FUKUSHI Plaza漱石 Now and Thenゆかりの地東京都

墨田区

最終更新日:2011年3月1日

向島

小梅

『坊ちゃん』に登場する。

子供の時、小梅(こうめ)の釣堀(つりぼり)で鮒(ふな)を三匹(びき)釣った事がある。
『坊ちゃん』五

昔の小梅村で、新小梅町・小梅瓦町・小梅業平町などの町名があった。

吾妻橋

吾妻橋

『吾輩は猫である』で寒月が欄干から飛び込んだエピソードが描かれている。

「<略>ただ蹌々(そうそう)として踉々(ろうろう)という形(かた)ちで吾妻橋(あずまばし)へきかかったのです。欄干に倚(よ)って下を見ると満潮(まんちょう)か干潮(かんちょう)か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。<略> どうも私を呼ぶ声が浪(なみ)の下から無理に洩(も)れて来るように思われましてね。この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて一反(いったん)飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」
『吾輩は猫である』二

メモ

街道 Now and Then「吾妻橋」

札幌ビール

『吾輩は猫である』に登場する。

花川戸(はなかわど)の方から人力車が一台馳(か)けて来て橋の上を通りました。その提灯(ちょうちん)の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌(さっぽろ)ビールの処で消えました。
『吾輩は猫である』二

メモ

1892年に札幌麦酒東京分工場が建った。 1898年に札幌、日本、大阪の3ビール会社が合併し、大日本麦酒株式会社吾妻橋工場となった。 1990年には再開発により、墨田区役所とアサヒビール本社、都市整備公団などの高層ビルが建ち並んだ。

両国

両国駅

『彼岸過迄』で敬太郎と須永が汽車に乗った。

 この日彼らは両国から汽車に乗って鴻(こう)の台(だい)の下まで行って降りた。
『彼岸過迄』須永の話二

メモ

『彼岸過迄』発表の6年前に「両国橋駅」として開業した。 今の駅舎は1929年に完成した。 単に両国駅と呼ばれることが多くなっていたが1931年に正式に改称し、翌年にはターミナル駅でなくなった。  両国橋駅開業(1904年)  総武本線の起点が御茶ノ水に(1932年)

回向院

『坊ちゃん』に「回向院の相撲」が登場する。

喧嘩をしても、回向院(えこういん)の相撲(すもう)のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。
『坊ちゃん』八
 会場へはいると、回向院(えこういん)の相撲(すもう)か本門寺(ほんもんじ)の御会式(おえしき)のように幾旒(いくながれ)となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄(なわ)から縄、綱(つな)から綱へ渡(わた)しかけて、大きな空が、いつになく賑(にぎ)やかに見える。東の隅(すみ)に一夜作りの舞台(ぶたい)を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだそうだ。
『坊ちゃん』九

メモ

『坊ちゃん』執筆当時はまだ国技館がなかった。  街道 Now and Then「回向院」

国技館

1909年6月14日、開館したばかりの6月場所9日目に、朝の9時から打ち出しの午後6時まで高浜虚子と相撲見物をした。  国技館開館(1909年)

国技館が開館した6月に連載が始まった『それから』で主人公の甥・誠太郎が行ってみたいと語る。当時は「相撲常設館」と呼ばれていた。  「国技館」と改称(1910年)

近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先(さき)へ這入つて見たいと云つてゐる。叔父(おぢ)さん誰(だれ)か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
『それから』三の一

メモ

GHQに接収(1945年)されメモリアルホールとなった。 1946年秋場所は開催されたがその後は大相撲での使用は許可されず、プロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。 1958年に「日大講堂」となり、老朽化のため1983年に解体され跡地に「両国シティコア」が建設された。 土俵があった位置を示す円形のしるしが中庭にある。

江東義塾

1886年9月、漱石は寄宿舎に転居。中村是公と一緒に住み込み教師となり、3kmあまり離れた 第一高等中学校(漱石は「予備門」と称している)に通った。

 中村と自分はこの私塾(しじゅく)の教師であった。二人とも月給を五円ずつ貰って、日に二時間ほど教えていた。自分は英語で地理書や幾何学を教えた。
<略>
 二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。
『永日小品』変化

メモ

みきや(両国3丁目9-1)の前に説明板がある。