FUKUSHI Plaza 漱石 Now and Thenゆかりの地

東京都

最終更新日:2010年12月2日

漱石の本拠地で、作品にも多くの地名が登場する。 当時は東京市で、深川区、本所区、浅草区、日本橋区、下谷区、神田区、京橋区、本郷区、小石川区、麹町区、芝区、牛込区、赤坂区、四谷区、麻布区の15区と6郡があった。

豊島区

雑司が谷霊園

漱石の墓

漱石の墓がある。高さ2mあまりのひときわ大きな墓碑は、安楽椅子をかたどったもの。「文献院古道漱石居士」が漱石の戒名で、その左側の「圓明院清操浄鏡大姉」は鏡子夫人の戒名である。
[写真]漱石の墓。右手後方にサンシャインシティの高層ビルが見える。(2002年撮影)

『こころ』で「先生」が友人Kの墓参りに行くのもこの墓地である。

 国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ埋(う)めるかについて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雑司ケ谷(ぞうしがや)近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それで私は笑談(じょうだん)半分(はんぶん)に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。私も今その約束通りKを雑司ケ谷へ葬(ほうむ)ったところで、どのくらいの功徳(くどく)になるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪(ひざまず)いて月々私の懺悔(ざんげ)を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。
『こころ』下五十

メモ

永井荷風、小泉八雲、泉鏡花、竹久夢二など多くの文学者の墓もある。

葛飾区

柴又

帝釈天

『彼岸過迄』で敬太郎と須永が境内を通過する。

 柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)の境内(けいだい)に来た時、彼らは平凡な堂宇(どうう)を、義理に拝ませられたような顔をしてすぐ門を出た。そうして二人共汽車を利用してすぐ東京へ帰ろうという気を起した。停車場(ステーション)へ来ると、間怠(まだ)るこい田舎(いなか)汽車の発車時間にはまだだいぶ間(ま)があった。二人はすぐそこにある茶店に入って休息した。
『彼岸過迄』須永の話十三

メモ

正式には題経寺だが、柴又帝釈天と呼ばれている。映画『男はつらいよ』シリーズの舞台としても有名である。

川甚

漱石がひいきにしていたようだ。

『彼岸過迄』で敬太郎と須永がうなぎを食べるシーンがある。

二人は柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)の傍(そば)まで来て、川甚(かわじん)という家(うち)へ這入(はい)って飯を食った。そこで誂(あつ)らえた鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)が甘(あま)たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。
『彼岸過迄』須永の話二

メモ

江戸末期創業の川魚料理店ではじめは江戸川沿いに林立する船宿のひとつだった。一部屋ずつ離れのように配置された部屋の座敷からは名園と言われる広々とした庭を眺められる。

幸田露伴、谷崎潤一郎、林芙美子ら文豪たちもひいきにした。尾崎士郎の『人生劇場青春篇』にも登場する。

荒川区

日暮里

芋坂〔いもざか〕

『吾輩は猫である』に登場する。

「行きましょう。上野にしますか。芋坂(いもざか)へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮(ふる)ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱(くつぬぎ)へ下りる。
 吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行(びこう)する勇気もないからずっと略してその間(あいだ)休養せんければならん。
『吾輩は猫である』五

メモ

善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂で、名前は自然薯(山芋)がとれたことにちなむ。 『吾輩は猫である』執筆当時は、すでに線路のため途切れ形状が失われていた。  日本鉄道開業(1883年)

今は芋坂跨線橋でが架かっている。

羽二重団子

店名は記されていないが「芋坂の団子」として『吾輩は猫である』に登場する。

「行きましょう。上野にしますか。芋坂(いもざか)へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮(ふる)ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱(くつぬぎ)へ下りる。
 吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行(びこう)する勇気もないからずっと略してその間(あいだ)休養せんければならん。
『吾輩は猫である』五

メモ

1819年に初代庄五郎が「藤の木茶屋」を開業、「根岸名物芋坂団子」として知られるようになった。 団子が羽二重のようにきめ細かいと評判になったことから店名になった。 今でも団子だけの店として続いていて、醤油味とこしあんで包んだものの二種類がある。 持ち帰りの他、奥の茶屋風のところで食べることもできる。

道灌山

『三四郎』に登場する。

田端(たばた)だの、道灌山(どうかんやま)だの、染井(そめい)の墓地だの、巣鴨(すがも)の監獄だの、護国寺(ごこくじ)だの、――三四郎は新井(あらい)の薬師(やくし)までも行った。
<略>
与次郎が、ここを抜けて道灌山(どうかんやま)へ出ようと言い出した。
『三四郎』四

メモ

筑波や日光の連山なども望むことができたという。

港区

新橋停車場

漱石は、汽車を利用する発着が往復で48回、見送り3回、帰りだけ2回、遊びのため1回と合計54回利用したという。

『坊ちゃん』の主人公が最後に戻ってきた駅として描かれている。

神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆(しゃば)へ出たような気がした。
『坊ちゃん』十一

『三四郎』で三四郎がこの駅に到着し、東京の新生活が始まった。

大きな行李(こうり)は新橋(しんばし)まで預けてあるから心配はない。
『三四郎』一

メモ

街道 Now and Then「新橋停車場」

太田区

大森

『坊っちゃん』で主人公が最初に船でたどりついた三津浜の描写でたとえられている。

見るところでは大森(おおもり)ぐらいな漁村だ。人を馬鹿(ばか)にしていらあ、こんな所に我慢(がまん)が出来るものかと思ったが仕方がない。
『坊ちゃん』二

メモ

本門寺

『坊ちゃん』に「お会式」が登場する。

 会場へはいると、回向院(えこういん)の相撲(すもう)か本門寺(ほんもんじ)の御会式(おえしき)のように幾旒(いくながれ)となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄(なわ)から縄、綱(つな)から綱へ渡(わた)しかけて、大きな空が、いつになく賑(にぎ)やかに見える。東の隅(すみ)に一夜作りの舞台(ぶたい)を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだそうだ。
『坊ちゃん』九

メモ

日蓮宗四大本山の一。日蓮聖人が1282年に入滅したところでもある。

「お会式」は日蓮の命日の10月13日を中心に全国各地の日蓮宗の寺で行われるが、本門寺がもっとも盛大である。