FUKUSHI Plaza街道 Now and Then甲州街道日本橋

丸の内

最終更新日:2013年4月13日

呉服町

【歩く】 日本橋から南に進み「日本橋」交差点で東海道から分かれて右折し、永代通りを進む。日本橋からすぐ西に進み日本橋川沿いに歩いて一石橋で左折して呉服橋を右折するルートを示すものもある。 東京駅の日本橋口あたりから南にはいり北口から和田倉橋にでるのが正しいルートのようだが、便宜上永代通りを直進してJRの高架をくぐり、「大手町」交差点で左折してもよい。 馬場先濠沿いに進み「日比谷」交差点で右折し、半蔵門前で左折する。

柳屋総本店

日野商人外池宇兵衛が1821年に開いた。

【今】柳屋ビルになっている。

後藤縫之助

幕府の御用達の呉服商の屋敷。

一石橋〔いちこくはし〕、八つ見の橋

八つ見の橋

常盤橋と呉服橋の間に、外堀から東に流れる日本橋川に架かる最初の橋。 北の金座に後藤庄之助が、南には呉服商の後藤が住んでいるため、五斗(後藤)が二つで一石としゃれた。永楽銭一貫と米一石を取り替えたからだという説もある。 西には道三堀にかかる銭瓶橋〔ぜにかめばし〕、北には常盤橋、南には呉服橋と鍛冶橋、東には日本橋と江戸橋、そしてこの橋とあわせて八つの橋が見えることから「八つ見の橋」といった。

【広重「八つ見乃橋」】 画面左下が一石橋の欄干で、中央に見えるのは銭瓶橋と道三橋である。  切手と美術「名所江戸百景」

一石橋迷子知らせ石標

一石橋迷子知らせ石標

日本橋西河岸町の17人の家主が1857年に建立さした迷子標石。碑面には「満よひ子のしるへ」、左右側面に「たづぬる方」「しらする方」とある。  詳細

「満よひ子のしるへ」の「へ」の字のすぐ下に几〔き〕号が刻まれている。

【今】現存し、説明板がある。石碑のレプリカが江戸東京博物館にある。
[写真]2008年8月撮影

丸の内

現在の外堀通りの内側、東京駅とその周辺をさす。 徳川家康が入府して入江を埋め立てて城を拡張した際に、かつての外堀が内堀となり、拡張された部分を御曲輪内〔おくるわうち〕と呼んだのがもとになった。江戸幕府が開かれると、政府機関に加えて諸大名の屋敷が建ち並んだ。

呉服橋

町人用の橋であったと推定されている。

外堀の埋め立てにともない1951年に消滅した。

【今】「呉服橋」交差点になっていて、上に首都高がある。

常盤橋御門

江戸城への出入口として重要な位置をしめていた。

【今】跡地が小公園として整備されている。

牢屋敷

門内に町年寄・奈良屋市右衛門と金座・後藤庄三郎の屋敷に置かれていたが、1677年に伝馬町に移された。  伝馬町牢屋敷

常盤橋

現存する都内最古の二連アーチ型石橋。

北町奉行所

江戸時代後期に北町奉行所があった。江戸時代初期には南奉行所があった。 1840年から3年間、遠山左衛門尉景元(通称=金さん)が任務にあたっていた。

【今】「奉行所跡」の標識がたっている。

平将門首塚

将門塚

730年に神田明神が創建された。

殺された平将門〔まさかど〕(940年)の首が京から飛んで来てこのあたりに落ち、夜に怪光を放って柴崎村の村人を苦しめたが、鎌倉時代に神田明神にまつって首塚をつくったところ祟りがおさまったという伝承がある。

1307年に将門の霊を供養する石塔婆がたてられた。焼損のたびに復刻し1940年にたてかえられたものが残っている。

1889年に大蔵省が設置された。関東大震災(1923年)で崩壊した塚を取り崩して仮庁舎を建設したところ、大蔵大臣や官僚たちが次々と病死したため復活した。 第2次大戦後、GHQが塚をつぶして駐車場にしようとしたときも死者がでて、保存されることになった。

【今】ビルの谷間のに残っている。
[写真]2004年8月撮影

熊本藩上屋敷

熊本藩主細川家の上屋敷。

【今】丸の内センタービルなどになっている。

評定所

幕府の訴訟裁判機関。寺社奉行、勘定奉行、町奉行それぞれの受けもつ事項のうち、他の奉行に関係している内容や重要事項で単独では決められない事項を採決した。

伝奏屋敷

勅使、院使などの江戸下向に際しその宿舎としたところ。伝奏御馳走役を命じられた大名は、この屋敷に引き移り、高家の指図を受けながら一切の世話をした。

江戸城

太田道灌が築き、徳川氏が15代265年間居城した。別名「千代田城」とも呼ばれる。  江戸城完成(1457年)

【今】皇居になっている。

大手御門

江戸城の正門で大名達が入城した。現在パレスホテルが建っているあたりは大名たちの控え所で、各藩の大名行列が大手門をくぐる順番をまっていた。

外の門、扉外側の右側石垣最下段側面に几〔き〕号が刻まれている。

【今】東御苑の入場口になっている。

本丸

江戸城の中心。 本丸御殿にあった松の廊下で刃傷事件(1701年)が起きた。

【今】皇居東御苑として公開されている。

天守閣

1607年に完成し、高さは51mほどであった。 振袖火事(1657年)で焼失し、以後再建されなかった。

北東隅の石垣の最下段の東面には几〔き〕号が刻まれている。

岡山藩上屋敷

慶長年間(1596年〜1615年)に池田輝政が屋敷を建ててから幕末まで備前岡山藩の池田(松平)内蔵頭〔くらのかみ〕家の上屋敷となった。 その後陸軍の弊社と練兵場となり、1890年に三菱財閥が土地を購入した。

【今】新丸ビル、郵船ビル、三菱商事ビルなどのオフィスビルが建ち並んでいる。

和田倉御門

徳川家康が江戸にはいったあと、一の蔵地として通行の橋を架け、門を蔵の御門と称した。

【今】橋が昔の姿に復元されている。

坂下御門

1862年、門外で安藤信正が尊王攘夷派の志士に襲撃された。

【今】宮内庁の通用門になっている。

八代洲〔やよす〕河岸

江戸城の東、和田倉門と馬場先門との間にある内堀の東側を称した。 「八代洲」の地名は、ヤン・ヨーステン(日本名:耶揚子)が屋敷を与えられて住んだことに由来する。 後に「八重洲河岸」と書いたが、町があった訳ではない。  按針漂着(1600年)

明治から「八重洲町」と称したが、1929年の町名変更により、当時の八重洲1丁目・2丁目などが併合されて丸の内2丁目となり、その時点で八重洲という地名は東京駅の東側のみとなった。

【今】東京駅の東側に八重洲の地名が残っている。
中央区八重洲2丁目1(八重洲通りの中央分離帯、「平和の鐘」の足元)にヤン・ヨーステンのレリーフがある。
東京駅八重洲地下街オレンジ通りの北側の突き当たり、ノーススポットにヤン・ヨーステン記念像がある。

林大学頭〔はやしだいがくのかみ〕

江戸幕府の儒官、林家の上屋敷。林大学が最初の儒官となり、孫の林鳳岡〔ほうこう〕が大学頭に命じられ、以降世襲制でこの任に就いた。

【今】丸の内三井ビルなどになっている。

火消役屋敷

火消役とは「定火消」のことで、常勤の組織として旗本が指揮した。 歌川広重はここで生まれ、火消同心であった。

【今】明治生命館になっている。

鳥取藩上屋敷

鳥取藩の池田(松平)相模守家の上屋敷。鳥取藩は因幡と伯耆〔ほうき〕の2カ国で32万5千石。 屋敷の門は国立博物館に移転・保存されている。 跡地に帝国劇場が建設された。関東大震災で焼け落ちたがすぐに再建された。  帝劇開場(1911年)

【今】国際ビル、帝劇ビルになっていて、帝国劇場や出光美術館などがある。

日比谷見附門

1627に築造された。

【今】濠の跡が心字池になっていて、回りに石垣が残り説明板がある。

佐賀藩上屋敷

佐賀藩鍋島松平肥後守の上屋敷。 明治維新後は火災焼失により「日比谷ヶ原」と呼ばれる原野と化し、操練場(練兵場)として使われ、日本最初の観兵式が行われた。その後日本初の洋式公園となった。  開園(1903年)

【今】日比谷公園になっている。

霞が関

米沢藩上屋敷

江戸時代を通じて米沢藩上杉家の上屋敷であった。 1895年に司法省庁舎が建てられた。

【今】法務省本省になっている。関東大震災や空襲にも耐えた建物は重要文化財に指定されている。

桜田門

西の丸南西内濠の一つで、1663年に建立された桝形門。小田原街道への出発点とさあれ、古くは小田原口とも呼ばれていた。 辰己櫓の西にある内桜田門(桔梗門)に対して外桜田門とも呼ばれる。  桜田門外の変(1860年)

門の内側にある渡櫓門の内側左の石積の下に几〔き〕号が刻まれている。

杵築〔きつき〕藩上屋敷

杵築藩は親藩で、豊後〔ぶんご〕(現=大分県)の国東〔くにさき〕半島にある小藩。 桜田門外の変(1860年)のとき、浪人たちは塀沿いで待ち伏せた。

【今】警視庁になっている。

広島藩上屋敷

芸州広島藩浅野家の上屋敷。

【今】国土交通省になっている。

彦根藩上屋敷

近江国彦根藩(現=滋賀県彦根市)井伊家の上屋敷。 井伊直弼が江戸での生活に使っていた。桜田門外の変(1860年)のときもここから出発した。

【今】憲政記念会館になっている。

田原藩上屋敷

三河田原藩三宅家の上屋敷。景勝地として知られた。 江戸年寄役を務めた渡辺華山は藩邸内の長屋で生まれた。

【今】最高裁判所、国立劇場になっている。三宅坂の由来。

隼町一里塚

日本橋から最初の一里塚だが、実際に塚があったかどうかは不明。  甲州街道の一里塚

半蔵御門(甲州口御門)

築造は1627年で、古くは麹町門と称した。 徳川家康の三河時代からの家来・服部半蔵の組屋敷が門外にあったことから半蔵門と呼ばれるようになった。 江戸城裏門にあたり、一大事があれば家康はここから甲州街道に抜け、甲州に逃げることになっていたという。 山王神社の祭りの日には、山車が門を通って城内にはいった。

【広重「糀町一丁目山王祭ねり込」】 山車行列が半蔵門から城内にねりこもうとしているところを、三宅坂のあたりから桜田濠越しに望んでいる。  切手と美術「名所江戸百景」

戦災で焼失したため、吹上口門を移築した。

【今】一般公開はしていない。 田安門に至る堀端は桜の名所になっている。