FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地

中国

最終更新日:2010年11月11日

漱石は留学先の英国へ向かう途中、1900年9月に中国の港に立ち寄った。  英国留学

漱石は満州を1909年に旅行し、旅行記『満韓ところどころ』を発表した。  詳細

当時、満州は清帝国の一部で、現在は中華人民共和国の「東北部」と呼ばれ、遼寧省、吉林省、黒竜江省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。

上海〔シャンハイ〕

漱石は1900年9月13日に呉淞に着き小蒸気船で2時間ほどの上海へ向かった。15日に出帆の予定だったが風雨が激しいため16日に出発した。

香港〔ホンコン〕

漱石は1900年9月19日に九龍港についてから小蒸気船で香港に行き、鶴屋という日本宿で食事後、船に帰った。 20日午後出帆した。

旅順〔リューシュン〕

漱石は橋本左五郎と旧友の佐藤友熊に会いに行った。

 旅順には佐藤友熊と云う旧友があって、警視総長と云う厳(いかめ)しい役を勤めている。 『満韓ところどころ』二十一
 旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向(あおむ)かなくては頂点(てっぺん)まで見上げる訳に行かなかった。 『満韓ところどころ』二十三

大連〔ターリエン〕

ヤマトホテル

 そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和(やまと)ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。 『満韓ところどころ』五

満洲館

満鉄総裁公邸になっていた。

是公の家の屋根から突出(つきだ)した細長い塔が、瑠璃色(るりいろ)の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋(はつあき)が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝(きら)つかせていた。 『満韓ところどころ』六

日本橋

広い通りを一二丁来ると日本橋(にほんばし)である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、雅(が)にも丈夫(じょうぶ)にもできている。三人は橋の手前にある一棟(ひとむね)の煉瓦造(れんがづく)りに這入(はい)った。 『満韓ところどころ』八

電気公園

漱石は建設中の電気公園を見た。

 あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵(こしら)えてるんだと云う説明である。 『満韓ところどころ』八

電気工場

漱石は昔書生の股野義郎の案内で見学した。

 今度はどこだと股野に聞いて見ると、今度は電気の工場へ行きましょうという事である。鉄嶺丸(てつれいまる)が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く真直(まっすぐ)に映じたものはこの工場の煙突であった。船のものはあれが東洋第一の煙突だと云っていた。 『満韓ところどころ』十五

熊岳城〔シオンウエチョン、ゆうがくじょう〕

漱石は熊城駅からトロッコに乗って15分ほどのところにある温泉に行った。

浮かぶや否や、帳面の第三頁へ熊岳城(ゆうがくじょう)にてと前書(まえがき)をして、黍遠(きびとお)し河原(かわら)の風呂(ふろ)へ渡(わた)る人(ひと)と認(したた)めて、ほっと一息吐いた。 『満韓ところどころ』三十七

メモ

熊岳城温泉は熊岳河に湧出する温泉で、かつては砂湯が名物だった。

湯崗子〔タンカンツー、とうこうし〕

漱石は温泉を訪れた。

湯崗子(とうこうし)は温泉場だと橋本のプログラムの中にちゃんと出ているのだから、温泉がこの茫々(ぼうぼう)たる原の底から湧(わ)いて出るのだろうとは、始めから想像する事ができたが、これほど淋(さび)しい野の面(おもて)に、ただ一軒の宿屋がひっそり立っていようとは思いがけなかった。 『満韓ところどころ』四十二

メモ

湯崗子温泉は日露戦争の際に戦傷した日本兵の湯治場として開発された。 田山花袋、与謝野晶子・寛夫妻らも訪ねた。 今も、温泉治療地になっている。