FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地東京都

新宿区

最終更新日:2010年11月13日

漱石の誕生地で、晩年に過ごしたところでもある。当時は、四谷区と牛込区であった。

早稲田

東京専門学校

1892年5月から1895年3月まで講師を勤めた。

ちょうど大学の三年の時だったか、今の早稲田大学、昔の東京専門学校に行って、ミルトンのアレオパジチカというむずかしい本をおしえさされて、大変困ったことがあった。 『僕の昔』

メモ

現在の早稲田大学。

新宿

太宗寺

太宗寺の唐金の仏様

この寺の仏像によじ上って遊んだ思い出を『道草』で書いている。

 彼は時々表二階(おもてにかい)へ上(あが)って、細い格子(こうし)の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛(はらがけ)を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路(みち)を隔てた真ん向うには大きな唐金(からかね)の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台(れんだい)の上に坐(すわ)っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた、それから頭に笠(かさ)を被(かぶ)っていた。
 健三は時々薄暗い土間(どま)へ下りて、其所(そこ)からすぐ向側(むこうがわ)の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀(よ)じ上(のぼ)った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄(え)へ捉(つら)まったりして、後(うしろ)から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。 『道草』三十八

メモ

「唐金の仏様」は「銅造地蔵菩薩座像」。当時は北向きだったという。  街道 Now and Then「太宗寺」 [写真]2002年1月撮影

伊豆橋

実母ちゑの父親が債権者として伊豆橋の経営を任され、生家を継いだ次姉ひさ(久)が一時経営していた。 その後、空き家になっていた伊豆橋の管理を夏目家が塩原昌之助に任せ、1871年4月に漱石も移ってきた。

この建物に住んだ思い出を『道草』で書いている。

 そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段(はしごだん)のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角(まっしかく)であった。
 不思議な事に、その広い宅(うち)には人が誰も住んでいなかった。それを淋(さみ)しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
 彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直(まっすぐ)に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中馳(か)け廻った。 『道草』三十八

メモ

甲州街道をはさんで太宗寺の真向かいにあり、内藤新宿一、二といわれる妓楼であった。

現在はセブンビルなっている。

塩原家

養子となった漱石が、1868年11月から1869年4月まで住んだ。

メモ

四谷

新宿区立新宿歴史博物館

漱石山房の間取り図など漱石関連の展示がある。

メモ

市ケ谷

第一大学区第三中学区第四番小学(市谷小学校)

漱石が1876年5月に転校し、1878年4月に上等小学第八級を卒業した。

メモ