FUKUSHI Plaza街道 Now and Then中山道板橋

志村、戸田

最終更新日:2008年10月23日

志村

荒川右岸と武蔵野大地の接点にあたり、起伏の多い地形が特長。篠竹が生い茂った場所を意味する「しの村」が変化したものという説がある。

【歩く】 国道17号線を歩き、「志村坂上」交差点の交番のところから左斜めの細い道を上る。 下りになって、坂を下りきったところで右折し国道17号線を横切りさらに進むのだが、街道跡はわかりにくい。

志村一里塚

志村一里塚

日本橋から3番目の一里塚。  中山道の一里塚

新中山道建設にともない、塚を少し移動し、3段の石積みをして土の崩れを防ぎ江戸時代の姿にした。さらに石積みを行い改築した。 西塚の2代目榎は1967年に枯れて、その後3代目が植えられた。

【今】道の両側に整備され残っていて、西塚に「国指定史跡 志村一里塚」の石柱が建っている。 東塚に隣接して古い商家があり、これらの景観が「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選出されている。
[写真]2006年2月撮影

総泉寺

浅草の橋場に創建された。  総泉寺跡

1929年の区画整理で、志村坂に右側にあった大善寺と合寺してこの地に移転した。 1972年に現在の本堂が新築された。

子育て地蔵

山門をはいってすぐ左手にある地蔵堂に安置されている子育て地蔵は、かつて清水坂にあったもの。

梵鐘

鐘楼にかけられている梵鐘は1721年につくられたもの。

正観音

本堂の前にある金銅造りの正観音は寛文九年(1669年)作製の銘がある。

薬師の泉庭園

総泉寺の移転前、この地には薬師如来を本尊とする大善寺があり、境内崖下の湧水が薬師の泉として知られていた。

富士・大山道道標、庚申塚

富士・大山道道標

中山道と富士街道の分岐点で、ここから富士や大山へ向かった。 1792年建立の道標には「大山道 ねりま 川こへ(川越)みち」と刻まれている。 1860年建立の庚申塚左側面には「是ヨリ富士山大山道 練馬江一里 柳沢江四里 府中江七里」と刻まれている。
[写真]2006年2月撮影

清水坂

江戸から京都に向かう最初の急な下り坂で、難所として知られた。 「清水坂」の名は、この辺りに井戸や湧水が多く見られたからといわれている。 志村城に居を構えた千葉隠岐信胤にちなんで「隠岐坂」とも呼ばれた。 また途中に地蔵尊があったことから「地蔵坂」とも呼ばれた。 坂が左手に大きくカーブするあたりは、旧中山道で唯一富士山を右手に見た場所で、右富士と呼ばれた名所だった。 『江戸名所図会』でも紹介されている。

【今】坂の上に「清水坂」と刻まれた票席がたっている。

〈間の宿〉志村

立場茶屋や志村名主屋敷もあった。

【今】痕跡は何もない。

大野藤左衛門家

志村名主で本陣の役割をした。

【今】痕跡は何もない。

戸田

戸田の渡し

荒川をこの付近では戸田川と呼び、対岸へは渡し舟を利用していた。 開設されたのは、天正年間(1573年〜91年)で、江戸時代にはいると下戸田村によって管理され、川会所が支配を行っていた。 1875年に戸田橋が架けられ、廃止された。

【今】志村側には標識がある。戸田側はボート練習場になっていて、上にはJRの鉄橋がかかっている。 「中山道戸田渡船場跡」と刻まれた石柱と説明板が建っている。

水神社

川岸に住む人々の氏神で、毎年7月中旬に行われる祭礼では獅子舞が演じられる。 かつて、その年に初めて採れたキュウリをこの神社に供えて荒川に流してからでないと泳ぐことができないとされていた。

「水神宮」の碑

寛政8年(1796年)の銘が刻まれている。 荒川の岸にあったものが移された。

戸田地蔵堂

戸田地蔵堂

戸田市内最古の木造建造物といわれる。 堂の脇には正徳3年(1713年)の銘がある半鐘がかかっている。
[写真]2006年2月撮影

上戸田一里塚

日本橋から4番目の一里塚。

【今】塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木の古木がある。 幼稚園園庭には貞享5年(1688年)の銘の庚申塔が残っている。