1544年に再興して浄土宗に改宗したと伝えられる。京都知恩院の末寺。 聖武天皇のころ、勅命を受けた行基が各地を周り薬師如来を刻んで安置し、諸国に流行した疫病の治癒法を伝授したものであるといわれている。 日本三薬師のひとつで、虫封じの薬師としても知られる。 切傷に効く「狐膏薬〔きつねこうやく〕」が有名で、寺の住職が夢の中でトゲの刺さった狐を助けた礼に製法を授かったという。

枝垂桜

伊勢湾台風で倒れ、今は2代目。

芭蕉句碑

1853年の建立のもので「梅が香にのっと日の出る山路かな」と刻まれている。 本堂の左手の庭にあるがわかりづらい。

下桁〔しもけた〕橋

落合川にかかり、江戸時代には「大橋」「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあったといわえれている。洪水によりたびたび流失した。

飯田橋道標

「右神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ」と刻まれている。神坂峠を越える道は岐蘇山道が開通する以前の東山道にあたる。