FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地

松山市

最終更新日:2010年11月10日

1892年、漱石は正岡子規との旅行で訪れ、高浜虚子と出会った。 1895年4月、漱石は愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任した。

『坊ちゃん』の舞台にもなっている。

メモ

1889年に愛媛県初の市制を敷いた。当時の人口は2万3千人。

松山市中心街

子規堂

正岡子規が16歳で上京するまで暮らしていた旧宅を模して建てられたもの。瓦葺き平屋の内部には、子規の遺墨・遺品が数多く展示されている。向かいには坊ちゃん列車も陳列されている。

堂内には漱石のデスマスクなどが展示されている。

愛媛県美術館分館・郷土美術館萬翠荘

愛松亭〔あいしょうてい〕

津田保吉の小料理屋の平屋建の母屋の西側に2階建ての離れ(愛松亭)があった。漱石は1895年4月から6、7月頃までの数か月間、そこの2階に下宿した。

 道後へは当地に来てより三回入湯に来ち候小生宿所は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地恨らくは猶俗物の厄介を受け居る事を当地にては先生然とせねばならぬ故衣服住居も八十円の月俸に相当せねばならず小生如き丸裸には当分大閉口なり 正岡子規宛書簡(1895年5月28日付)

『坊ちゃん』の主人公が山嵐に勧められて移った下宿のモデルになっている。

町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静(かんせい)だ。主人は骨董(こっとう)を売買するいか銀と云う男で、女房(にょうぼう)は亭主(ていしゅ)よりも四つばかり年嵩(としかさ)の女だ。 『坊ちゃん』二

メモ

萬翠荘玄関前に現存する井戸の傍らにあった。

現在は「漱石ゆかり愛松亭跡」の碑と副碑(漱石が1985年4月16日、愛松亭で書いた、恩師神田乃武(ないぶ)宛の着任第一報の書簡碑)がある。

愚陀仏庵(復元)

1982年に県が当時の見取り図などから「愚陀仏庵」を復元したた。 2010年7月、大雨で裏山が崩れ土砂に埋もれた。 萬翠荘の裏手。

愛媛県尋常中学校

1895年4月、漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学校、現=松山東高校)英語教諭に就任した。

メモ

今では場所を移しているが、その跡には「漱石ゆかりの松山中学校跡」の石碑が建っていて、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」という松山を去る時の漱石の一句が刻まれている。  松山東高等学校

愚陀仏庵

1895年6月下旬、漱石は上野義方の離れ座敷を借りた。2階が六畳と三畳、階下が六畳と四畳半。 郷里の松山に帰ってきてた子規が8月27日に移ってきて、10月19日までこの下宿に滞在し、ここで「俳諧大要」を書き、虚子らと深厚を深めた。漱石が2階に子規が階下に住んだ。子規はこの下宿に漱石の別号であった「愚陀佛」を付けて「愚陀仏庵」と名づけた。 漱石は五高に転任するまで借りていた。

メモ

建物は、1945年7月26日の米軍機空襲により焼失したが、子規記念博物館と萬翠荘敷地内の2カ所に復元された。現在は上野家跡の碑がある。  子規記念博物館

「愚陀仏庵跡」の碑がたっている。

城戸屋

漱石が1892年、1895年それぞれの訪問で滞在した宿屋。 1895年には松山に来て最初(4月9日)に投宿し、素性の定かでない客をいれる「竹の間」に通されたが、翌日の新聞で偉い先生だとわかり十五畳の一番いい部屋に替わることになった。1ヶ月滞在した後、愛松亭に移った。

『坊ちゃん』で主人公が最初に泊った「山城屋」のモデルとされる。

校長でも尋(たず)ねようかと思ったが、草臥(くたび)れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋(やましろや)と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎(かんたろう)の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
 何だか二階の楷子段(はしごだん)の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞(ふさ)がっておりますからと云いながら革鞄を抛(ほう)り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって汗(あせ)をかいて我慢(がまん)していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗(のぞ)いてみると涼(すず)しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。嘘(うそ)をつきゃあがった。
<略>
帳場に坐(すわ)っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り……と板の間へ頭をつけた。靴(くつ)を脱(ぬ)いで上がると、お座敷(ざしき)があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五畳(じょう)の表二階で大きな床(とこ)の間(ま)がついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣(ゆかた)一枚になって座敷の真中(まんなか)へ大の字に寝てみた。いい心持ちである。
『坊ちゃん』二

メモ

当時は松山随一の旅館。

戦後、きどや旅館となり敷地は現在の二番町〜三番町にまたがっていた。

現在は旅館としては営業しておらず、ピストロ「きどや」としてレストランの名前に使われている。 漱石が泊まった『坊ちゃんの間』は保存されていたが戦災で失われ、戦後に復元された。 城戸屋旅館跡碑が建っている。

松山東高等学校

漱石が赴任した松山中学校の後身で、校地の北隅に旧松山中学校時代の校舎の一部が明教館として保存されている。 明教館は空襲下、類焼をまぬがれた。  愛媛県尋常中学校跡

古町〔こまち〕

『坊ちゃん』には「松山」の地名は登場しないが実在の停車場が出てくる。

 それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方(ひぐれがた)になったから、汽車へ乗って古町(こまち)の停車場(ていしゃば)まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。
『坊ちゃん』四

メモ

当時、城の西北側を古町と呼んでいた。松山で最初に開けた場所で、旧藩時代の中心地であった。

現在、停車場は伊予鉄道の古町駅になっている。

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