FUKUSHI Plaza街道 Now and Then

奥州街道

最終更新日:2011年8月28日

宿場、史跡、見所

栃木県[下野国]

福島県[陸奥国〔むつのくに〕(磐城〔いわき〕、岩代)]

宮城県[陸奥国(磐城、陸前)]

岩手県[陸奥国(陸中、陸奥〔りくおう、りくおく〕)]

青森県[陸奥国(陸奥)]

奥州街道の一里塚

奥州街道について

ルート

正式名称は奥州道中のようだが、江戸時代の呼称は他に奥州道・奥街道・奥州街道など様々あり定かではない。 日本橋から白河までは27次で、江戸幕府の直接の管理下にあった。 家康改葬(1617年)以降、宇都宮までは日光街道と呼ばれるようになった。

白河から先の街道の整備は街道沿いの藩によって行われた。 白河から仙台までを仙台道中・仙台道、仙台からを南部道、盛岡から蝦夷筥館〔はこだて〕(現=北海道函館市)までを松前道と呼ぶこともあった。 白河から三厩までは87次である。

道路

旧陸羽街道とほぼ一致する。 並行して国道4号が通っているが、宇都宮・白河間、大和・三本木間、盛岡・玉山間、三戸・五戸間では大きくそれる。 少し離れて東北自動車道が走っている。 青森からは松前街道(国道280号、339号)が一致する。

鉄道

JR東日本の東北本線がほぼ並行して走っているが、宇都宮までは宇都宮線の愛称で呼ばれる。 盛岡からはIGRいわて銀河鉄道線となる。 青森県にはいって目時からは青い森鉄道線になるが、次の三戸で離れて野辺地から再び並行して青森まで走る。 少し離れて東北新幹線が走っているが、七戸で八甲田山方面にそれてしまう。 青森から三厩まではJR東日本の津軽線だが、蟹田から今別までは街道から離れて内陸部を走っている。

歴史

奈良時代には多賀城が造営され、都の往来が多くなったが、東海道のようには整備されていなかった。江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられ、37家の大名が使用した。 江戸中期には蝦夷地開発のため、江戸末期にはロシアに対する蝦夷地防衛のために往来量が増加した。

芭蕉が「おくのほそ道」の旅(1689年)で、千住から平泉まで歩いたが、途中で大きくそれているところもある。

伊能忠敬が、 第1次測量(1800年)で千住から三厩までを21日間で歩いた。1日平均約40kmで、測量をしながら平均時速5.5kmで歩いたと推定される。復路は30日間であった。 第2次測量(1801年)では復路だけ歩き、青森県で吹雪に見舞われたため三厩から千住まで28日かかった。 第3次測量(1801年)では千住から白河までと、油川から三厩までを歩いた。

1862年、江戸を出発して津軽海峡をめざした吉田松陰が秋田・佐竹領から津軽領内にはいり、小泊から三厩をまわり平館から漁船で青森湊にはいり、南下した。