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日本橋

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最終更新日:2014年6月8日

日本橋〔にほんばし〕

日本橋 日本橋 日本橋雪晴 日本橋江戸ばし

初めて架けられたのは1603年と伝えられている。 橋の長さは27間4尺3寸、幅4間3尺5寸、橋脚8本。欄干には擬宝珠が施された反りのある木橋だった。 名の由来は諸説あってはっきりしない。 初めは丸太を2本渡しただけだったので二本橋といったという説もあるが、東の海から朝日が昇るのを望めることから名付けられたという説が一般的のようだ。 1604年に五街道の起点に定められた。それまで東海道の起点はであった。  日本橋架橋(1603年)

明暦大火(1657年)で焼失し、以後何度も火災などにあって改築・修築が繰り返された。  大改修(1618年)

【広重「日本橋 朝之景」】 橋の南詰(京橋側)から北東に向かい、開かれた大木戸を通して朝日のあたる早朝の日本橋を真正面に見据えた眺め。 挟み箱と毛槍を先頭に参勤交代の大名行列が橋の上を渡ってくる。橋の手前左手には天秤棒をかついだ魚売りの商人、左側には高札場と、日本橋を象徴するものが、そして右下では二匹の犬が描れている。  切手と美術「東海道五拾三次」

【広重「日本橋 行烈振出(後版)」】 「賑やかな日本橋」に直され、大名行列の手前に魚売り、野菜売り、花屋を始めとした庶民の姿が描かれている。 切手の図案ではカットされているが、左端には白装束姿の南蛮渡来人の姿もある。  切手と美術「東海道五拾三次」

【広重「日本橋雪晴」】 日本橋の北詰東側にあった魚河岸上空から南西を望んだ快晴の朝の雪景色を描いている。 日本橋の上には大名の一行が描かれ、その向こうには一石橋、江戸城、そして遠くに富士山が見える。  切手と美術「名所江戸百景」

【広重「日本橋江戸ばし」】 日本橋北詰から江戸橋を見た。江戸橋は現在の橋より90mほど東にあった。 仕入れを終えた担ぎ売りが飯台に鰹をいれて橋を南の方へ戻っていく。 画面右側の河岸は土手蔵の並ぶ四日市川岸と、その向こう房州行きの船が出る木更津河岸である。 また、江戸橋の背景の白壁の倉は小網町一丁目の末広河岸と二丁目の鎧〔よろい〕河岸である。  切手と美術「名所江戸百景」

高速道路

現在の橋は1911年に架けられたもの。 花崗岩で造られたアーチを2つ並べた形で、東西の高欄上には麒麟や獅子をあしらった青銅製の装飾照明灯が設置された。想像上の動物である麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表している。さらに街道の起点の意味で、松と榎がデザインされた。 「日本橋」「にほんばし」の橋銘は15代将軍・徳川慶喜の筆によるもので、木の橋だったころの最後のものがそのまま保存されている。重要文化財。  日本橋完成(1911年)

1962年から1968年にかけて橋をおおうように高速道路が建設され、景観が台無しになった。  首都高速道路開通(1964年)
[切手]首都高速道路 1964年8月1日発行 (図案:国分商店本社ビル<現=K&K国分第一ビル>の4階から見た高速道路、右下に日本橋が見える)

晒し場

橋の南詰東側に間口5間の小屋の晒し場があった。主殺し・女犯僧、心中者のかたわれなどの処刑者を見せしめのために「晒し箱」に入れ、首かせをかけて晒した。

【今】滝の広場と交番がある。

高札場

官報

橋の南詰西側に、高札場があった。
[切手]官報100年記念 1983年7月2日発行 (図案:官報第1号と三代広重画「日本橋御高札場之図」)

【今】花の広場になっていて、高札をかたどった「日本橋由来記の碑」が建っている。

道路元標〔どうろげんぴょう〕

1873年に改めて国内諸街道の「里程元標〔りていげんぴょう〕」となった。 1911年に現在の橋が架けられたとき中央に鉄製の「東京市道路元標」が設置され、都電の架線柱として使用された。 1972年の道路改修に伴い北詰西側に移され、替わりに「日本国道路元標」が埋め込まれた。文字は元首相・佐藤栄作の筆による。

橋の北詰西側が「元標の広場」になっていて、「東京市道路元標」と「道路元標複製」がある。 国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号が日本橋を起点としている。

日本橋周辺

日本橋魚河岸

の漁師・森久郎右衛門が将軍家御用の魚を納めた残りを売り出す許可を得たのが始まりとされる。やがて江戸周辺の漁師たちも商売をするようになり、江戸随一の魚市場になった。  

日本橋北詰の東側からさらに伸びて広がり今の三越の前を入って昭和通りの近くまでの広い場所にあった。 1872年に表通りでの市が禁止され、本小田原町(現=室町1丁目東部から日本橋本町1丁目西部のあたり)にまとめられた。 関東大震災(1923年)の後、暫定的に芝浦に移されてから築地に移った。

【今】日本橋の北詰東側に「日本橋魚市場発祥の地」の碑がたっていて、一画は乙姫広場と呼ばれている。

思案橋

遊郭で遊ぶか、芝居を見るか、客が思案するところから、その名があったという。 思案橋事件(1876年)がおきた。

日本橋川に注いでいた東掘留川と共に失われた。

人形町

元吉原

葭〔よし〕・茅〔かや〕の生い茂る沼地2町(約218m)四方を囲って遊女町を作った。  吉原開業(1618年)

当初は「葭原〔よしはら〕」といったが、その後、「吉原〔よしわら〕」と改称した。移転後の新吉原に対して元吉原と呼ばれた。  吉原  吉原移転(1657年)

大門通り

吉原大門からつながる通りで、吉原が浅草に移った後には道の両側に金物の商いが数十件も軒を連ねるようになった。

【今】通りの名が残っている。

玄冶店〔げんやだな〕

江戸時代、ここ新和泉町に住んだ名医岡本玄冶にちなんで玄冶店という。 幕末に歌舞伎の『与話情浮名横櫛〔よわなさけうきなのよこぐし〕』の「源氏店〔げんじだな〕の場 切られ与三郎」のゆすりが見せ場になってから一般に親しまれるようになった。  東海道「天妙国寺」  流行歌「お富さん」

1968年建立の碑がある。

末広亭

103年間続いた寄席。  開業(1867年)  廃業(1970年)

【今】石碑がたっている。 

蠣殻町銀座跡

1800年に新両替町(現=銀座2丁目)から移され、主に丁銀と小粒銀が造られた。