FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地東京都

文京区

最終更新日:2011年2月25日

漱石は帝大に通学した。留学から帰ってから住んで帝大の講師を勤め、『吾輩は猫である』などを書いた。 『三四郎』『それから』『こころ』などの舞台にもなっている。 当時は本郷区と小石川区であった。

根津

根津神社(根津権現社)

漱石や森鴎外が腰掛けたという「文豪憩いの石」が、楼門左手のつつじ苑入口のそばにある。

裏門坂

『道草』の冒頭で、健三が養父に出会う。

 ある日小雨(こさめ)が降った。その時彼は外套(がいとう)も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷(ほんごう)の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現(ねづごんげん)の裏門の坂を上(あが)って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間(けん)位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼(め)をわきへ外(そら)させたのである。
『道草』一

メモ

日医大つつじ通りと呼ばれている。

千駄木

団子坂

『三四郎』に、ここでの菊人形見物の場面などが出てくる。三四郎と美禰子は次に谷中方面に向かう。  藍染川

 ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂(だんござか)の上から、左へ折れて千駄木(せんだぎ)林町(はやしちょう)の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右の生垣(いけがき)をながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。
『三四郎』四
 団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
 「もう安心大丈夫(だいじょうぶ)です」と美禰子が、よし子を顧みて言った。よし子は「まあよかった」という。
 坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。
<略>
 一行は左の小屋へはいった。曾我(そが)の討入(うちいり)がある。五郎も十郎も頼朝(よりとも)もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。その次は雪が降っている。若い女が癪(しゃく)を起こしている。これも人形の心(しん)に、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に隙間(すきま)なく衣装の恰好(かっこう)となる。
『三四郎』五

メモ

「千駄木坂」が正式な名称で、昔ここに団子を売る店があったことからこのように呼ばれた。七面坂や汐見坂とも呼ばれた。1856年から菊人形が始まり、1875年から木戸銭を取るようになった。1882年頃には各地の菊人形は廃業してここだけになり、多くの見物人で賑わった。1907年ごろがピークでその後は電気の入らなかったこともあり、廃業した。

【広重「千駄木団子坂花屋敷」】 坂の上の方には料理屋や茶屋が描かれている。下の方は根津権現社の境内の池とまわりに植えられた桜だといわれている。  切手と美術「名所江戸百景」

動坂

『三四郎』で三四郎、与次郎、広田先生がこの坂を通る。  藍染川

 それから三人はもとの大通りへ出て、動坂(どうざか)から田端(たばた)の谷へ降りたが、降りた時分には三人ともただ歩いている。
『三四郎』四

メモ

坂上に目赤不動跡と呼ばれる不動堂があったことから「不動坂」と呼ばれていたのが短縮されたという。 また、堂坂とも書かれる。

本駒込

駒込曙町

『三四郎』で、画家の原口が住んでいた。

三四郎はこれから曙町(あけぼのちょう)の原口の所へ行く。
『三四郎』一〇
 曙町へ曲がると大きな松がある。この松を目標(めじるし)に来いと教わった。松の下へ来ると、家が違っている。向こうを見るとまた松がある。その先にも松がある。松がたくさんある。三四郎は好い所だと思った。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣(いけがき)にきれいな門がある。はたして原口という標札が出ていた。その標札は木理(もくめ)の込んだ黒っぽい板に、緑の油で名前を派手(はで)に書いたものである。字だか模様だかわからないくらい凝っている。門から玄関まではからりとしてなんにもない。左右に芝が植えてある。
『三四郎』一〇
それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回(ひとまわ)り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に生垣(いけがき)の間を横切って、大通りへ出た。
『三四郎』一〇

メモ

大塚

護国寺

『夢十夜』に出てくる。

 運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。  山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
『夢十夜』第六夜

メモ

徳川綱吉の母、桂昌院の発願により1681年に創建された。