『「ごんぎつね」をめぐる謎 ―子ども・文学・教科書―』


目   次

 はじめに

第一章、「ごんぎつね」は、誰が書いたか?
          ――テキストをめぐる問題の発生――
  1、『赤い鳥』と南吉
    児童文芸雑誌と『赤い鳥』の誕生/『赤い鳥』への投稿/三重吉の添削
  2、草稿「権狐」と「ごん狐」の間
    テキスト「権狐」の周辺/二つのテキストの差異/「ごん狐」単行本への掲載/「ごん狐」作製のリソース

第二章、「ごんぎつね」の本文は、どのように確定されたか?
    ――テキストをめぐる問題の展開とその現在――
  1、戦後における本文の揺れ
    戦後南吉の出発/巽聖歌と南吉のテキスト/小学生全集のテキストをめぐって/戦争と作家の言論/軍国調を隠蔽する/小学生全集版「ごんぎつね」/巽聖歌の手入れの功罪
  2、確定した本文
    『校定新美南吉全集』へ/校定全集の語注に対する疑問/作品への語注・語注からの作品
  3、南吉のテキストを越えて
    テキストを〈読む〉ということ/残されたテキストの問題
   
第三章、「ごんぎつね」は、どのように知られるようになっていったか?
              ――作品受容の様相を探る――
  1、戦前の南吉作品の受容をめぐって
    生前の評価/児童文学の復興現象
  2、戦後の南吉作品の評価をめぐって
    敗戦直後の南吉の受容/『子どもと文学』による再評価/牧書店版全集の刊行/地元における顕彰/全集の刊行
3、さまざまな「ごんぎつね」の受容 
    これまでに公刊された「ごんぎつね」一覧/絵本・翻訳などによる紹介

第四章、「ごんぎつね」は、どのように教科書に載せられたか?
      ――国語教科書掲載をめぐる問題点とその考察――
1、敗戦直後の国語教科書
    学習指導要領の登場/戦後国語教科書の出発/「いいこ読本」の教材
  2、国語教科書に入った「ごんぎつね」
    検定教科書と新美南吉作品/教科書教材「ごんぎつね」の登場/国語教科書の「ごんぎつね」本文の問題
  3、定着した教材「ごんぎつね」
    原典主義をめぐって/国民教材「ごんぎつね」の誕生

第五章、「ごんぎつね」は、どのように教えられてきたか?
――国語学習の中の「ごんぎつね」――
  1、文学教育運動の提唱と展開
戦後文学教育の出発/文学教材「ごんぎつね」の〈読み〉
  2、「ごんぎつね」で何を教えるのか
    定番となった教材「ごんぎつね」/「ごんぎつね」の主題をめぐる問題/イメージを読むこと/文学による感動体験
3、言語技術教育の胎動
   文章表現形式への着目/教育技術の法則化運動のなかの「分析批評」/ディベート学習の素材/新しい教育課程における文学教材

第六章、「ごんぎつね」は、どのように読めるか?
  ――文学教材の可能性――
  1、文学体験の成立
〈読み〉に働く認識過程/他者との出会い―その教育性
  2、「ごんぎつね」のなかの二つの世界
 〈あな〉のなかのごん/人間界とごんの世界/兵十にとってのごん
3、「ごん狐」から「権狐」へ
  別の作品としての「ごん狐」と「権狐」/「権狐」における他者/教室の〈読み〉の可能性

附章、国際化時代のなかの「ごんぎつね」
      ――「ごんぎつね」は、国際化時代に生き残れるか?――
1、南吉評価の諸相
ごんの死という作劇法/南吉の評価をめぐって
2、教材「ごんぎつね」の国際的検討
童話教材の国際比較/国語教科書の国際比較/「ごんぎつね」を越えて


資料/新美南吉作「ごん狐」・「権狐」
関係年表

あとがき


 はじめに

 「ごんぎつね」は、新美南吉が一八歳の時に書いた作品である。舞台は近代化する以前の日本の田舎。「ごん」という小狐が、自分のいたずらの罪をつぐなおうとして、村人の兵十に接近し、最後に、その兵十に撃たれて死ぬ。悲劇である。この作品は、彼の代表作として高く評価されている。
 私たちは、新美南吉という名前を耳にすると直ちに「ごんぎつね」を思いだし、「ごんぎつね」というとすぐに新美南吉を連想することが多い。南吉の生まれ故郷である愛知県半田市では、「ごんぎつねの里」をキャッチフレーズにしているほどである。たしかに「ごんぎつね」という作品が、多くの人を引きつける魅力を持った、優れた作品であることはまちがいない。しかし、新美南吉という作家は、それ以外にもたくさんの作品を残している。それらすべてを見渡した上で、改めて「ごんぎつね」を彼の代表作と呼ぶかどうかについては、たぶんさまざまな意見があるだろう。
だが、現実には「ごんぎつね」と「新美南吉」とは、私たちは頭の中でしっかりと結び合わされている。どうしてそうなったのか。もちろんそれは、多くの読者たちによってこの「ごんぎつね」が支持されているからにはちがいない。が、筆者には、現在のように「ごんぎつね」と新美南吉とを固く結び付けるような連想ゲームを成立させた大きな要因のひとつに、国語教科書という存在があったように思われる。
 実際、現在この作品は申しあわせたように、小学校国語教科書の四年生の教材として取り上げられている。いうまでもなく、教科書は教授上の単なる一資料ではなく「主たる教材」である。「ごんぎつね」のようにすべての教科書に掲載されている作品が、学習者に与える影響は、きわめて大きい。というのは、義務教育を受けようとする限り、どの子どもも必ずこの教材をくぐることになるからである。大げさにいうなら、日本人としてのアイデンティティの形成に関わる問題でもある。これは、検討に値する問題だろう。
 もちろん「ごんぎつね」が共通教材となったのは、文部省(国家)が上から押しつけた結果ではない。そうなったのは、それぞれの教科書編集者の自主的な判断に基づいたからであり、またそれを背後から支えている全国の教師たちの声があったからである。さらにいうなら、「ごんぎつね」は、学校の中の多くの子どもたちにも好んで受け入れられている。こうしたことから「ごんぎつね」を、まさに国民的な支持を得た「国民文学」あるいは「国民教材」だと規定することもできる。
 今かりに、作品「ごんぎつね」をめぐるそうした状況を『「ごんぎつね」現象』と名付けてみる。小著の意図するところは、その『「ごんぎつね」現象』の解明である。それは、メディアとしての「国語」教科書の役割や、それを背後から支持してきた読み手たちの認識と感性の問題を「ごんぎつね」という作品を通して考えていくことで、だんだんに姿を見せてくれるだろう。その作業はまた同時に、「ごんぎつね」という作品を窓口にして〈教育の現在〉を考えることにも、どこかでつながっていくはずである。
 はたして「ごんぎつね」という鏡は何を映し出し、どんな像を私たちに見せてくれるのか。以下、本書では「ごんぎつね」という作品や教材に関わるいくつかの問題を、各章ごとに疑問の形で読者に提出し、それを解き明かすという構成を取りながら論を進めていく。筋道は幾重にも錯綜しているので、それらを首尾よく捌けるかどうか、不安も先行するが、最後までおつきあいいただけるならありがたいと思う。