FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地

静岡県

最終更新日:2010年11月7日

修善寺

漱石が、1910年8月から10月まで転地療養のために滞在した。 修善寺の大患(1910年) 秘湯・名湯「修善寺温泉」

『思い出す事など』に修善寺温泉での体験を書いている。

 修善寺(しゅぜんじ)にいる間は仰向(あおむけ)に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記(つ)け込(こ)んだ。時々は面倒な平仄(ひょうそく)を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿(みていこう)として日記の中に書きつけた。  『思い出す事など』五

『行人』に温泉の様子が描かれている。

 我々はついに三島(みしま)まで引き返しました。そこで大仁(おおひと)行の汽車に乗り換えて、とうとう修善寺(しゅぜんじ)へ行きました。兄さんには始めからこの温泉が大変気に入っていたようです。しかし肝心(かんじん)の目的地へ着くや否や、兄さんは「おやおや」という失望の声を放ちました。実際兄さんの好いていたのは、修善寺という名前で、修善寺という所ではなかったのです。瑣事(さじ)ですが、これも幾分か兄さんの特色になりますからついでにつけ加えておきます。
 御承知の通りこの温泉場は、山と山が抱合っている隙間(すきま)から谷底へ陥落したような低い町にあります。一旦(いったん)そこへ這入(はい)った者は、どっちを見ても青い壁で鼻が支(つか)えるので、仕方なしに上を見上げなければなりません。俯向(うつむ)いて歩いたら、地面の色さえ碌(ろく)に眼には留まらないくらい狭苦しいのです。今まで海よりも山の方が好いと云っていた兄さんは、修善寺へ来て山に取り囲まれるが早いか、急に窮屈がり出しました。私はすぐ兄さんを伴(つ)れて、表へ出て見ました。すると、普通の町ならまず往来に当る所が、一面の川床(かわどこ)で、青い水が岩に打(ぶ)つかりながらその中を流れているのです。だから歩くと云っても、歩きたいだけ歩く余地は無論ありませんでした。私は川の真中(まんなか)の岩の間から出る温泉に兄さんを誘い込みました。男も女もごちゃごちゃに一つ所(とこ)に浸(つか)っているのが面白かったからです。不潔な事も話の種になるくらいでした。兄さんと私はさすがにそこへ浴衣(ゆかた)を投げ棄(す)てて這入(はい)る勇気はありませんでした。しかし湯の中にいる黒い人間を、岩の上に立って物好(ものずき)らしくいつまでも眺めていました。兄さんは嬉(うれ)しそうでした。岩から岸に渡した危ない板を踏みながら元の路へ引き返す時に、兄さんは「善男善女(ぜんなんぜんにょ)」という言葉を使いました。それが雑談(じょうだん)半分の形容詞でなく、全くそう思われたらしいのです。  『行人』塵労三十五

菊屋旅館

漱石が宿泊した。初日は別荘の「梅の間」に滞在し、その後本館に滞在した。

メモ

皇族や多くの文人が宿泊した。本館の建物は1980年ごろにほとんど取り払われてしまった。漱石が滞在した2階の部屋は現在、「虹の郷」に移築されている。本館の跡は、現在筥湯、駐車場などになっている。現在の菊屋旅館は本館跡から100m東方の菊屋旧別荘で、「梅の間」はそのまま残っている。

夏目漱石記念館

漱石が滞在した菊屋旅館の部屋移築され、「漱石庵」と名付けられた茶室になっている。 「大患の間」の隣室では、調度品を整えて往時を再現していて、漱石の修善寺を偲ぶ写真資料を中心に展示している。 文学碑除幕記念写真も展示されている。

メモ

「修善寺 虹の郷〔にじのさと〕」は、日本庭園の他カナダ村、イギリス村、匠の村などがあるテーマパーク。

漱石文学碑

碑文は修善寺で1910年9月29日に作られた五言絶句の直筆を拡大したもの。

仰臥人如唖
黙然看大空
大空雲不動
終日杳相同

1932年、漱石十七回忌に発起して建設が進められ、 1933年4月10日に漱石未亡人鏡子、次男伸六ら身内、門下生、地元関係者ら約100人の出席のもとで除幕された。全国初の漱石碑で、高さは4mあまりある。

メモ

漱石の句碑

修善寺滞在中1910年9月8日の俳句(直筆)が碑文になっている。石材は小松石で、碑に隣接して小副碑がある。

秋の江に うち込む 杭の響哉

漱石の句碑があることは地元ではあまり知られていないが、「新訂版 夏名漱石の修善寺」(静岡新聞社、2005年)の著者でもある中山高明氏は著名で、地元の人にたずねるとわかる。住宅地内の個人の敷地内にあるので、訪問の際は迷惑にならないようにしたい。

メモ

源範頼の墓

漱石が詣でて、次の句を詠んだ。

範頼の墓濡るゝらん秋の雨

源頼家の墓、指月堂

漱石が俳句にしたところ。

興津

漱石は、東海道線開通直後の1889年7月23日に、三兄・和三郎(直矩)とともに訪れ、8月2日に帰京した。 水口屋、身延屋に滞在し海水浴などして過ごした。

最初は水口屋と申す方に投宿せしに一週間二円にて誠にいやいや雲助同様の御待遇を蒙れり拙如き貧乏書生は『パラサイト』同様の有様御憫笑可被下候
正岡子規宛書簡(1889年8月3日付)
興津之景清秀温雅有君子之風
『木屑録』

『行人』や『門』に登場する。

 我々は沼津で二日ほど暮しました。ついでに興津(おきつ)まで行こうかと相談した時、兄さんは厭(いや)だと云いました。
『行人』塵労三十五
 学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下(くだ)ろう、もし時間が許すなら、興津(おきつ)あたりで泊って、清見寺(せいけんじ)や三保(みほ)の松原や、久能山(くのうざん)でも見ながら緩(ゆっ)くり遊んで行こうと云った。宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書(はがき)を手にする時の心持さえ予想した。
『門』十四
約束の興津(おきつ)へ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺(せいけんじ)の方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。宗助は海の見える一室の中に腹這(はらばい)になって、安井へ送る絵端書(えはがき)へ二三行の文句を書いた。
『門』十四

メモ

興津は当時海水浴場として有名だった。  街道 Now and Then「興津」

富士山

漱石は、句を作っている。

元日の冨士にあひけり馬の上

『三四郎』で三四郎が上京する時初めて富士山を見る。

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。
『三四郎』一
 「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」  三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしている世相(せそう)とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象をいつのまにか取り落していたのを恥ずかしく思った。
『三四郎』四