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最終更新日:2011年9月11日

小田原〔おだわら〕宿(小田原城下)

【特徴】 小田原藩11万3000石の城下町。 箱根峠を控えていることから、江戸から2泊目の宿泊客が多く、東海道有数の大宿であった。 江戸を出発して初めて通る城下町でもある。

【構成】 江戸側から新宿町〔しんしくちょう〕、万町〔よろっちょう〕、高梨町〔たかなしちょう〕、宮前町〔みやのまえちょう〕、本町〔ほんちょう〕、中宿町〔なかじくちょう〕、欄干橋町〔らんかんばしちょう〕、筋違橋町〔すじかいばしちょう〕、山角町〔やまかくちょう〕と続く。また、東海道筋の南側の古新宿町〔こしんしくちょう〕、千度小路〔せんどこうじ〕、代官町〔だいかんちょう〕、茶畑町〔ちゃばたけちょう〕は「脇町」といい、魚商 、廻船業、漁業関係者が多く住んでいた。

【歴史】 古代からの交通の要地で、平安時代から町があった。 江戸時代には、大久保氏、阿部氏、稲葉氏歴代の城下町であるとともに、東海道の宿場町として栄えた。 元禄大地震(1703年)では被害が激甚であった。 鉄道の開設により繁華街は小田原駅周辺となった。空襲の被害もあった。  最後の空襲(1945年)

【東海道中膝栗毛】 弥次・北は五右衛門風呂へのはいり方がわからず、下駄をはいてはいった北が鍋の底を踏みぬく。

【今】 老舗が多く残り旧町名の石柱がたっていたりして旧街道の雰囲気がある。

【歩く】 「新宿」交差点で海手にはいりすぐ右に曲がると蒲鉾の老舗が軒を連ねている。 「なりわい交流館」で休憩ができる。 「本町」交差点から道幅が広がり国道1号線となる。

小田原山王原一里塚

日本橋から20番目の一里塚。 『相模風土記』によると江戸口の外南側にあり、高さ6尺6寸(約2m)で、街道の両側にあった。

【今】左側だけわずかに痕跡があり、「江戸口見附並一里塚址」と刻まれた石碑がたっていて、説明板がある。

江戸口見附

小田原宿の江戸側の入口で、山王口または江戸口と呼ばれた。 江戸初期に外濠や土塁を壊して東海道を通す時に桝形を作り見附とした。 江戸方面からは土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城内にはいる形で、はいるとすぐ右手に番所があり通行人の監視などにあたっていた。

【今】「小田原城址江戸口見附址」の標柱がたっていて、説明板がある。

北条稲荷

北条氏康の死去を老狐の祟りと考えた子の氏政が社を建てて守護神として祀った。

蛙石〔かわづいし〕

蛙に似た石で、後北条氏小田原城落城前夜に夜泣きしたと伝えられている。

外郭土塁

後北条氏時代の小田原城の外郭遺構。低地にあるのはこの土塁だけ。

脇本陣(小清水)

【東海道中膝栗毛】 弥次・北は「小清水か白子屋に泊まるつもりだ」とほらを吹く。

【今】向かい側に移転し「大清水」と一緒になり古清水旅館として営業している。館内には資料などを展示しているコーナーがある。

本陣(大清水)

清水金左衛門がつとめた。天保期には間口18間、屋敷面積400坪、建坪242坪の大本陣で、「大清水」とも呼ばれた。 尾張徳川家をはじめ、島津(薩摩)、細川(肥後)、浅野(安芸)、井伊(近江)、池田(備前)、藤堂(伊勢)、山内(土佐)の諸大名が宿泊した。 明治天皇が5回宿泊した。

【今】「明治天皇宮ノ前行在所跡」の石碑と標柱がたっている。

松原神社

北条氏綱〔ほうじょううじつな〕の時代に海中から出現した十一面観音の金銅仏を祀った。「松原明神」と呼ばれるようになった。 祭神は日本武尊で後北条氏の庇護により隆昌した。 1686年、老中大久保忠朝が佐倉より小田原に転じた折、小田原宿惣町の総鎮守として盛大な祭礼を行うようになった。

1873年、足柄県の県社に指定され、以後小田原の総鎮守的象徴として、祭礼は大稲荷神社と合同で全市あげて盛大に行われている。

高札場

【今】名残は何もない。

徳常院

露座の大仏

片足を下げたかたちで延命地蔵尊とも呼ばれる。総身5mの青銅製。 かつて元箱根の賽の河原にあったが廃仏稀釈で売りに出されこの寺にきた。

本陣(片岡)

片岡永左衛門がつとめた。

【今】「明治天皇聖蹟」と刻まれた石碑がたっている。

小伊勢屋

400年以上前に創業した旅籠。

【今】旅籠茶屋として営業していて、敷地の一部に茶屋風の食事処「古い勢」が増設された。

本陣(久保田)

久保田甚四郎がつとめた。

【今】痕跡は何もない。

外郎家〔ういろうけ〕

外郎家

先祖は中国人で、陳外郎〔ちんういろう〕と名乗った。2代目が家伝の秘薬を日本に持ち帰った。この小粒の丸薬は外郎〔ういろう〕とも呼ばれたが、のちに「透頂香〔とうちんこう〕」と名付けられた。5代目のとき北条早雲が小田原に城を築くにあたり招かれ、1504年に城下に移り住むことになった。 江戸時代には万能薬として知られ、『東海道中膝栗毛』では喜多さんが菓子の外郎と勘違いして薬の外郎を食べてしまう場面がある。  「外郎売」の口上(1718年)

約600年前に京都にいたころ作られた客の接待用の菓子も「外郎氏の菓子」から「外郎」と呼ばれるようになり、製法は名古屋をはじめ全国各地に広まった。

八ツ棟造りの建物は1523年に建設されたが、地震による倒壊とその後の再建を繰返した。関東大震災で崩壊したが、1998年に復元された。

【今】今でも健在で、城の形の建物に「ういらう」の表札を出している。店内では「お菓子のういろう」を、隣の薬局もでは「薬のういらう」も販売していている。 店の裏手にある1885年築の蔵を利用した博物館では、薬を作る道具など外郎家にまつわる品々を展示していて、店の人に頼むと案内してくれる。
[写真]2007年6月撮影

本陣(清水彦十郎)

清水彦十郎がつとめた。

【今】痕跡は何もない。

小田原城

1417年に大森氏が初めて城を築いたが、後に北条早雲が大森氏を滅ぼし北条氏5代の本拠地となった。 総曲輪は、永禄年間(1558年〜69年)ごろから造り始められ次第に拡大され、1590年早春に完了したものとされる。 1561年に上杉謙信、1569年に武田信玄の大軍に包囲されたが落ちず、難攻不落の名声を轟かせたが、豊臣秀吉軍に攻められて落城した。  秀吉天下統一(1590年)

【今】城址公園になっている。大規模な空堀が残っているだけだが、1960年に天守閣が復元された。

大久寺〔だいきゅうじ〕

小田原大久保氏の氏寺。墓所には大久保氏の墓がある。

居神〔いがみ〕神社

三浦半島の豪族の子三浦義意〔よしおき〕の首を弔い祠を建てたのが始まりという。 輿の巡行は1521年から始まる。 板橋と山角町の氏神。 境内に鎌倉末期の古碑群が残されている。

光円寺

1633年に春日局が開基したといわれているが、光円寺と名称したのは1655年。

板橋(上方)見附

小田原城下の西端にあたる。外側は板橋村で、京都側なので板橋口または上方口と呼ばれた。 矢来門がたてられ、周辺の土塁は石垣で補強されていた。内側には小田原藩の御番所が設けられ、藩士が常番で詰めて通行を監視し、門の外側にも「尻番所」と呼ばれる番所があった。 東海道は板橋口を出ると一度北に折れて再び西に曲がっていて、外からは中の様子をうかがえない構造になっていた。

【今】国道は直進しているが、当時の地形は旧道として残っている。 光円寺の脇に説明板がある。

板橋

【歩く】 新幹線の高架の手前の「板橋見附」交差点で国道1号線から右にはずれて板橋旧道にはいる。静かでな町並みが残っている。箱根登山鉄道の高架をくぐり「上板橋」交差点で国道と合流する。このあたりからなだらかな上り坂となり、箱根登山鉄道と早川に挟まれた道を進む。

板橋の地蔵尊

板橋の地蔵尊

1569年、香林寺の和尚が湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移奉した。 「板橋のお地蔵さま」と呼ばれ、3年間お参りすると必ず故人に似た人に出会えるといわれた。 毎年1月と8月の23日、24日が縁日で、境内と参道に市が立ちにぎわう。
[写真]2007年6月撮影

小田原用水取入口

早川の水を取入れた後、板橋村の人家の北側を通し、板橋見附から旧東海道を東に流れ、古新宿町を通り、江戸口見附門外蓮池に流れ出たが、途中で分水され城下の飲用水として使っていた。 後北条氏時代につくられたとされ、日本の水道施設の中では初期のものである。

【今】遺構があり、説明板がたっている。

細川忠興〔ただおき〕陣所跡

土塁と空塀でつくられた山城形式の陣所で、城外の砦として後北条氏が出兵していた。 豊臣秀吉の命を受けた細川忠興が小田原城攻囲の際に奪取したと伝えられる。

象ケ鼻

鼻石の形が象鼻に似ているところから呼んでいた。

日蓮聖人が石の宝塔を建てた。1293年日蓮の弟子が寺を建て象鼻山妙福寺と命名した。1913年に廃寺となり、 蓮正寺に合併され板橋に移り生福寺となっている。

【今】「日蓮聖人霊跡」として石碑と説明板がある。

風祭

【歩く】 小田原厚木道路の高架のあたりで踏切を渡って左手の細い道を進む。 入生田駅を過ぎたところにある踏切を渡り、また国道1号線と合流するが、すぐに1本右の細い道を進むことになる。その後国道と合流しガードレールで区切られた狭い歩道を歩くことになる。国道の交通量は多くいつも渋滞している。

風祭一里塚

日本橋から21番目の一里塚。 『相模風土記』に「東海道側に雙候あり、高各一丈、塚 上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里候に続けり」とある。 北側が男塚、南側が女塚で、それぞれ高さが10尺(約3m)、6尺(約2m)だったようだ。 1879年に榎が切倒され、取り壊された。

【今】「小田原の道祖神」の標柱と説明板がある。

入生田〔いりうだ〕

長興山紹太寺〔しょうたいじ〕

1635年に小田原城主稲葉美濃守正則が父母の追福のため小田原城下の山角町(南町)に創建し、1669年にこの地に移した。

境内のしだれ桜も有名である。 石段を登ったところに春日局と稲葉一族の墓がある。

石垣山一夜城跡

1590年に豊臣秀吉軍が高さ257mの石垣山に石垣を築き、櫓を造ったが、小田原城方面をさえぎる樹林をいっせいに伐採したので小田原城から見ると一夜にして城ができたようにみえた。

【今】石垣が残り、石垣山一夜城歴史公園として整備されている。

山崎古戦場

1868年に官軍の先鋒となった小田原藩と幕府遊撃隊が戦った場所。

【今】碑がたっている。