未来からの贈り物
ここから何回かにわたり、さわやかなコミュニケーションのしかたというテーマをめぐって書いてみようと思います。ここで言うコミュニケーションとは、言葉その他の表現手段を使って、情報、主張、気持ち、および人間的エネルギーなどを、人と人との間で伝え合うことと定義しておきましょう。主として取り上げるのは会話になると思いますが、コミュニケーションにはそのほかいろんな形の手紙のやりとり、無言の行動のやりとり、喧嘩、性的行為なども含まれます。仕草、表情、態度のように、言葉以外の表現手段を使うコミュニケーションも大切な問題です。昔NHKで「じょうずな話し方」というラジオ番組がありました。さまざまな場面について、俳優さんに場面を演じてもらいながら、上手な話し方の技術を具体的にわかりやすく教えてくれるものでした。また、最近では、就職面接を成功させるための話し方、果ては恋人に好かれるための話し方などのハウツー本、ビデオ、雑誌記事が出回っています。私は、ここでその種のテクニックを議論するつもりはありません。
じょうずな話し方のテクニックは、当事者の人間としてのありかたとは無関係に使うことができるし、逆にテクニックが当事者の人間としてのありかたを変えることも期待されていません。たとえば、人事面接のテクニックは、面接する側とされる側とが、互いに好感を持っているか、虫が好かないと感じているかには関係ありません。また、人事面接のテクニックが劇的に効果を奏したからと言って、面接する人とされる人とが愛し合うようになるということはありません。もちろん、何事にも絶対ということはありませんから、そういう珍事が全く起こらないとは言えませんが、もし起こったとしたらそれはテクニック以外のものが交換されたからだと思います。
それに対し、私が関心を持っているさわやかなコミュニケーションは、当事者の人間としてのありかた、人格的成長、人間関係などと不可分に結びついています。悪魔の誓い、たとえば「私は、まわりの人が成長し、完全にその人自身でいようとすることを望みません。その人が無力で無能な人間であり続けるように手を貸します」を無意識のうちに信奉している人は、自分の配偶者や子供が受けた質問を横取りして答える癖がついていたりします。「おっとりしている」とか「人懐っこい」のような気質は一生変わりませんが、悪魔の誓いのようなライフスタイルは、固定したものでなく、行動の積み重ねが癖になったものですから、コミュニケーションのやりかたを改善すれば望ましい方向へ変えられる可能性があります。
私たちは、誰かとコミュニケーションするとき、言葉で表現できる情報のほかに、実は言葉に表すことのできないメッセージ、さらには人間的エネルギーを交換しています。たとえば、私が37歳の独身の女性に「早く結婚しなさい」と言う時、確かに表面的には早期結婚の勧告に違いありませんが、私は実は彼女に性的魅力を感じていて、早く結婚してくれないと私の気持ちを持て余して落ち着かないからこう発言したのかもしれないし、あるいはあまりに自分を責めつづける彼女に人間的ないとおしさを感じ、「もっと楽になっていいんだよ」という優しい気持ちで発言したのかもしれません。私たちが勇気付けられたり、傷ついたりするのには、この非言語的メッセージ(私の本当の気持ち、感情)が重要な役割を果たしています。ここで言う非言語的メッセージは、意図しなくても私の本当の気持ちがつい相手に伝わってしまい、結果としてメッセージになるものです。
非言語的メッセージをうまく扱うのはなかなか難しい課題ですが、さわやかなコミュニケーションのやりかたに気を配ると、ある程度できるようになります。
1999/10/24
(C)MPC息子が小学校3年のある日、妻が夕食の副菜にフライドポテトを作りました。子供たちはこれが大好物なので、何度かおかわりをしました。その何度目かの時の会話です。息子「ポテトのおかわりはもうないの?」妻「それだけにしておきなさい。もう油をしまってしまったわ」
どこにでもありそうなごく普通の会話ですね。しかし、さわやかなコミュニケーションの立場から見ると、ちょっとおかしいところがあります。どこがおかしいかわかりますか?会話はこのあと次のように続きました。
息子「だから、ないんだね」妻「そうね。ないわ」
息子「もっとほしいと言ったんじゃないよ」
ここまで来れば、かなりはっきりします。初めの会話において、息子は「おかわりがまだあるかどうか」を知りたくて質問をしたのですが、妻はそれを「おかわりがほしい」という要求だと解釈したため、コミュニケーションがかみ合っていないのです。
それでは、「ポテトのおかわりはもうないの?」という質問が、どうして「おかわりがほしい」という要求と誤解されてしまったのでしょうか。
こんな場面ではどうでしょう。10時には床に就くように普段言われている子供が10時を過ぎてもゲームに夢中になっている時、母親が「いま何時か、わかってるの?」と言うことがあります。この時、母親は本当に子供が現在時刻を知っているかどうかという質問をしているのでしょうか。もしそうなら、子供が「うん、わかってるよ」と答えても、「いやあ、知らないよ」と答えても、母親は満足するはずです。ところが多くの場合、子供がそんな答えをすると、母親の機嫌が悪くなります。子供が「わかった。もう寝るよ」と言うと母親は満足します。つまり、「いま何時か、わかってるの?」という質問は、実は質問ではなく、「早く寝なさい」という要求を遠まわしに表現したものだったのです。
このように、私たちは要求をストレートに表現せず、質問の形を借りて表現することがあります。妻はそのような要求のやりとりに慣れているので、息子の質問を、遠まわしの要求と早とちりしたようです。
正月に帰省した若い夫婦と夫の両親とが料亭の個室で会食をしているとしましょう。室内は暖房が控えめで、年配の人にはやや寒いくらいです。食事が運ばれるのを待っていると、お姑さんがお嫁さんに、
「ねえ、景子さん寒くない?」と聞きました。景子さんは、夫の実家にいる間やや汗ばんでいたので、その部屋のややひんやりした気温が心地よく、
「いいえ、別に。いい気持ちです」と無邪気に答えました。これを聞いてお姑さんは少しむっとしました。どうやらお姑さんは「お寒いですか。じゃ暖房を強くしてもらいましょう」というような応対を期待していたようです。つまり、「景子さん寒くない?」という質問は、実は「私は寒いので、暖房の調節をなんとかしてほしい」という要求だったわけです。
このような場面では、質問の形を借りた遠まわしの要求を敏感に察知して対応することを美徳と考えている人が少なくありません。そういう人たちの間では、景子さんは「気が利かない」「鈍感」などと評価されてしまいます。したがって、妻のように、質問をされると、すぐ「この質問の裏にある要求は何か」と先回りする癖がついてしまうのも無理ありません。そうなると、今度は自分が誰かに要求をする時も、無意識のうちに質問の形を借りるのが習慣になるかもしれません。
さわやかなコミュニケーションを通じて、気持ちのよい人間関係を再構築する課程の第一歩は、この質問の形を借りた要求を見直すことから始めましょう。
1999/12/30
(C)MPC私たちは、小さくて単純なものから、ビジネスの交渉のように複雑なものまで、実にさまざまな要求を、毎日の生活の中で主張しています。要求を誰かに対して主張することは、新鮮な空気を吸ったり、汗を拭いたりするのと同じように、自然な行動です。そして、要求を出してみて、かなえてもらえれば感謝と喜びの気持ちを表し、きいてもらえなければがっかりして引き下がる、という基本動作の繰り返しが、本当の親密さや愛情を育むのに大切な役割を果たします。この基本動作のどれひとつがかけてもいけません。たとえば、要求をきいてもらえたのに当然のような顔をしていたり、断わられたら相手がイエスと言うまで食い下がる、などということをやっていると、不信と不毛の人間関係に陥ります。要求を質問の形にすることは、要求を出していないかのように偽装することによって、この基本動作の最初のボタンを掛け違えてしまうという意味で有害です。
映画「エデンの東」(1955米)で、問題行動ばかり起こす次男キャル(ジェームズ・ディーン)は父親の愛情がほしいだけなのですが、父親にはそれが理解できません。長男の恋人アブラだけがそんなキャルを理解し、脳溢血で倒れた父親に向って、
「求められないほどつらいことはありません。最期にキャルに何か求めてあげて。それであなたの愛情を示してあげてください」と切々と訴えます。キャルが枕元に呼ばれると、父は不自由な口で、
「看護婦が無神経で我慢できない。おまえが看病してくれ」と頼みます。キャルは看護婦をたたき出し、目にいっぱい涙をためて父の枕元にすわるところで映画は終わります。
赤ちゃんは、おなかがすくと、「おっぱいがほしい」という要求を全身で表します。おっぱいを赤ちゃんがこんなふうに欲しがってくれたら、愛情を感じないではいられないと思います。また、恋人から「会いたい」と言われるのも、嬉しく愛情を感じる瞬間ではないかと思います。このように、人間存在に向けて要求を出すことは、「私にはあなたが必要だ」というメッセージであり、「あなたは私にとってかけがえがない」という関係への入り口になります。
もしこれらの要求を質問の形に変えたらどうなるでしょう。ドラえもんに道具を出してもらって、赤ちゃんと会話をすることができたとしましょう。全身で泣いている時は、
「おっぱいちょうだい」と訴えていることでしょう。これを質問の形に変えるとこうなります。
「お乳がはってきたみたいだね。ママ、授乳したい?」どんな気持ちがしますか?赤ちゃんが口をきくという不気味さはともかく、そのほかに、なんだかはぐらかされたような、試されているような変な感じがしませんか?「授乳したい?」という質問は、本当は「おっぱいがほしい」という赤ちゃんの要求を、母親の「授乳したい」という要求に巧妙にすりかえています。母親は一瞬、罠にかかったような不快な気分になりますが、すぐ授乳したくなります。こうして赤ちゃんは、「おっぱいがほしい」という要求などなかったような顔をして、おっぱいを手に入れることができます。母親は、赤ちゃんから要求されていないので、「私はこの子に必要とされている」という充実感を感じられません。
恋人の「会いたい」を質問の形に変えると、こうなります。
「ねえ、会いたくない?」こう聞かれて「会いたくない」と答える相手はまずいないでしょうから、
「会いたいよ」「じゃあどこで?」
と会話はデートの相談に移るかもしれません。電話をかけてきたのは恋人の方なのに、いつの間にか電話を受けた方がデートを申し込んだみたいです。電話を受けた方はちょっと嫌な気持ちになりますが、たいていすぐ忘れてしまうかもしれません。しかし不信感や疎外感は無意識に蓄積され、ふたりの関係を倦怠期へと導くのです。
1999/12/30
(C)MPC要求を誰かに対して主張することは、呼吸や排泄と同じくらい自然な行動なのですが、中にはこれを「はしたない」こと、あるいは「わがまま」と混同している方もおられます。しかし要求を出さないでは生きて行けませんから、こういう人は、要求を質問の形に偽装することがあります。「ねえ、景子さん寒くない?」とお嫁さんに聞いたお姑さんはこのタイプと考えられます。こんなふうに遠まわしに要求を表現されると、受ける方はなんとなく試されているような嫌な気分になります。遠まわしの要求を敏感に察知して叶えてあげて当然(点数がやっと0点)、察知できなければマイナス点になります。これでは疲れるばかりで、世話のしがいがありません。気を抜けないので、本当の親密さなど育つ余地がありません。
お姑さんが、「ねえ、景子さん。私、寒いわ。暖房を強くしてくれない?」と言ってみたらどうでしょう。まず、わかりやすいという利点があります。そして、景子さんが暖房を強くしてあげれば、「お母さんのために何かしてあげた」「プラス5点入れたぞ」という喜びが得られます。
要求を質問の形にする癖のある人同士が集まると、もっとややこしくなることがあります。
A「寒くありませんか?」B「お寒いですか。じゃ暖房を強くしましょう」
というようにうまく行けばいいのですが、呼吸が合わないと、
A「寒くありませんか?」B「お寒いですか?」
A「いえ、私は別にいいんですけど、あなたがお寒くはないかと思って」
B「私はこのくらい大丈夫ですが、お寒かったら暖房を強くしましょうか?」
A「い、いえ、私も大丈夫です」
ふたりとも要求を出した張本人になりたくなく、互いに相手を要求の主人公にしようと争っているわけです。その結果、ふたりとも寒いと感じているのに、「二人とも我慢できて大丈夫」という訳のわからない結論に陥ってしまっています。
AさんとBさんとは別にそれ以上親密になる必要もないので、ふたり仲良く寒さを我慢してもらうのも悪くありません。しかし、恋人、夫婦、親子、上司と部下のように、信頼し合うべき継続的な人間関係でこんなことをやっていると、その害はもう少し深刻かもしれません。
要求を出すには勇気がいります。相手に嫌がられるかもしれません。断わられて傷つくかもしれません。したがって、要求を出すことに臆病になってしまうのも無理ありません。ましてや、「会いたい」と恋人に電話して何度も断わられる体験が続くと、ますます臆病になるかもしれません。
また、要求を出すとプライドを失うような気がすることもあります。たとえば、「会いたい」と言われるのは気分がいいが、自分から「会いたい」と言うのは癪に障るかもしれません。あるいは、パートナーから誘われて「させてあげる」のは好きだが、自分から「抱いて」とは死んでも言えないという人もおられるかもしれません。
このように要求を出すことにはリスクが伴います。このリスクを避けるために、私たちはつい要求を質問の形に変えて、要求することなく目的を達成しようとします。その代償として、不信と倦怠と疎外感が、白蟻のように少しずつふたりの関係を蝕みます。勇気を出してこのリスクを冒す者だけが、そして要求を出してみて、かなえてもらえれば感謝と喜びの気持ちを表し、きいてもらえなければがっかりして引き下がる、という基本動作を積み重ねた者だけが、本当の親密さと信頼のご褒美をもらえるのです。
1999/12/31
(C)MPC純子さんは小さなママさんコーラスのメンバーです。この合唱団には、P子さんという音楽的にも練習態度的にも調和を乱す人がいて、メンバーたちは迷惑していました。P子さんがたまに練習を休むと、練習がやりやすくなり、楽しく歌えるというありさまでした。P子さんに合唱団をやめてほしいというのが、メンバー全員のほぼ一致した希望になっているようです。「どうしたらいいでしょうね」と純子さんがお聞きになるので、私はこんな簡単な相談はないと思って、「やめていただけばいいんじゃないですか」と答えました。すると純子さんは、案の定「そんなことできませんよ」と言いました。「〜できない」という表現は、私たちの会話で、特に問題の解決方法を相談している時、頻繁に使われます。さわやかなコミュニケーションの第二課程では、この「〜できない」を見直してみましょう。
「〜できない」は本来「不可能」を意味する表現です。ところが、これは平成12年度予算の赤字国債よりもっと乱発されていて、「〜できない」が使われる場面を「現実に触れる」という観点から点検してみると、ほとんどが事実ではありません。
たとえば、P子さんに本当にやめてもらうことができない事情を考えてみます。まずP子さんが合唱団のオーナーである場合。これは確かに「やめる」という概念がそもそも成り立たないので、やめてもらうことは不可能でしょう。しかし、実際にはこの合唱団はメンバーが自主的に作った趣味の集まりなので、P子さんに特別の権限があるわけではありません。次に、P子さん以外のメンバーが全員なんらかの言語障害を持っていて、言葉を話す能力も文字を書く能力もない場合。これでは、確かにP子さんに対して退団勧告の意思表示をする手段がないので、やめてもらうことは不可能でしょう。
現実はこのどちらにも該当していません。純子さんが「そんなことできません」と言っているのは、不可能なのではなく、実は、「P子さんをやめさせることで、みんなで弱い者いじめをするように見えるのがいや」あるいは「P子さんに恨まれたり、冷たい人間と思われたくない」ということのようです。
このように、私たちが「〜できない」と言うとき、現実には「〜したくない」または「〜する方法を知らない」のいずれかであることがほとんどです。「〜したくない」または「〜する方法を知らない」を無意識に「〜できない」にすりかえることによって、私は自分のパワーに自ら制限を設け、選択の幅を狭め、本当は解決できる問題を迷宮に固定してしまいます。
同窓会に出かけた妻の留守を守っている夫に電話。
妻「電車に乗り遅れて、一時間ほど遅くなるの。夕食のおかずを買って帰るから、ご飯を炊いておいて」夫「えっ、ご飯を炊く? そんなことできないよ」
これは「方法を知らない」を「できない」に言い換えた例です。
夫が野球のナイター中継を見ていて、妻が食器の後片付けをしていて、子供が風呂に入っています。一点差で迎えた9回の裏、2アウト満塁、試合終了か逆転勝利かが次の一球で決まるという時、浴室からシャンプーがないと訴える子供の声。
妻「シャンプーを出してやってくださいな」夫「今できないよ」
これは「やりたくない」を「できない」に言い換えた例です。この例はすりかえがかなり明白ですが、もっと騙されやすいすりかえもたくさんあります。組織的違法行為が明るみに出て廃業に追い込まれた会社の中間管理職が「違法と知っていたが、何もできなかった」と言うのも、このタイプのすりかえです。
2000/1/2
(C)MPC事実でない「〜できない」の乱発をやめ、ちょっと努力して「〜したくない」や「〜する方法を知らない」に言い換えてみると、いろいろな可能性が拓けるかもしれません。まず、「〜できない」の文章例(一般的なものでなく、自分ができないと思えるもの)をいくつか考え、それらを「〜したくない」形または「〜する方法を知らない」形に言い換えてみます。例えば、「職場のお茶汲みの仕事を断われない」を「職場のお茶汲みの仕事を断わりたくない」または「職場のお茶汲みの仕事を断わる方法がわからない」に言い換えてみて、どんな感じがするか味わいます(考えるのでなく、味わうのです)。次に「職場のお茶汲みの仕事を断われない」と言葉にして、どんな感じがするか味わいます。こうして「〜できない」形とそうでない表現とを交互に試してみて、私が受ける印象を比較します。
同じことを、「職場旅行への誘いを断われない」「涼子さんをデートに誘うことができない」「先生としてしまった約束を取り消すことができない」「煙草をやめることができない」など、いくつかの文章で試してみます。
「〜できない」形とそうでない表現とを比較すると、「〜できない」と言っているうちは、問題の強大さに比べて、私が弱小で無力な感じがするのに対し、「〜したくない」または「〜する方法を知らない」に言いかえると、問題が少し小さくなり、私がちょっとパワフルになったような感じがすることに気づかれたでしょうか。
これができるようになったら、今度は誰かとの会話で私がよく口にする「〜できない」を探します。すぐ思いつかなければ、誰かと話している時、または話し終わったあと、私が何度も口にした「〜できない」がなかったか探します。それが例えば「受付時間終了後でも、電話がかかると放っておくことができない」だとすれば、これを「…電話を放っておきたくない」と言い換えてみて、どんな感じがするか味わいます。次に「…電話を放っておく方法がわからない」と言い換えてみて、どんな感じがするか味わいます。さらにほかの表現も試してみて、その感じを味わいます。こうして、私の気持ちに最もぴったり来る表現を探します。その結果は「…電話を放っておくと落ち着かない」かもしれません。
それがわかったらその中身を、思考力を使って少し詳しく分析してみます。
誰が落ち着かないのか。私です。
落ち着かなくなるきっかけは何か。受付終了後の電話です。
どんなふうに落ち着かないのか。重大事件かもしれないと想像するからです。
これまでに実際にそれが重大事件だったことがあるか。一度もありません。
これまで電話を取った結果何が起こったか。そういう電話にかぎって対応に時間がかかり、疲れてしまいました。
もしその電話を取らなかったら、私は困ったか。いいえ、仕事がはかどりました。
その電話を取らなかったら、電話の主はすぐに困ったか。いいえ、ほとんどの電話の主は単に受付時間を知らないか無頓着なだけで、翌日でも用が足りたはずです。
こんなふうにすると、電話を取るしか選択の余地がないというのは実は私の思い込みであって、私が落ち着かなくなるのを解決しようとして、電話に出ることを私が選んでいたのだということ、私の行動の選択肢はいくつかあること、などがわかってきます。ここで「わかってくる」と言っているのは、頭で理解できるのではなく、「ああ、そうか」とほっと落ち着く状態を指しています。ほっと落ち着けなかったら、前の段階をもう一度丁寧にやってみるか、別の機会にやり直します。
これがうまくできるようになったら、今度は誰かと話している最中に、言いそうになる「〜できない」について、最も気持ちに合う表現のチェック、分析をリアルタイムでやってみます。
2000/1/2
(C)MPC
コミュニケーションは、ある側面から見るとキャッチボールに似ています。私がボールをあなたに投げる。あなたがそれを受ける。そのボールを持ち替えて、今度はあなたが私に投げる。私がそれを受ける。そのボールを持ち替えて、今度は私があなたに投げる。こうしてひとつのボールがあなたと私との間を行ったり、来たりすることで、キャッチボールは楽しいゲームになります。どちらかがボールを受け損なったり、相手のいない方向に投げたり、ひどい場合には相手のボールを受けないで新しい別のボールをどんどん取り出して一方的に投げつけたりすると、気持ちよいゲームのリズムが崩れてしまいます。キャッチボールでは同じボールが行ったり来たりしますが、コミュニケーションでは、あなたと私との間で交換されるメッセージが原則として変化して行きます。水着姿のきれいな20歳の美人タレントYさんと私とが会話しているとしましょう。
<サンプル1>
私「こんにちは」
Yさん「こんにちは」
これは、投げたものと同じメッセージが返って来る数少ない例です。交換される人間的エネルギーの密度は最も小さい種類のものですが、これはこれでコミュニケーションが成立しています。
<サンプル2>
私「ぼくと結婚してください」
Yさん「あなたは誰ですか」
これは、投げたメッセージと返ってきたメッセージとが異なります。多くのコミュニケーションでは、このように最初のメッセージと次のメッセージとが異なります。ただ、この例では返されたメッセージが最初のメッセージに対応しておらず、コミュニケーションが成立していません。
<サンプル3>
私「ぼくと結婚してください」
Yさん「いやです」
投げたメッセージと返ってきたメッセージとが違うという点では先の会話と同じですが、返されたメッセージが最初のメッセージに対応していて、コミュニケーションが成立しています。そして、Yさんの返事は私を落胆させるものですが、そのことを別にすれば、最初のメッセージ、返されたメッセージとも、率直かつ単純明快で、さわやかなコミュニケーションの一例と言えます。
このようにコミュニケーションでは、あなたと私との間で交換されるメッセージが変化して行っても、キャッチボールと同じように、あなたが私の最初のメッセージを確かに受け取ってくださること、そして返してくださるメッセージが最初のメッセージに関連を持っていることが大切です。
例外はありますが、このキャッチボールのように単純なことが、さわやかなコミュニケーションの基本原則です。
サンプル2において、私の最初のメッセージには「あなたを愛している。あなたの人生に深く関わりたい」というかなり深いレベルの人間的エネルギーがこもっています。しかし返されたメッセージは単なる人定質問で、役所窓口の対応と変わらない浅いレベルのメッセージです。つまり私の気持ちは全く受け取られていないことがわかります。不躾なプロポーズについての私の責任は別として、このように応対されると、私は傷ついてしまいます。
サンプル3では、私のメッセージと同じレベルから、つまり私の名前や素姓などを問題にせず、私の人間そのものに対して返事が返って来ています。Yさんが人間として私に向き合ってくださったのがわかります。したがって私のメッセージが受け取られています。このように応対されると、私はすっきりします。返事がノーでも、これはさわやかなコミュニケーションなのです。
2000/1/4
(C)MPCあなたと私とがコミュニケーションしているとき、あなたが私の最初のメッセージを確かに受け取ってくださること、そして返してくださるメッセージが最初のメッセージに関連を持っていることがさわやかなコミュニケーションの基本原則です。メッセージを受け取ってもらえない例をもうひとつ見ておきましょう。
<サンプル4>
子供が通う高校の行事で母親が発表をすることになり、当日何を着て行くかについて、親子で話をしています。
母「やっぱり青のスーツね。変わりばえしないかしら」子「スカートはだめよ。ステージなんだよ。生っちろい脚がヒョコヒョコ動くのおかしいよ。毎年そう」
母「パンツ・スーツはひとつしか持ってないからねえ。あれだと雰囲気に合わないんじゃないかな」
子供は、例年の行事を見た経験から、母の最初の発言内容のうちスカートという形態に着目し、ステージ上では脚が見えるとおかしいという一種の反対意見を示しました。母の発言の中にスカートという言葉が出ていないにもかかわらず、子供は「青のスーツ」という言葉を聞き取り、想像し、それがどんな服だったか正しく認識したことがわかります。つまり、子供は母のメッセージを受け取り、それに対応した応答を返しています。
事柄としては「ステージ上では脚の見える服装をすべきでない」というのが、子供の発言の要点です。と同時に「お母さんにみっともない恰好をしてほしくない」という気持ちのメッセージが、この子の発言には含まれています。さらに「私の美的センスを認めてほしい」という気持ちもありそうです。
母の最初の発言に比べて、子供の発言にはこれだけ豊かなメッセージが含まれています。ところが、それに対する母の次の発言は子供のメッセージをほとんど受け取っていません。これにはふたつの意味があります。
私たちは、誰かとコミュニケーションするとき、言葉で表現できる情報のほかに、実は言葉に表すことのできない気持ちのメッセージを交換しています。さわやかなコミュニケーションの基本原則で「メッセージを受け取ることが大切」と言う時の「メッセージ」には、情報のメッセージと気持ちのメッセージとの両方の意味があります。
母親の二番目の発言は、子供の反対意見に対して賛成か反対か、採用するかしないのかをきちんと答えないで、いきなりパンツスーツの選定に飛んでしまっています。これでは、挨拶もせずにいきなり友人の家の居間に上がりこむようなものです。水着姿のきれいな20歳の美人タレントYさんがはっきりノーと答えてくださったように、賛成であれ反対であれ、まず意思表示をしてもらわないと、子のメッセージを受け取ったことになりません。このように、母の二番目の発言は子供からの「情報のメッセージ」をまず受け取っていません。
次に気持ちのメッセージも受け取っていません。子供の発言を聞くと、母の中に「へえ、そうなのか」という発見の意外感、自分が気づかないことを教えてくれるまでに子供が成長した嬉しさ、子供が自分に寄せる愛情の喜び、などさまざまの感情が(微弱かもしれませんが)生じます。その気持ちを、たとえば「なるほどねえ」と言いながら感心したように子の顔を見るとか、子の肩を軽く抱くなどの表現で、素直に伝えるようにすると、子供は母が気持ちのメッセージを受け取ってくれたことがわかって満足します。母の二番目の発言は、このままでは「私はおまえを信頼したくない」「成長してはいけない」「私を愛するな」などの否定的な気持ちのメッセージを伝えてしまう恐れがあります。
2000/1/5
(C)MPC気持ちのメッセージを受け取ることは、情報のメッセージに比べるとかなり難しいかもしれません。気持ちのメッセージは目に見えないからです。しかし、気持ちのメッセージの交換が情報のメッセージより重要になる場面は少なくありません。たとえば、印象に残った体験をあちこちで話していると、「はて、この話はここで前にしたかな」とわからなくなることがあります。「ここでは一度話した」とはっきり憶えていることもあります。それらを比較してみると、話した時に私の気持ちメッセージを受け止めてもらえたなと実感できると、話したことが記憶に残るようです。気持ちメッセージを受け止めてもらえないと、なんとなく満たされず、話したと実感できないのではないかと思います。小学校低学年の子供が、学校から帰るなり、ランドセルを叩きつけるように玄関に投げ出し、そのままにして居間のソファにドカンという感じで座りました。非常に興奮しているようすで、目には涙をためています。そのただならぬようすに、私は動揺してしまいます。動揺して当然です。ここで「ランドセルをちゃんと持っていけ」などと叱るのは一番まずい対応です。反射的にそういう叱責が口をついて出てしまうのは、私の動揺を子供の行動の不適切さにすりかえているからです。
少し余裕のある母親は、「どうしたの?」「いじめられたの?」「けんかしたの?」と聞きました。ただ、母親は自分の動揺を十分意識化していないので、警察の取り調べ室で容疑者を訊問するような口調になっていました。すると子供は怒りだし、ますます興奮して手がつけられなくなりました。
情報のメッセージに着目すると、子供から何も情報がもらえないので、母親はただ情報を求める質問をしただけです。情報のメッセージだけでは、ここで起こったことを説明できません。では気持ちのメッセージに着目してみましょう。子供は、非常に傷つき、悔しいという感情を全身からオーラのように発信しています。これは強烈な気持ちのメッセージです。さらに、いつもどおりの時刻に帰って、母親の目の届くところに来たということから、「この興奮をひとりではどうやって収めていいのかわからない」というSOSも発信しているかもしれません。
母親は子供のようすを見て不安や恐怖を感じました。ここまでは当然です。ただ、母親はそのことを十分意識化できず、そういう自分を嫌がってしまいます。そうなると、自分の不快感に対して防衛するのが精一杯で、子供からの気持ちのメッセージを受け止めるどころではありません。しかも困ったことに、母親が不愉快になっているという気持ちのメッセージが、伝わってほしくないのに伝わってしまいます。子供は、自分の動揺すら収めかねているのに、さらに母親からも不愉快オーラを浴びてしまい、「泣きっ面に蜂」状態になるわけです。
子供のようすを見て不安や恐怖を感じるまでは誰でも同じですが、安定した母親は、不安や恐怖を感じている自分を認め、受け入れることができます。不思議なことに、この安定感が子供に伝わります。すると子供は、興奮が消えるわけではないのですが、なんとなく安心します。こうして、不安や恐怖を感じながら、落ち着いて子供を気にかけ続ける母親の安定した心理状態が、子供からの気持ちメッセージを受け止め、結果として母親から子供への勇気付けの気持ちメッセージとなります。これができていれば、言葉をかけなくても、母親の視線や存在を子供が感じられるように気を配るだけで十分かもしれません。もっと積極的に気持ちメッセージを伝えたければ、黙って子供のそばに座って軽く肩を抱いたり、いっそ「よしよし」とハグしてしまってもいいかもしれません。事情聴取や事件解決はその後の話です。
2000/1/16
(C)MPC前回の、学校から帰るなり、ランドセルを叩きつけるように玄関に投げ出した子供のエピソードについて、二、三、補足しておきたいことがあります。そこに三種類の対応が登場しました。第一は、「ランドセルをちゃんと持っていけ」などと叱る一番まずい対応。第二は、「どうした」「いじめられたの?」「けんかしたの?」などと、警察の取り調べ室みたいに訊問してしまう対応。第三は、子供の気持ちメッセージを受け止め、勇気付けの気持ちメッセージを返せる対応。前回を読んだ親や先生の中には、自分が第二のタイプをやっているとがっかりした方があるかもしれません。統計をとったわけではありませんが、数から行くと第二のタイプが最も多い(おそらく大部分)のではないかと思います。生まれつき第三の対応ができる人は少ないし、普通の人が第三の対応をするには訓練が必要です。第三のタイプは難しい言葉でカウンセリング・マインドなどと呼ばれています。大勢がやっているからいいとは言えませんが、第二の対応をやっている人は、最善ではないにしても、仲間が多いという点では安心していただいていいのではないかと思います。
ただ、情報のメッセージを受け取ることは、気持ちのメッセージを受け取ることに比べると比較的簡単です。情報のメッセージは目に見える、もう少し正確に言うと言葉や文字で認識できるので、必ず相鎚を打つとか返事をするというような目に見えるハウツー的工夫でかなりできるようになります。ですから、相手のボールを受け取らずに別のボールを投げつける癖のついている人は、情報のメッセージを受け取ることだけでもまず心がけるといいと思います。
第三のタイプを読んで、なるほどと感心して下さった方があるかもしれません。ただ、だからと言って「明日から私もこうやろう」と形だけ真似るのは、ちょっと待ってください。勇気付けの気持ちメッセージを送ろうとしても、気持ちメッセージは作ることができないのです。
情報のメッセージは本心に関係なく作ることができます。たとえば本当は「地球は丸い」と信じていても、「地球は平らです」と情報のメッセージを伝えることは可能です。ところが、気持ちメッセージは、意図しなくても私の本当の気持ちがつい相手に伝わってしまい、結果としてメッセージになるものです。荒っぽく言うと、たとえば私が嫌悪感を持つ相手に好感の気持ちメッセージを送ることは不可能なのです。これは、感情が自然現象であって、変えることができないからです。
もう少し正確に言うと、たとえば深刻な相談を手紙や電子メールなどで受け取ると、私は暗い気持ちになります。これは当然のことで、何の問題もありません。問題は、相手の方と一緒に暗く落ち込んだ気分でいる状態を、私が比較的落ち着いて受け入れられる時と、心がざわついて収まらない時とがあるということです。このどちらの状態に私がいるかということは、おそろしいほど伝わってしまいます。そして、心がざわついて収まらない状態を、意思によって安定した状態に変えることは不可能なのです。ただ、いつどのような対応をするかということは、意思によって決めることができます。心がざわついて収まらない時に返事を書くと、それが気持ちメッセージとして相手に伝わってしまい、「泣きっ面に蜂」を強いる結果となる恐れがあります。そういう時は、私の暗く落ち込んだ気分を、比較的落ち着いて受け入れられるようになるまで待ちます。
気持ちメッセージを受け止めるのは容易でないし、伝えるのはさらに難しい課題なので、いつかシリーズを設けて議論したいと思います。さしあたっては、今の気分を意識化することを心がけておいてはどうかと思います。
2000/1/24
(C)MPC気持ちメッセージを作ることはできませんが、情報メッセージを作ることはできます。したがって、情報メッセージを気持ちメッセージに合わせることは可能です。この性質を使うと、わかりやすい話し方をすることができます。わかりにくい話し方には大きく分けて2種類あります。ひとつは、情報メッセージが整理されていないもの。これはよく知られています。しどろもどろだったり、支離滅裂な話し方はこのタイプです。学校や職場などで行われる発表の訓練は、このタイプのわかりやすさを目的としています。
もうひとつは、あまり知られていませんが、情報メッセージは一応筋が通っていても、情報メッセージと気持ちメッセージとが一致していないものです。
たとえば、私が34歳の貴子さんと不倫しているとしましょう(この番組はフィクションであり、登場する人名などはすべて架空のものです)。貴子さんは魅力的な独身女性です。ところが、彼女への愛がさめて別れたくなりました。そこである日、意を決して別れ話を切り出しました。
<サンプル5>
「このまま未来のない関係を続けても、きみの人生を無駄に費やすばかりだと思う。きみは若くてきれいだから、もっとふさわしい相手と付き合って、幸福になった方がいいと思う。別にきみが嫌いになったわけではないんだ。愛しているからこそ、どうすることがきみを本当に大切にすることか考えたら、別れるのが一番いいと思うんだ」どうでしょう。映画の台詞みたいにカッコよく、情報メッセージとしては一応筋が通っています。しかし、「別れたい」という私の気持ちメッセージと一致していません。本当は私の都合で別れたいのに、貴子さんが原因みたいにも聞こえ、貴子さんは混乱してしまいます。
情報メッセージを気持ちメッセージに一致させる話し方をすると、たとえばこんなふうになります。
<サンプル6>
「これは僕の問題なんだけど、最近きみと付き合うのが負担になってしまったんだ。きみに不満があるんじゃなくて、僕の方が変わったんだと思う。なんだか切なくて悲しいけど、別れてくれないか。きみと知り合えて本当に幸せだった。勝手な男だよね。ごめん。本当にごめん。悪いと思ってる。ほら、好きなだけ僕を叩いていいよ」こちらは、理屈をこねまわさないで、私の気持ちがストレートに(しかし慎重に言葉を選びながら)出ています。それだけ説得力があります。貴子さんはやはりショックを受け、悲しむでしょうが、別れ話というものは、どう言い訳してもショッキングで悲しいことが現実です。サンプル5の話し方では、私の真意がわからず、現実に触れることができないので、貴子さんの中で「感情の便秘」が起こる恐れがあります。また、サンプル5に比べてあまりカッコよくありませんが、やっている現実がカッコよくないのですから仕方ありません。
こういうカッコ悪さ、辛さ、悲しさは、避けられないもの、避けてはいけないものです。私はそれを変えることも取捨選択することもできません。しかし、情報メッセージを気持ちメッセージに合わせる話し方をするかどうかということは、私に決めることができます。
このように話し方を工夫すると、その利点は私の話をわかってもらいやすくなるだけにとどまりません。この例のように深刻な場面では、被害を最小限にとどめることもできます。避けられないカッコ悪さ、辛さ、悲しさを避けようとして、気持ちメッセージと情報メッセージとの食い違う話し方をすることが、かえって問題をこじれさせてしまうのです。
2000/02/19
(C)MPC情報メッセージと気持ちメッセージとが一致している話はわかりやすいという例をもうひとつ見ておきましょう。カルチャーセンターで、毎月、一般市民を対象とする哲学の講座が開かれていました。講師は有名な先生ですが、この先生の方針で、一回約2時間の講座のうち、終わりの約30分ほどは受講生同士の交歓にあてられていました。この時間のおかげで、受講生同士、受講生と先生との間に人間的な結びつきが生まれ、講義にふくらみが出る効果をあげていました。
あるとき、受講生の山下さん(51歳、主婦)が、自宅のガレージでよその猫が子供を産んで育てているという話をしました。子猫のかわいらしさだけでなく、母猫のいじらしさ、子猫の成長の感動、それを見守る山下さんの楽しみでならない気持ちなどがよく伝わってきました。その日の講義は、哲学から見た不易流行(永遠に変わらないものと、常に変わり続けるもの)の概念がテーマだったのですが、講義を聴きながら山下さんがこの話をしたくなった気持ちの流れがなんとなくわかりました。そこで、ほかの受講生が感想や、似た体験などを話し、明るく暖かい雰囲気に盛り上がりました。
その中で木村さん(68歳、宗教家)は、暗い表情で山下さんの話の意味をご自分の宗教の立場から解釈する話をしました。木村さんが話し始めると、それまで華やいでいた空気がシュンとしぼんでしまいました。話している事柄は一応山下さんをフォローしているのですが、木村さんの話を聞いていると、猫の家族の話で楽しい気分になったりして申し訳ないような気がしてきました。山下さんが話した時は、ほかの参加者から次々に発言が引き出されたのに対し、木村さんが話していると、ほかの参加者は黙り込んでしまいました。
一ヶ月後の講座のとき、私は前回の話をどれくらいの人が覚えているか尋ねてみました。山下さんの猫の家族の話と、それに触発されて他の人が話したことはほとんどの人が覚えていましたが、木村さんの話を覚えている人は一人もありませんでした。
山下さんの話は、猫の家族に対するかわいいという気持ちがまずあって、講義を聞いているうちにそれを話したくなったと考えられます。つまり気持ちメッセージと情報メッセージとが一致しています。
ところが、木村さんは、本当に宗教的解釈をしたくて話をしたのではなさそうです。木村さんはなかなか率直に本心を出さないので、木村さんの気持ちメッセージはつかみにくいのですが、いろいろな言動を総合すると、こういうことのようです。木村さんは、宗教活動の中で、極貧の人々への奉仕の仕事をしておられます。そこで目を覆いたくなる貧しさ、不衛生な生活、不幸などに毎日のように接して、心に傷を負ってしまいました。それで、猫の家族の話を聞いていると、胸がザワザワして、イライラしてきたのです。
木村さんは、心の傷を抑圧しているために、感情の便秘が起こり、猫の家族にまつわる新しい感情の動きを受け入れられないのかもしれません。木村さんの気持ちメッセージは、「私はどうしても猫の家族の話に乗れない」、「私には猫の家族なんてどうでもいい」、「私の心は先週お世話に訪れた悲惨な家庭のショックでいっぱいだ」、「みんな、私の話を聞いて」というようなものかもしれません。ところが木村さんが実際に口にしたのは、この気持ちメッセージと何の関係もない宗教的教義の話でした。気持ちメッセージと情報メッセージとがこれだけかけはなれているので、木村さんの話は聞いていて不気味な感じがするのです。
この気持ちメッセージを正直に言葉にすれば、木村さんの話はもっとわかりやすく、人の心に残るものになると思います。
2000/3/21
(C)MPC
あなたが私の最初のメッセージを確かに受け取ってくださること、そして返してくださるメッセージが最初のメッセージに関連を持っていること。このキャッチボールのように単純なことが、さわやかなコミュニケーションの基本原則です。そのために、やってはいけないことが四つあります。そのひとつが「質問を再定義しない」ということです。「要求を質問の形にしない」というのは、質問をする時に気をつけることでしたが、この「質問を再定義しない」というのは、逆に質問を受けたときに注意すべきことです。
37歳の会社員、吾郎さんから夫婦関係の不和について相談を受けました。その一場面。
私「奥さんが話しかけて来たとき、吾郎さんは普通どうしていますか?」吾郎さん「だって、あいつだってどうせ私の言うことなんか聞いていませんよ」
この問答に含まれる心理的な力学の難しい問題は差し当たって脇に置いておき、単純に会話の形式に注目してみましょう。私は、奥さんが話しかけるとき、吾郎さんがどう対応しているかを質問したのですが、吾郎さんは、吾郎さんが奥さんに話し掛けたときに奥さんが聞いていないと答えています。つまり、質問と答えとがずれています。吾郎さんの答えは、本来「あなたが奥さんに話しかけたとき、奥さんは普通どうしていますか?」という質問に対応するものですが、私はそんな質問をした憶えはありません。このように、質問Xを受けたとき、Xには答えず、別の質問Yを受けたかのようなふりをして、Yに対して答えを返すことを、質問の再定義と言います。
<サンプル7>
上司「三つ葉学園の増築工事の見積もりはできているか?」部下「先週からずっと部長がおられませんでした」
<サンプル8>
親「宿題は終わったの?」子「パパだって野球見てるよ」
<サンプル9>
恋人(女)「千晶さんはあなたの所に泊まったの?」恋人(男)「ずっときみに電話してるのに、ちっとも出ないじゃないか」
これらもみな質問の再定義です。
再定義すると、質問をはぐらかす効果があります。そこで私に都合の悪い質問をされたとき、それをかわすために意識的に用いるのなら、(私はあまり勧めませんが)交渉術としてはあり得るかもしれません。しかし、無意識のうちに再定義する癖がついているのは、気持ちのよい人間関係に有害です。
質問の再定義は、キャッチボールに例えると、相手の球を受け取らないで、別の球を取り出して投げるようなものです。ゲームのリズムが崩れてしまいます。さらに危険なのは、質問の再定義がしばしば喧嘩への入り口になることです。こじれた人間関係を修復しようとして始めた話し合いが、質問の再定義を境に喧嘩に変わることがしばしばあります。
私自身が再定義していることにはなかなか気づきにくくても、相手が再定義したことには気づける場合があります。相手が再定義したことに気づいたら、そのペースに巻き込まれないことが大切です。例えば、サンプル9であれば、
恋人(男)「ずっときみに電話してるのに、ちっとも出ないじゃないか」恋人(女)「そんなこと聞いてないわ。千晶さんは泊まったの?それが知りたいだけなの」
吾郎さんの例のように、私が当事者でなく、第三者として関わる場合も、吾郎さんが再定義したことに私が気づかないと、中立性が保てなくなり、当事者間の争いに巻き込まれてしまうので、注意が必要です。
2000/3/21
(C)MPC
キャッチボール原則における禁制事項の二つ目は、質問の相手を間違えないということです。引越し費用が知りたければ引越し業者に聞くのがいいし、列車の遅延状況が知りたければ駅員、ホテルの空室があるかどうかを知りたければホテルの予約係に聞くのが一番ということは誰でも知っています。天気予報を駅員に聞く人はいないと思います。ところが、対人関係になると、明日の天気予報を駅員に聞いているようなことを、私たちはしばしばやっています。
恋人が別の異性と親しそうにしているところを目撃して悩むというのはテレビドラマによくあるパターンです。本人に「あれは誰で、何をしていたのか」と聞けばそれで済むのですが、周りの友人にばかり聞くものですから、中には「あの人は確か昔恋人だった」などと親切に教えてくれる人がいて、ますます悩むというわけです。
恋人が本当に二股をかけている場合、それを本人に直接確かめないことによって、主人公は現実に触れることができず、感情の展覧会が滞って、心の傷をいっそう深くします。気になる異性が実はなんでもない場合、それを本人に直接確かめないことによって、主人公は実在しない問題に悩むという馬鹿馬鹿しい結果になります。
このように、質問の相手を間違えると、苦しまなくていいことに苦しんだり、問題がこじれて行ったりします。
美由紀さんは32歳の独身、信託銀行に勤めています。仕事の傍らファイナンシャル・プランナーの資格を取って、独立したいと考えています。結婚を考えていないわけではないのですが、仕事とファイナンシャル・プランナーの勉強が忙しく、特定の異性と深く交際することにこれまではあまり関心がありませんでした。その美由紀さんから長い手紙が来ました。
美由紀さんは、実は8歳年上の先輩社員の洋介さんにずっと憧れていたのでした。美由紀さんは入社以来ずっと東京本社ですが、洋介さんは一度名古屋へ転勤となり、そこで結婚して、5年前に再び本社に単身赴任で戻って来ました。そしてさらに、今度は部長に昇格して家族の待つ名古屋に戻ることになりました。ところが、内示のあと美由紀さんは洋介さんからわざわざ呼び出され、「以前から好きだった。付き合ってほしい」と告白されたのです。あまりに突然で意外な展開に、美由紀さんが返事を保留したまま、洋介さんは名古屋に赴任しました。
手紙には、「洋介さんの真意がつかめず、心の揺れをどうしていいかわからない。妻子があっても、ほかの女性を好きになるものか、どの程度真剣に好きになれるものか、男の人の心理を知りたい。相談できる男性がいないので、教えてほしい」という意味のことが書いてありました。
動揺している美由紀さんの気持ちはよくわかりますが、この質問は、相手を間違えています。私は洋介さんではないので、私の考えをいくら聞いても、洋介さんの真意を確かめるには何の役にも立ちません。世の男性一万人に詳しいアンケートを取り、データを綿密に分析したとしても、同じです。物理現象と違い、人生の個人的体験の問題には、人の数だけ正解があります。美由紀さんはこの質問を洋介さんにするべきなのです。
一方、このような質問を受けると、私はちょっといい気分になります。答えたい誘惑にかられます。しかしこの誘惑に負けると、問題をこじれさせるばかりでなく、私自身が当事者に巻き込まれる恐れもあります。
私は、その質問は洋介さんにしなさいという意味の短い返事を書きました。美由紀さんはそのとおりにし、納得の行く選択をすることができたようです。
2000/3/22
(C)MPC
キャッチボール原則における禁制事項の三つ目は、相手の話を遮らないということです。研究所に勤務していた頃、本社の林原氏から問い合わせの電話がありました。林原氏は私より役職が上で、それまでは面識がありませんでした。彼の質問は私の専門分野に関連していて、確かに私でなければ誰も知らないことでした。ただ一言では答えられないので、私は丁寧にわかりやすく説明を始めました。
すると、私が30%も話し終わらないうちに、林原氏は私の話を遮って、「それはつまりABCということですね」と言いました。ABCという理解は間違っているので、私は「いいえ、違います」と答えて、さらに説明しようとしました。
すると林原氏はすぐまた私の話を遮って、「つまり、DEFということですね」と言いました。DEFという理解も間違っているので、私は「いいえ、違います」と答えて、また説明を続けようとしました。こうして林原氏は、私の説明をほとんど聞かず、「GHIということか」「JKLということか」と自分の解釈を次々に述べて、イエスかノーかの答えを私に求めました。それらの解釈はどれも間違っていました。
私に最後まで説明させてくれれば2分で済むのに、林原氏がクイズごっこをやめないので、5分たっても正解に行き着きません。私はだんだん面倒くさくなってきました。そのうち林原氏の口調が少し変わって、「ああ、そうか。XYZということなんですね。わかってきました」と満足そうにしました。私はもうすっかりクイズごっこが面倒くさくなっていたので、「いいえ、違います」とは言いませんでした。こうして林原氏は、私からの知識を何も受け取らず、一人で喋って一人で満足して電話を切りました。
林原氏のように、相手にはまとまった話をさせず、イエスかノーかの答えしか許さない話し方が癖になっている人は、それほど珍しくありません。社会的地位の高い人が、自分より目下の人と話すときに、こういう癖が出やすいようです。大人が小さい子供と話す時や、教師が生徒と話す時にも、林原氏のような話し方になっていることがあります。
このような話し方は、林原氏の例からわかるように、本人はコミュニケーションしたつもりになって満足していますが、実はコミュニケーションになっていません。林原氏は私から何も情報を得ていないのに、本人は私から情報を得たと思い込んでいるのが、この癖の怖いところです。彼が私から得た情報と思い込んでいるものは、実は林原氏がひとりで作り上げた憶測にすぎません。その結果、彼は間違ったデータに基づいて意思決定をする恐れがあります。
林原氏と私とは言わば通りすがりの関係なので、悪い癖のために彼が失敗しても、私は別に困りません。しかし、親子、上司と部下、教師と生徒のように、信頼し合うべき継続的な人間関係でこんなことをやっていると、その害はもう少し深刻かもしれません。
大人が子供の話を遮ってイエスかノーかだけで答えさせると、正しい情報が得られないばかりでなく、子供の発達を阻害する恐れもあります。子供の話を遮ることは、「おまえの話はへたくそで最後まで聞くに値しない」「私の助けがなければおまえは一人で話ができない」「私はおまえを信頼していない」というような非言語的メッセージを伝えてしまいます。
子供の話は要領を得ないので、じれったくなってきます。そのじれったさを安易に解決しないで、持ち抱えたまま、「なあに?」とニコニコしながら子供の言葉をじっと待っている時間が、私は好きです。どんな言葉、表現が飛び出すか楽しみで、わくわくしています。子供があきらめて「わかんない」などと言うと、がっかりします。
2000/3/23
(C)MPC
キャッチボール原則における禁制事項の四つ目は、空中に放送しないということです。ある団体で一緒に仕事をしていたスタッフに理美さんという方がおられました。私は理美さんとのコミュニケーションがどうも苦手です。その理由は主にふたつあって、そのひとつは、会話を交わした時に、伝えた、あるいは聞いたという実感がなく、欲求不満になってくるのです。私の方から話しかけた時は、作業をしながら聞いたり、よそ見をしておられて、返事も生返事です。理美さんの方から話しかける時は、少し離れた所から相手を見ずに叫ぶように話すので、誰に話しかけているのかよくわかりません。扉の向こうや別の部屋から顔が見えない相手に話しかけたりするので、相手が実はそこにいないこともあります。私に話しかけられたので、返事をしようとすると、たいてい返事を聞かずに行ってしまいます。
もうひとつの理由は、握手できるくらいの近い距離で話をする時にも、理美さんは隣の部屋から話す時と同じように大きな声を出すので、騒々しいのです。
理美さんの話し方は、相手の状況や返事に関心を払っていないので、コミュニケーションが成立していません。メッセージのキャッチボールでなく、空中にラジオ放送しているようなものです。ラジオ放送では、ラジオ放送以外の手段を使わなければ、聞き手がちゃんと聞いてくれているかどうかわかりません。熱心に耳を傾けてくれているかもしれませんが、ひょっとすると誰もラジオのスイッチを入れていないかもしれません。そういう聞き手の状況がわからないまま、一方的に情報を発信するのがラジオ放送です。ですから、カーラジオを聞いていて、アナウンサーが「みなさん、今晩は」と挨拶しても、私たちは「はい、今晩は」と返事をしたりはしません。
では、理美さんの話し方は一方通行のコミュニケーションなのかというと、実は一方通行にすらなっていないのです。私は面白い実験をしてみました。理美さんが、放送するような話し方で私に頼んだことや尋ねたことを、すべて無視してみたのです。すると理美さんは困ったでしょうか。それとも怒ったでしょうか。いいえ、何も起こりませんでした。私が理美さんから頼まれたことを無視し、聞かれたことにも答えないでいるのに、理美さんは私に対して気分を害した様子がありません。彼女は自分でやったり、他の人から情報を得たりして事足りているようです。理美さんは、聞き手に関心がないので、私に無視されていることにも気づいていないようです。
聞き手に関心を払わないもうひとつの問題は、行き違いが起こりやすいということです。理美さんが関わった仕事には不思議にトラブルがよく起こります。しかも理美さんには落ち度がなく、相手のミスが原因のトラブルです。これはどういうことかと言うと、相手が聞き違えたり、飲み込みの悪い人であったりした場合に、トラブルが起こりやすいのです。聞き手に関心を払いながら話していると、自分の意図が正確に伝わっているかどうかがある程度わかるので、聞き間違いが起こればその場ですぐ訂正できるし、確認を入れたり、場合によっては担当者を変えてもらうなどの危険予知行動をとることができます。ところが、理美さんは、なにしろ聞き手に無視されていても気づかないくらい聞き手に無関心ですから、聞き手のミスがそのままトラブルに結びつくわけです。
そのうち、私に対する理美さんの態度が少し変わりました。どうしても私でなければ対応できない相談事があり、私に無視され続けているうちに、困ってきたみたいです。ある日、理美さんはとうとう私の前に来て、私の顔を見ながら質問をしました。私は、ちゃんと答えを聞いてもらえそうだったので、答えてあげました。
2000/4/13
(C)MPC
さわやかなコミュニケーションにおけるキャッチボール原則には重要な例外があります。すなわち、相手の最初のメッセージを敢えて受け取らず、それと関連のないメッセージを返さなければならない場合があります。それは、相手が心理的な「罠」を仕掛けて来た場合です。「罠」は、仕掛け人が犠牲者とのコミュニケーションで慣れ親しんだ不快感を味わって安心するために、無意識のうちに仕掛けられます。
朋子さんは専業主婦、尚輝さんは有能で多忙な会社員です。尚輝さんの帰宅は遅く、休日も出張や仕事でほとんど家にいたことがありません。朋子さんは、五月の大型連休を利用して二泊三日の国内旅行を計画しました。尚輝さんは、仕事がたまっているので、連休の間も出社したいくらいでしたが、久しぶりに家族と過ごす時間を持つにはこの機会しかないと思い、スケジュールをやりくりして連休期間中に三日間の休みを取るようにしました。ところが、四月に行くはずだった海外出張が、相手側のトラブルでどんどん延期され、家族旅行の日程と重なってしまいました。尚輝さんはこのプロジェクトの中心人物なので、他の人に出張を代わってもらうことができません。また、今回の会議をこれ以上延期すると、尚輝さんの会社に大きな損害が出てしまいます。
尚輝さんは朋子さんに事情を話し、旅行は朋子さんと子供たちだけで行って来るように頼みました。朋子さんは、家族らしい三日間を楽しみにしていたので、母子だけで新幹線に乗ったり、ホテルで過ごすのを想像すると惨めな気持ちになりました。朋子さんはむっとしたように、
「仕事と家族とどっちが大事なの?」
と言いました。
「罠」にはいろんな種類がありますが、これは誘導訊問型の「罠」に当たります。誘導訊問型の「罠」の中でも、この「仕事と家庭とどちらが大事か?」は、夫婦間で最も愛用されている「罠」ではないかと思います。「部活の先輩とあたしとどっちが大事なの?」(恋人)、「妹と私とどっちが大事なの?」(親子)、「自分の健康とゲームとどっちが大事なの?」(親子)なども同じです。
誘導訊問型の「罠」は、このように質問の形を偽装しているのが特徴です。一見質問のように聞こえるという点では「質問の形をした要求」とよく似ていますが、この「罠」の目的は要求でなく、攻撃です。質問に答えて行くと、底なし沼に落ちる仕組みになっています。「家庭が大事」と答えても「仕事が大事」と答えても、行き着く先は同じです。「罠」に気づかずに進んで行くと、仕掛けられた方はどんどん不愉快になって来ます。ここまではある意味で当然ですが、不思議なことに仕掛けた方もどんどん不愉快になって行きます。そして、双方の不愉快さが頂点に達し、相手を「どうしようもない最低」と確認しあえたところで満足し、「罠」は終わります。
誘導訊問型の「罠」は麻薬のように習慣性があるらしく、一度経験すると、繰り返されるようになる傾向があります。朋子さんは、尚輝さんとの会話がないのに物足りなくなると、周期的に「罠」を使うようになりました。これは、親にかまってもらえない子供が、わざと問題行動を起こして親の注目をつなぎとめようとするのに似ています。「罠」を使えば、確実に尚輝さんを朋子さんの方に振り向かせることができます。
夫婦のコミュニケーションがなく、たまに顔を合わせれば夫婦喧嘩、というこの状態だけでもよろしくありませんが、さらに中毒が進むと、せっかくチャンスがあってもさわやかな夫婦の会話に戸惑うようになり、喧嘩をしている方が安心できるという深刻な状態になります。
2000/5/5
(C)MPC
さわやかなコミュニケーションのキャッチボール原則からすると、質問には、再定義せずにきちんと答えなければなりません。しかし、誘導訊問型の「罠」を仕掛けられている時は、決して質問に答えてはいけません。では、どうすればいいでしょうか。
朋子さんと尚輝さんのサンプルで、いつも尚輝さんが帰宅した時は疲れきっているので、遅い夕食をとって風呂に入るだけです。朋子さんは先に寝ていることもあるし、起きていても尚輝さんと交わす会話は事務的な情報交換でした。この夜は、朋子さんが起きていたので、尚輝さんはいつものように、情報連絡のつもりで旅行に行けなくなったことを告げました。それに対して、朋子さんはむっとして、
「仕事と家族とどっちが大事なの?」
と誘導訊問型の「罠」を仕掛けて来ました。では、ここからRPGゲームよろしく、尚輝さんの中に一緒に入って、対処を検討してみましょう。
「罠」はさわやかなコミュニケーションにとって有害ですが、だからと言って、尚輝さんが朋子さんに「罠」を使わないように要求するのは、得策でありません。過去と他人は変えられないからです。尚輝さんとしては、質問に答えたい誘惑に対し踏みとどまることからスタートします。
親にかまってもらえない子供が、わざと問題行動を起こして親の関心をつなぎとめようとする場合、子供の当面の目的は親に叱られることですが、本来の目的は親に愛情をもち時間をかけて向き合ってもらうことです。言いかえれば、本来の目的が達成できないことに絶望したために、全くかまってもらえないよりは叱られる方がまだましということで、目的を一段階切り下げた結果が問題行動となっているわけです。
同じように、朋子さんの「罠」の当面の目的は、徹底的に不愉快になり、相手を「どうしようもない最低」と確認しあうことですが、本来の目的は、尚輝さんと親密な感情の交流をかわし、相手を「かけがえのないパートナー」と確認しあうことと考えられます。ですから、尚輝さんが次にやるべきことは、戦争に向かおうとするこの場の流れを、本来の目的に切り換える、言いかえれば、「罠」など使わなくても本来の目的が実現できることを、身をもって示してあげることです。
それには、まず落ち着いて話し合える態勢を整えます。立ち話でそういう状況になっていたら、座ります。背中合わせや離れた所からでなく、ちゃんと顔を見て、叫んだり聞き返さなくても言葉がよく聞き取れる距離まで近づきます。
次に朋子さんの気持ちを聞いてあげます。攻撃的な言葉をぶつけられても、反論してはいけません。何かで困っているとか、何かが問題だということを言われても、解決しようとしてはいけません。それらの言葉の向こうにある朋子さんの気持ちはなんなんだろう、というところに注目しながら聞きつづけます。もし朋子さんの気持ちに共感できたら、それを簡潔な言葉か態度で示します。これは問題の解決方法を検討する話合いではないので、朋子さんの話があちこち脱線しても、そのままにしておきます。朋子さんが落ち着いて来たら、尚輝さんの気持ち(考えたことや主張ではありません)も少し聞いてもらいます。二人の気が済むか、あるいはどちらからともなく「もう疲れたからやめよう」という気持ちになるまで、これを続けます。
これには時間がかかりますから、疲れている尚輝さんにはつらいかもしれません。しかし、「罠」にかかったら喧嘩にやはり同じくらい時間がかかるのですから、どうせ寝かせてもらえないのなら、朋子さんの気持ちと触れ合うのに時間を使った方が、気持ちよく眠れるはずです。
2000/5/6
(C)MPCさわやかなコミュニケーションのために最も重要な原則は、今回からお話する一人称メッセージ(私メッセージ)ではないかと思います。今後、「私メッセージ」と呼んだり、「一人称メッセージ」と呼んだりするものは、応用場面に応じて表現を変えているだけで、内容は同じとご了解ください。学校の文法の時間に、一人称、二人称、三人称というのを習いました。一人称の代名詞は「私」、二人称の代名詞は「あなた」、三人称の代名詞は「彼・彼女・それ」だったと思います。それに少し似て、私が誰かとコミュニケーションをとっている時のメッセージを、一人称のメッセージ、二人称のメッセージ、三人称のメッセージに分類することができます。ただし、これから使う一人称、二人称、三人称は、文法上の主語でなく、内容上の主語がどれかを指しています。
例えば、不倫相手との別れ話を、三通りのメッセージで、試しに最も簡潔に表現すると、こうなります。
<サンプル10>一人称メッセージ
「もう愛していない。別れたい」<サンプル11>二人称メッセージ
「こういう関係は君のためにならない。別れてほしい」<サンプル12>三人称メッセージ
「不倫関係はよくない。別れるべきだ」私があなたとコミュニケーションをとっている時、ここにいない人および事物に関する記述はすべて三人称メッセージです。噂、ゴシップ、私が友人やテレビなどで聞いた話、本で読んだ内容などは明らかに三人称メッセージです。さらに、私自身の見解、思想、評価なども、それが私またはあなたに関するものでなければ、サンプル12のように三人称メッセージとなります。
次に、あなたに関する記述は二人称メッセージとなります。例えば「あなたは私の原稿を読んでくださっていますね」という単純な叙述、「あなたは美しい」という評価、「少し静かにしていただけませんか」という要求などがそれに当たります。サンプル11は相手に関する評価と要求とからできています。
私に関して記述したもの、たとえば「私は淋しい」という感情表現、「疲れた」という身体状態の表現、「お話を伺います」という意志表明などが一人称メッセージです。サンプル11は、「愛していない」という感情表現と「別れたい」という意志表明とからなる一人称メッセージです。
私に関して記述したものであっても、正しいか正しくないかという議論の起こる余地のあるものは、一人称メッセージではありません。例えば、「私は女性にもてる」というメッセージは、「いや、そんなことはない」という反論が可能ですから、一人称メッセージではありません。「私は女性にもてる」は三人称メッセージです。しかし「私は、自分が女性にもてる、と思っている」と言えば、実際にもてるかどうかを別にしてそう思い込むのは勝手ですから、一人称メッセージになります。
テレビ・ニュースなどは三人称メッセージでしか表現のしようがありませんが、今回のサンプルのように、同じメッセージを一人称、二人称、三人称で表現できる場合があります。このとき、どの方法をとるかによって、私とあなたとの人間関係に及ぼす影響が異なってきます。
メッセージに載せて話し手から聞き手へ伝えられる人間的エネルギーは、一人称メッセージにおいて最も大きく、二人称は中くらい、三人称で最も小さくなります。
単純な情報交換、挨拶、あまり親しくない人との会話などでは、三人称メッセージが経済的です。親しく大切な人間関係では、人間的エネルギーの交換が不可欠ですから、一人称メッセージ(私メッセージ)が威力を発揮します。
2000/8/14
(C)MPC
一人称メッセージ(私メッセージ)はいろいろな場面で使えます。まず、要求の場面で使い方を見てみましょう。冬の寒い日に家族で外出しようとするところです。五歳の子供にもコートを着せようとすると、嫌がりました。こういうとき、例えば次のように二通りの対応ができます。
<サンプル13>
「いいからコートを着なさい」
<サンプル14>
「パパはおまえにコートを着てほしいな」
コートを着るかどうかは相手(子供)の行動ですから、「コートを着なさい」は二人称メッセージです。一方、「コートを着てほしい」と思っているのは私であって、しかも「いやそんなふうに思っているはずはない」などと反論される余地がありませんから、「パパはおまえにコートを着てほしいな」は私メッセージです。
サンプル13のように、二人称メッセージで要求をされると、要求された方は一般に防衛的に構える傾向があります。悪くすると反抗的になったりします。
二人称メッセージの要求(命令)を子供が聞き入れると、私と子供との関係が権威者対従属者の関係になったように感じられます。このような関係に子供が満足している間は、二人称メッセージの要求は効果的で、親子関係を強化するのにも役立ちます。
しかし、なんらかの理由で、子供が「親=権威者、子供=従属者」の関係に抵抗を示す場合、二人称メッセージの要求はなかなかうまく行きません。そのような理由としては、心理的発達の一段階として子供が自立願望を持っている場合、子供が私に慢性的な不満や競争心を持っている場合、たまたま子供が不機嫌な場合、などが考えられます。
こういうときは、私メッセージが効果的です。私メッセージは、豊かな気持ちメッセージを伝える働きがあります。「パパはおまえにコートを着てほしいな」は、私が子供の健康を気遣っている気持ちや、子供を一人の人間として私と対等に尊重したいという気持ちを伝えることができます。その結果、私の要求が通る可能性はいくらか高くなります。
「いくらか高くなる程度なのか」とがっかりしないでください。私の要求を通すことだけが目的であれば、脅迫や買収を使う方が確実かもしれません。しかし、脅迫や買収のようなさわやかでない主張をすると、人間関係が損なわれてしまいます。さわやかなコミュニケーションの目的は、私と相手との関係性をよくすることにあります。
子供にコートを着せたいときに私メッセージを用いるのは、「きみはそのままで愛される価値があり、いろんな可能性に挑戦する力があり、人生を楽しんでよい」という勇気づけの気持ちメッセージを伝える絶好の機会だからです。毎日の生活の中にあるこういうささいなチャンスをとらえて、勇気づけの気持ちメッセージを与え続けることに比べれば、私の要求が通るかどうかは大した問題ではありません。このことは、相手が配偶者でも、部下でも、生徒でも、基本的に同じです。
なお、関係性を損なわずに子供にコートを着せるには、私メッセージ以外にこんな方法もあります。幼児は、こうすればこうなるという因果関係の認識が未発達(参考文献107、ピアジェ)ですから、暖かい室内にいる間はコートの必要性が理解できません。そこで、子供が嫌がったら、コートを持って、子供のかっこうはそのままで外に出てしまいます。暖房のほてりも冷めて、子供が外気の寒さを感じ始めた頃合いを見計らってコートを差し出せば、喜んで着てくれます。この方法は、アドラー心理学で「自然の結末」と呼ばれているものです。ただ、この方法は、大人が子供の自尊心を傷つけたりして、子供が意地を張ってしまうとうまく行きません。
2000/8/22
(C)MPC
今度は、相手の要求を断わる場面で、私メッセージの使い方を見てみましょう。この原稿をサブノート・パソコンで書いていると、小学校一年の娘が、このサブノート・パソコンで遊びたいと寄ってきました。以前は遊ばせたこともありますが、今日は私の作業を中断したくありません。そこで、にっこり笑って「いやだ」と言いました。娘は「やらせてよ」と言い張ります。私は「いやだ」、娘は「やらせて」、と押し問答になりました。娘は私をつねったりくすぐったりして脅迫を始めました。私も娘をつねったりくすぐったりして対抗しました(ただし、私が受けた8割くらいの強さで)。こうしていつの間にか遊んでいるような気分になり、「ああ、面白かった」という感じでバトルは終わりました。
このエピソードのポイントはふたつあります。ひとつは、事柄としては私が娘の要求を断わり続けているのですが、感情の世界に着目すると、「おまえが大好きだよ」という気持ちメッセージを娘に向けて発し続けているということ。もうひとつは、「いやだ」という私メッセージを使っている点です。
同じ状況で、二人称メッセージ、三人称メッセージを使うとどうなるでしょう。たとえば、「これはおもちゃじゃない」(三人称メッセージ)と言うと、娘にすれば「前は遊ばせてくれたじゃないか。けち」ということになってしまいます。「ピアノの練習はどうしたんだ」(二人称メッセージ)と言うと、これは私が娘から要求されている状況を、娘が私から要求されている状況にすりかえるものです。このようなすりかえをすると、娘は攻撃されたような不快な気分になるだけでなく、「そうか、都合が悪いときはこういうふうにすりかえればいいんだ」ということを無意識のうちに(しかし実に効果的に)学習してしまいます。二人称メッセージ、三人称メッセージを使うと、どうやってみても、娘は「私の存在がパパに拒絶された」という気持ちになります。
この例は難易度としてやさしい方ですが、さらに難しい課題でも、私メッセージの使い方のポイントは同じです。。
さわやかな断わり方のところで見たように、断わる以上は、相手が大なり小なり不愉快になることを覚悟しなくてはなりません。したがって、いくら私メッセージでも、言葉の選び方、態度などには慎重でなければなりません。娘とのバトルでは、「お前が大好きだよ」という気持ちメッセージが、娘の欲求不満を緩和する働きをしています。
不倫相手との別れ話をするのに、いくらなんでも、サンプル10そのままに「もう愛していない。別れたい」では、包丁で刺されてしまうかもしれません。私メッセージは、二人称メッセージ、三人称メッセージに比べて、はるかに説得力がありますから、純粋な私メッセージであるサンプル10は、この別れ話に妥協の余地ややり直しの可能性が全くないことを明瞭かつ強烈に伝えます。相手が一度は愛した女性であり、今でも感謝しているのであれば、それなりの配慮はするべきです。
しかし、相手を傷つけないように配慮するあまり、嘘や心にもないことを言ってはいけません。嘘や心にもないきれいごとは、すぐばれてしまいます。あくまで私メッセージに徹します。それには私の心の中を探り、雑音の中から「これは天地神明に誓って100%真実だ」と確信できる気持ちを捜し出します。「いいところを見せたい」「悪者になりたくない」という気持ちがきちんと意識化できていないと、本当の気持ちが歪められて雑音となります。
こうやって真実100%の私メッセージを集めると、たとえばサンプル6のようになります。これなら、最悪でもバンドエイドを貼るくらいの傷で済むと思います。
2000/8/22
(C)MPC
子供にコートを着せる要求は、「着なさい」と二人称メッセージで表現することもできるし、「着てほしい」と私メッセージで表現することもできました。しかし、サブノート・パソコンで遊びたいという娘の要求を断わる時は、私メッセージ以外で表現すると嘘になってしまいます。このように、私メッセージでしか本当は表現できない場面を「私問題」と言います。私問題を二人称メッセージや三人称メッセージで表現すると、さわやかなコミュニケーションができなくなり、気がつかないうちに、不健康な相互依存関係、倦怠的な関係、喧嘩などにつながるおそれがあります。愛を告白する、なんていうのは典型的な私問題です。そして「あなたが好きなの」「きみのことが好きだ」など、必ず私メッセージが使われます。二人称メッセージにできないこともありませんが、「きみはぼくに愛されてるよ」なんて言う人はまずおられないでしょう。
ところが、結婚を申し込む場面になると、二人称メッセージ、三人称メッセージを使ってしまうことが時々あります。「結婚してください」は、文法的には二人称メッセージに聞こえますが、私の希望を表していることが明確なので、内容的には立派な私メッセージです。
これに対し「あなたを幸せにします」は、文法的には私メッセージに見えますが、内容的には二人称メッセージです。私と結婚することで相手が幸せと感じるかどうかは、相手の問題(しかも未来の)であって、私にはそんな約束をする権限がそもそもありません。「あなたを幸せにします」は、「あしたを晴れにしてみせます」と言っているのと同じようなもので、言った瞬間にもう嘘になっています。
私が仮に貴子さんに結婚を申し込んでいるとすると、「これからの人生への誓い」で述べたように、貴子さんの人生の主人公は貴子さんであって、貴子さんが幸せになるかどうかの責任は貴子さんにあります。そのご本人を差し置いて「あなたを幸せにします」とは、相手を自立したおとなと認めない傲慢な発言です。
ここで「じゃあ、幸せにしてちょうだい」とめでたく合意が成立すると、私が主人で、貴子さんが人形か売春婦みたいになる不健康な相互依存関係が始まります。貴子さんと結婚したことで私が幸福を感じることがあっても、私が貴子さんを幸せにしてあげると本気で信じ続けていると、貴子さんへの感謝など感じません。ふたりの間に生まれた子供が事故で死ぬようなことがあれば、私は貴子さんから「こんな不幸に会わせるなんて約束が違う」と責められるかもしれません。私に事故の責任はないのですが、なにしろ「あしたを晴れにします」という履行不可能な契約を交わしてしまったのですから、責められても仕方ありません。
実際には、プロポーズの時に「あなたを幸せにします」と言っても、大した害はないと思います。なぜなら、言った方も言われた方も、そんな馬鹿馬鹿しい約束を忘れてしまいますから。もし言ってしまった(または言われてしまった)方がおられたら、さっさと忘れてしまいましょう。
「あなたを幸せにします」を私メッセージに言いかえると、具体的表現は別にして、要旨はこんなふうになります。
「私と結婚してくれたら、こんな幸せなことはない」
「私はあなたを宝物のように思っている」
「あなたのためなら、私にできることを全部やりたい」
これらはすべて私の感情や意志を表現したものです。貴子さんが幸せになるかどうかは誰にもわかりませんが、私の感情や意志が真実かどうかは、私にはわかります。ですから、私は胸を張って言うことができます。
(C)MPC要求および拒否の主張は、本質的にはすべて私問題です。
2000年5月26日放映NHK総合TV「生活ホットモーニング」ひきこもり特集で、こんなエピソードが紹介されていました。不登校の少女は、母親が「学校へ行け」としつこく言うのが嫌でたまりませんでした。「学校へ行け」と言われると、行けなくなっている自分を否定されたように感じて傷ついていたのです。ある日、ついに頭に来た母親は「あんたなんかきらいよ!」と娘に言い放ってしまいました。これで破局かと思いきや、娘は「おかあさんが初めて私とまともに向き合ってくれた」と喜んだのです。これを境に母子関係は改善に向かい始めました。
子供を学校に行かせるという課題は、親子関係でとらえると、母親の私問題です。義務教育だとか、きちんと教育を受けないと子供が将来困るなどと理屈はいくらでもつきますが、本質的には、母親が娘に学校に行ってほしいと思っているわけです。つまり、娘に対する母親の個人的な要求です。それを、今までこのおかあさんは二人称メッセージや三人称メッセージだけで表現してきたようです。おそらく、「学校へ行ってもらう」以外の私問題にも、このおかあさんは二人称メッセージや三人称メッセージだけを使っていたと思われます。これでは勇気づけ飢餓状態になってしまいます。こういう背景から、本来は強烈な人格否定である「あんたなんか嫌い」が、初めての私メッセージであったために、勇気づけになったと考えられます。
私問題に私メッセージを使うかどうかで、結果はこれだけ違ってきます。
私は東京にある生と死を考える会の理事をしています。本会が先駆的存在であった関係で、現在では各地にある同様の目的・名称の団体の「元締め」が本会であるとの誤解をよく受けます。ある日、夫を亡くした女性亀井さんからEメールが来ました。「生と死を考える会が開いている死別体験者の集まりに参加したいが、東京から遠いところに住んでいる。近くにある団体の電話番号はわかったが、電話が苦手。その団体が東京と同じような死別体験者の集まりをやっているかどうかわからないだろうか」という趣旨でした。
私がその団体について詳しく知っているなら、教えてあげるのが親切でしょう。しかし、私はその団体の名称と電話番号以外に何も知識がなく、誰とも面識がありません。そうなると、亀井さんが何を知りたいのかは本人が一番わかっていますから、亀井さんが自分で電話して聞くのが、知りたい情報を手に入れる最も確実な方法です。亀井さんに言語機能や聴覚の障害がない限り、このようなとき亀井さんにかわって電話をかけてあげるのは、トラブルや不健康な相互依存関係の原因になります。
そこで、私は、
「私も亀井さんと同様に、団体の名前と電話番号しか情報を持ちあわせていません。お役に立てず申し訳ありません」
という返事を出しました。さぞ冷たい人間と恨まれるかと思いきや、何日かたつと、なんと感謝のメールが来ました。「勇気を出して電話してみた。知りたいこともわかり、苦手も克服できた。丸岡さんに背中を押してもらったおかげ」と書いてありました。
亀井さんが自分で勇気を出し、自分の力で限界を切り開いたのであって、私は何もしていません。私はただ自分に正直に行動し、それを私メッセージで伝えただけです。自分に正直に行動し、私メッセージを使ってそれを伝えることをカウンセリングの用語で「自己一致」と言います。
このように、相手を変えようとせず、私メッセージを上手に使って「自己一致」を保つだけで、結果として相手が望ましい方向に変わってくれるということが、しばしばあります。
2001/03/15
(C)MPCさわやかなコミュニケーションの最後の課程は「他人の仕事を肩代わり(または横取り)しない」ということです。子どもとその親と私との三者で面談をしているとき、私が子どもにした質問に、親が答えてしまうことがあります。これが他人の仕事の肩代わり(または横取り)です。ここでは、質問に答えるという子どもの仕事を親が横取りしているわけです。子どもが小さいうちはわからなくもありませんが、中には子どもが大学生になってもこれをやっている人があります。
子どもの年齢に関わらず、このような肩代わりをすべきではありません。放っておくと子どもがなかなか答えないので、忙しい先生を待たせてはいけないと思って答えてくださるらしいのですが、実は私にはありがた迷惑なのです。私が子どもに例えば「夜眠れますか」と質問をするのは、その情報を一番よく知っているのが本人だからです。そこで「睡眠はたりているようです」と親に答えていただいても、それは親の想像であって、私の知りたい真実ではありません。親が質問を肩代わりしてしまうと、私のほしい情報が得られなくなるのです。それどころか、一旦親の想像を聞いてしまうと、それが私の中に先入観となって、正しい判断を誤る恐れもあります。
さらに深刻なのは、こういう肩代わりが子どもの発達を阻害するということです。親がいつまでも子どもに服を着せ続けると、子どもは自分で服を着る方法を学習できません。親が子どもへの質問を肩代わりし続けると、子どもは学習のチャンスを奪われてしまうのです。同時に、「おまえはひとりでは何もできない」という非言語的メッセージを親から子へ伝えてしまいます。子どもが、この非言語的メッセージを拒否すれば問題ありませんが、受け入れてしまうと不健康な相互依存関係に陥ります。
子への質問を親が完全に肩代わりするわけではないが、子どもと私との間に立っていちいち通訳してくださる人があります。これも一種の肩代わりです。本人から頼まれていないのに、先回りして手伝うのはすべて肩代わりです。
仕事の肩代わりが行われるのは、親子関係だけではありません。婦人科病棟に入院する妻に付き添って来た夫が、入院手続き書類をすべて記入し、妻の婦人科問診票にまで記入してしまったという話もあります。夫が妻の最後の月経日やおりものなどの状態まで把握しているとは、頭が下がります。しかし、これでは、互いに自立した夫婦というより、妻が幼児で夫が保護者のようです。
これとは逆の夫婦間の肩代わりもあります。数組の夫婦が一緒に旅行に行き、男女別に部屋を取ったところ、ある夫が風呂に入る前に女性部屋の妻のところへ自分の下着をもらいに来て、ほかの妻たちの失笑を買ったという話があります。この夫婦では、夫が幼児、妻が保護者の役割を取っているわけです。
仕事の肩代わりを向こうから頼まれることもあります。あるスポーツクラブで、創始者でもあり人気ナンバーワンの男性インストラクターが突然辞めると宣言し、女性ファンにショックを与えました。女性会員のいずみさんは、姉御肌の先輩会員である由紀恵さんに、「辞めないように手紙を書いてください」と頼んだそうです。由紀恵さんからこの話を聞いた時、私は思わず「いずみさんは字が書けないんですか?」と聞きたくなってしまいました。
このように仕事の肩代わりを頼まれた時、それを引き受けてはいけません。
他人の仕事を肩代わりする人は、悪魔の誓いのひとつ「私は、まわりの人が成長し、完全にその人自身でいようとすることを望みません。その人が無力で無能な人間であり続けるように手を貸します」を信奉しています。
2001/4/4
(C)MPC
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