FUKUSHI Plaza夏目漱石 Now and thenゆかりの地東京都

台東区

最終更新日:2011年1月24日

柳橋

亀清楼〔かめせいろう〕

『硝子戸の中』に「亀清の団扇」が登場する。

 それがいつとなく融(と)けて来て、人柄(ひとがら)が自(おの)ずと柔らかになったと思うと、彼はよく古渡唐桟(こわたりとうざん)の着物に角帯(かくおび)などを締(し)めて、夕方から宅を外にし始めた。時々は紫色(むらさきいろ)で亀甲型(きっこうがた)を一面に摺(す)った亀清(かめせい)の団扇(うちわ)などが茶の間に放(ほう)り出(だ)されるようになった。
『硝子戸の中』三十六

メモ

街道 Now and then 「亀清楼」

下谷〔したや〕

真源寺〔しんげんじ〕(入谷鬼子母神)

境内に子規が漱石のことを詠んだ句碑がある。

舜〔あさがお〕や 君いかめしき 文学士

メモ

鬼子母神をまつっていることで「入谷鬼子母神」の名で知られる。7月に境内で朝顔市が開かれる。

根岸

子規庵

子規庵 正岡子規

漱石はここで開かれた1896年の初句会に訪れた。  詳細

1904年にここの八畳間で開かれた「山会」で漱石の『吾輩は猫である』が朗読された。  詳細

メモ

正岡子規が1894年2月1日から1902年に没するまで住んだ。多くの俳人や文人が集い、俳句・短歌革新の発信源となった。

1945年4月14日、空襲で焼失したが、蔵の中の建具や、文机、硯などの遺品は無事だった。 1951年に復元された。

谷中

藍染川

『三四郎』で三四郎と美禰子が、団子坂を下ってから川沿いに歩く。

 女は人込みの中を谷中(やなか)の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
 「ここはどこでしょう」
 「こっちへ行くと谷中の天王寺(てんのうじ)の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
(略)
 谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
 「歩きます」
 二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。
(略)
 一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。
『三四郎』五

メモ

蛍の名所といわれた。石橋は枇杷橋とも合染橋とも呼ばれていた。

現在、この川は暗渠で「よみせ通り」の商店街になっている。台東区と文京区の区境でもある。