1906年12月27日に、漱石は「猫の家」から転居した。 『虞美人草』の大部分がここで書かれた。 一高・東大へは便利だが、風呂がない上に矢継ぎ早で理不尽な家賃改定などで家主との折り合いがつかず9ヶ月で出てしまった。
小生駒込西片十番地へ来る 二十七日晴天ならば転宅興行に付何卒御来援の程偏に奏願上候 興行元 夏目漱石 葉書
『三四郎』では広田先生の借家が「西片町十番地への三号」という設定になっている。三四郎と美禰子が引越しの手伝いで再会し、2階の窓から雲を眺める。
「西片町(にしかたまち)十番地への三号。九時までに向こうへ行って掃除(そうじ)をしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」
<略>
「私さっきからあの白い雲を見ておりますの」
なるほど白い雲が大きな空を渡っている。空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地がすいて見えるほどに薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。美禰子はそのかたまりを指さして言った。
「駝鳥(だちょう)の襟巻(ボーア)に似ているでしょう」 『三四郎』四
この一帯は、福山藩主阿部家の中屋敷だった地で、田園調布の模範となる都市造りを行った。商業地を作らず高級住宅地としたため、大学教授や文化人などが住みつき、戦前までは学者町と呼ばれた。二葉亭四迷の家は同じ番地で、目と鼻の先だった。 漱石が引っ越した半年後に、清からの留学生で漱石の作品を愛読した魯迅がこの家を借り受け、「五舎」と名付けて暮らした。
現在は普通の住宅地で当時を偲ばせるものは何もない。
漱石が卒業した。
『三四郎』には東京の風景や学生の風俗が随所に現れる。

三四郎が美禰子に出会った。
ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖(がけ)の木立(こだち)で、その後がはでな赤煉瓦(あかれんが)のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。 <略>
三四郎は女の落として行った花を拾った。そうしてかいでみた。けれどもべつだんのにおいもなかった。三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いている。 『三四郎』二
漱石の小説にちなむ「三四郎池」の通称が定着したは戦後のようだ。
『三四郎』で野々宮が物理の実験をしている。
「広く、長く、天井が高く、左右に窓が沢山ある」と三四郎が評した。 『こころ』の先生やKの勉強場でもあった。
三四郎は、銅像について聞かれる。
二人はベルツの銅像の前から枳殻寺(からたちでら)の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。表はたいへんにぎやかである。電車がしきりなしに通る。 『三四郎』二
1907年にたてられたが、1961年に当時より60m北に移動した。
ベルツはドイツ人で、1876年から1902年まで 東京医学校(現=東大医学部)の内科専任教師として教育と医療に携わった。
[写真]ベルツ(左)とスクリバの像(2009年3月撮影)
三四郎はこの門から構内にはいった。
あくる日は平生よりも暑い日であった。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君はおるまいと思ったが、母が宿所を知らせてこないから、聞き合わせかたがた行ってみようという気になって、午後四時ごろ、高等学校の横を通って弥生町(やよいちょう)の門からはいった。往来は埃(ほこり)が二寸も積もっていて、その上に下駄(げた)の歯や、靴(くつ)の底や、草鞋(わらじ)の裏がきれいにできあがってる。車の輪と自転車のあとは幾筋だかわからない。 『三四郎』二
かつては加賀藩上屋敷であった。
漱石が講師になった。
後に世田谷区駒場に移り、農学部のキャンパスになった。
1871年(断髪令の年)に創業された理髪の老舗で、客名簿には、漱石の名が載っていたという。 『吾輩は猫である』と『三四郎』に登場する。 『夢十夜』に理髪店の話があるが、喜多床をモデルにしたようだ。
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床(きたどこ)へ行って顔さえ剃(す)って貰(もら)やあ、そんなに人間と異(ちが)ったところはありゃしない。人間はこう自惚(うぬぼ)れているから困る。 『吾輩は猫である』 二
野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄の歯が鐙(あぶみ)にはさまる。先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床(きたどこ)という髪結床(かみゆいどこ)の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。その時分には有志の者が醵金(きょきん)して構内に厩(うまや)をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。 『三四郎』 三
床屋の敷居を跨いだら、白い着物を着て、かたまっていた三、四人が、一度に「いらっしゃい」と、いった。
真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開いて、残る二方に鏡が懸っている。鏡の数を勘定したら六つあった。
自分は、その一つの前へきて腰をおろした。すると、お尻がぶくりと云った。余程、坐り心地が好く出来た椅子である。鏡には、自分の顔が立派に映った。 『夢十夜』「八話」
内田百ケンの『ねじり棒』、幣原喜重郎の『外交五十年』などの本にも名前が登場している。当時は本郷にあったが、今は渋谷区渋谷2丁目15-1 渋谷クロスタワーにある。 公式サイト
『三四郎』では兼安として登場する小間物屋。
四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋(こまものや)があって、向こう側に日本小間物屋がある。そのあいだを電車がぐるっと曲がって、非常な勢いで通る。ベルがちんちんちんちんいう。渡りにくいほど雑踏する。野々宮君は、向こうの小間物屋をさして、
「あすこでちょいと買物をしますからね」と言って、ちりんちりんと鳴るあいだを駆け抜けた。 『三四郎』二
そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が兼安(かねやす)で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった。 『三四郎』三
和菓子の老舗で、漱石はここの羊羹を好んだようだ。名物の「煉羊羹」は、よく練った飴に砂糖と寒天を加えて固めたもの。 「藤村の羊羹」が『吾輩は猫である』にでてくる。『草枕』にも「藤村」とは書かれていないものの羊羹の描写がある。
「いやー珍客だね。僕のような狎客(こうかく)になると苦沙弥(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村(ふじむら)の羊羹(ようかん)を無雑作(むぞうさ)に頬張(ほおば)る。 『吾輩は猫である』 四
菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好(すき)だ。別段食いたくはないが、あの肌合(はだあい)が滑(なめ)らかに、緻密(ちみつ)に、しかも半透明(はんとうめい)に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上(ねりあ)げ方は、玉(ぎょく)と蝋石(ろうせき)の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫(な)でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。 『草枕』 四
『三四郎』に出てくる。
その代りいっしょに散歩に出た。帰りに岡野(おかの)へ寄って、与次郎は栗饅頭(くりまんじゅう)をたくさん買った。これを先生にみやげに持ってゆくんだと言って、袋をかかえて帰っていった。 『三四郎』八
『三四郎』で三四郎と美禰子がこの教会で決別する。
「美禰子さんは会堂(チャーチ)」
美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。
(略)
忽然(こつぜん)として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世(うきよ)へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞(しま)の吾妻(あずま)コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。 『三四郎』十二
1890年創立で、当初、講演会のほか音楽会も盛んに催されていて、中央会堂として知られていた。建物は震災で倒壊し、1929年に再建された。春日通りの拡張工事のためその存続が憂慮されている。
『三四郎』で美禰子がこのあたりに住んでいたという設定になっている。
通称、桜木天神。
[写真](2009年3月撮影)
漱石の資料がある。
『三四郎』で与次郎が三四郎らにライスカレーを食べさせる。
昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒(よどみけん)という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物(くだもの)を売っている。新しい普請であった。 『三四郎』三
「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」
学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。 『三四郎』六
水菓子(果物)屋だが裏で西洋料理をしていたがライスカレーが名物で、ビフテキなどもあった。学生相手の店で、果物を意味するドイツ語から「オプスト」と呼ばれていた。
『三四郎』に2回出てくる。
帰り道に青木堂(あおきどう)も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである。 『三四郎』三
この時三四郎はこれはとうていやりきれないと思った。ところへ窓の外を楽隊が通ったんで、つい散歩に出る気になって、通りへ出て、とうとう青木堂へはいった。
はいってみると客が二組あって、いずれも学生であったが、向こうのすみにたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。 『三四郎』三
1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売していた。食料品も西洋風なものが多く、学生をはじめとしてハイカラな人々に人気があった。2階が喫茶店になっていた。