FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地

京都府

最終更新日:2010年11月11日

漱石は京都を4回訪れている。

『虞美人草』で甲野と宗近が旅をする。

洛東

清水寺

清水寺本堂

1892年7月8日に漱石は子規と訪れた。 1907年3月29日にも訪れている。

夏の夜(よ)の月円(まる)きに乗じて、清水(きよみず)の堂を徘徊(はいかい)して、明(あきら)かならぬ夜(よる)の色をゆかしきもののように、遠く眼(まなこ)を微茫(びぼう)の底に放って、幾点の紅灯(こうとう)に夢のごとく柔(やわら)かなる空想を縦(ほしい)ままに酔(え)わしめたるは、制服の釦(ボタン)の真鍮(しんちゅう)と知りつつも、黄金(こがね)と強(し)いたる時代である。
『京に着ける夕』

メモ

切手と美術「清水寺」

阿古屋茶屋

メモ

漱石が訪れた。

丸山公園

1907年3月29日に漱石が訪れた。

『虞美人草』に、公園の中央にある枝垂れ桜が「祇園の桜」としてでてくる。

祇園(ぎおん)の桜をぐるぐる周(まわ)る事を知った。
『虞美人草』四

メモ

八坂神社の東に接する京都市最大の公園。中央に広い池をもった回遊式庭園で、東山の緑とあいまって眺望がよい。

知恩院

1895年に漱石は俳句に詠んでいる。

時鳥(ほととぎす)あれに見ゆるが知恩院

1907年3月29日に訪れた。

『虞美人草』にでてくる。

知恩院(ちおんいん)の勅額(ちょくがく)を見上げて高いものだと悟った。
『虞美人草』四

メモ

正式には華頂山大谷寺知恩教院で、浄土宗の総本山。法然が東山大谷の吉水に設けた坊舎にはじまる。山門(三門)は1619年に建立された国内最大の楼門で、楼上で「華頂山」の勅額を掲げている。

三十三間堂

1896年に漱石は俳句に詠んでいる。

日は永し三十三間堂長し

1907年4月3日に訪れた。

メモ

正式には「蓮華王院」という天台宗妙法院の境外仏堂。1164年に建立された。

東山

『虞美人草』に描写されている。

「おい、どうも東山が奇麗(きれい)に見えるぜ」 「そうか」 「おや、鴨川(かもがわ)を渉(わた)る奴(やつ)がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」 「渉ってもいいよ」
「君、布団(ふとん)着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
『虞美人草』三

三条

『虞美人草』で甲野と宗近が宿に泊まる。

「小野さん三条(さんじょう)に蔦屋(つたや)と云う宿屋がござんすか」 「蔦屋(つたや)がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
<略>
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿(とま)ってるんですって。だから、どんな所(とこ)かと思って、小野さんに伺って見たんです」
『虞美人草』六

洛中

ゑり善

漱石が半襟を買った。

四條の襟善で半襟帯上を買ふ。十八圓程とられる。
日記

メモ

半襟の専門店として1584年に創業。次第に高級呉服、和装小物も扱いようになった。

柊屋〔ひいらぎや〕

1回目の旅行で京都に着いてすぐと、松山からの帰途に宿泊した。

メモ

1861年から宿を営んでいて、木造2階建の数寄屋造り。夜具、ゆかた、食器などに柊の模様がついている。

北大嘉

1915年3月19日、汽車で京都に着いた漱石が滞在した旅館。

メモ

漱石の記念碑があり多佳に送った句が刻まれている。

大友〔だいとも〕

1915年3月20日に漱石が訪ね、女将の磯田多佳に初めて会った。 30日には体調を崩して寝込み、多佳が看病した。 漱石は「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を隔てて男女哉 漱石」の色紙を送った。

メモ

跡地に吉井勇の「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るヽ」の歌碑がたっている。

一力亭

1915年3月20日、漱石は西川一草亭に大石忌に案内された。

メモ

大石忌は内蔵助の命日の3月20日に歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の七段目「祇園一力茶屋の場」にちなんで行われる。

相国寺〔しょうこくじ〕

1907年4月1日に訪れた体験が『門』にあらわれる。

 宗教と関聯(かんれん)して宗助は坐禅(ざぜん)という記憶を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺(しょうこくじ)へ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶(うかつ)を笑っていた。「今の世に……」と思っていた。
『門』十七

正式には万年山相国承天禅寺で、臨済宗相国寺派の大本山。1392年創建、京都五山の第2位。

洛北

糺〔ただす〕の森

2回目の京都訪問で、下鴨神社北側にある京都帝大学長・狩野亮吉の家を訪問して宿泊した。 そばにある糺の森のことを『京に着ける夕』で描写している。

 寝心地はすこぶる嬉(うれ)しかったが、上に掛ける二枚も、下へ敷く二枚も、ことごとく蒲団なので肩のあたりへ糺の森の風がひやりひやりと吹いて来る。
<略>
 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀(いき)たる細雨(さいう)は、濃かに糺の森を罩(こ)めて、糺の森はわが家(や)を遶(めぐ)りて、わが家の寂然(せきぜん)たる十二畳は、われを封じて、余は幾重(いくえ)ともなく寒いものに取り囲まれていた。
  春寒(はるさむ)の社頭に鶴を夢みけり
『京に着ける夕』

メモ

高野川と賀茂川の合流点の北、下鴨神社と摂社河合神社をつつむ森で、名称は河川の合流点を示す「只州〔ただす〕」に由来する。古代から禊を行う場所として知られていた。  切手と美術「賀茂御祖神社」

平八茶屋

1892年7月9日に漱石は子規と訪れ川魚料理を食べた。 1907年4月10日に虚子と訪れ、北山を眺め高野川を見下ろす座敷で川魚料理を食べた。

『門』と『虞美人草』に描かれている。

ある時は、平八茶屋(へいはちぢゃや)まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。そうして不味(まず)い河魚の串(くし)に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑(の)んだ。そのかみさんは、手拭(てぬぐい)を被(かぶ)って、紺(こん)の立付(たっつけ)みたようなものを穿(は)いていた。
『門』十四
「今日は山端(やまばな)の平八茶屋(へいはちぢゃや)で一日(いちんち)遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端(はんぱ)になるばかりだ。元来(がんらい)頂上まで何里あるのかい」
『虞美人草』五

メモ

創業は安土桃山時代だという。

洛西

嵯峨野

『虞美人草』に天竜寺、釈迦堂、渡月橋などが描かれている。

「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山(がざん)と云う坊主は一椀の托鉢(たくはつ)だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に寝(ね)た箸(はし)を竪(たて)にする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
 世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に颯(さっ)と開(ひら)いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨(さが)の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹(ひんぷんらくえき)と嵐山(らんざん)に行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
 天竜寺(てんりゅうじ)の門前を左へ折れれば釈迦堂(しゃかどう)で右へ曲れば渡月橋(とげつきょう)である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場(ステーション)の方へ旅衣(たびごろも)七日(なのか)余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条(にじょう)から半時(はんとき)ごとに花時を空(あだ)にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
『虞美人草』五

メモ

大悲閣

1909年10月15日に漱石は訪問した。山を登る途中から腹痛に悩んだが、本堂脇の部屋から景色を眺めているうちに眠ってしまい、眼がさめると痛みはさっていた。このとき保津川下りの櫓の音をきいた体験が『門』で用いられている。

ある時は大悲閣(だいひかく)へ登って、即非(そくひ)の額の下に仰向(あおむ)きながら、谷底の流を下(くだ)る櫓(ろ)の音を聞いた。その音が雁(かり)の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。
『門』十四

メモ

正式には千光寺といい、千手観音が本尊。

保津川

1907年4月7日、8日に漱石は訪れた。

この体験が『虞美人草』の素材になっている。

 浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨(さが)より二条(にじょう)に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波(たんば)へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡(かめおか)に降りた。保津川(ほづがわ)の急湍(きゅうたん)はこの駅より下(くだ)る掟(おきて)である。下るべき水は眼の前にまだ緩(ゆる)く流れて碧油(へきゆう)の趣(おもむき)をなす。岸は開いて、里の子の摘(つ)む土筆(つくし)も生える。舟子(ふなこ)は舟を渚(なぎさ)に寄せて客を待つ。
『虞美人草』五