ウサギとカメの教育文化史
             ―教科書の中のイソップ寓話


 ウサギとカメの彫像
 改築問題で一躍全国に有名になった滋賀県犬上郡豊郷小学校には、校舎内の階段の手すりにウサギとカメの置物が据え付けてある。真鍮製で、一階階段の最下部の手すりに、ウサギとカメが仲良く並んでいる。ところが階段を少しずつ上がっていくと途中には、ウサギが昼寝をしている像が置かれ、最上階ではウサギを見下ろしているカメが設置されている。ウサギとカメのストーリーを目に見えるように表した、遊び心がいっぱいのすばらしい意匠である。と、まるで見てきたような書き方をしているが、実はインターネットで公開された写真をもとにして、ここまでの文章を書いた。*1
 これとほとんど同じ真鍮製のカメを、東京茗荷谷の筑波大学附属小学校の階段の手すりで実見したことがある。確かこちらはカメの像があるだけで、ウサギの姿は見かけなかったような気がする。階段の手すりの真ん中にカメが置いてあるのは、いたずら者が階段の手すりにまたがって滑り降りるのを防止するためかと思っていたが、それだけではないのかもしれない。いずれにしても、どちらも学校の建物の中に、物語の中から抜け出したようなウサギやカメの像が置いてあるところがしゃれていて面白い。
 ウサギとカメとの競争の話は、このような彫塑の形だけではなく、日本の近代学校には、様々な形態で、それもかなり早い時期から導入されていた。もともとは、学校とは直接の縁を持たなかったウサギとカメの話だが、それがどんな因縁で、日本の学校の中に入り込んだのか、またそれがどんな変容を遂げたのか、その一端をウサギのように駆け足でたどってみようというのが、本論考の目的である。といっても、筆者の専門の国語教育の分野に偏った狭い範囲の知見からの紹介に過ぎないことを最初にお断りしておく。

 1、イソップ寓話と「ウサギとカメ」
イソップ寓話の位置 
 あらためて確認するまでもないが、ウサギとカメの話は、イソップ寓話の中に収められている話である。この話は海外でもよく知られており、hare and tortoise race (野ウサギと亀の競争)と呼ばれているらしい。*2
 今日、「イソップ寓話」と呼び慣わされている作品群を書いたのは、イソップという特定の個人ではないようだ。というより、イソップという人物が実在したのかどうかさえ疑わしいとされている。それでも、ギリシャ起源の動物たちが活躍する短い教訓が付された特色ある小話は、ギリシャ語でアイソポースのミュートス(寓話)、英語でAesop's Fablesと「イソップ」の名を冠して親しまれている。
「イソップ寓話」は、ギリシャ語からラテン語へ、また英・米・仏語などへと翻訳されて、各国に広がっていった。様々な版が存在し、版によって収録されている話にも、またその話数にもかなり違いがある。こうしたイソップ風の話を校訂して集大成した仕事に、フランスのシャンブリ版1927年(『イソップ寓話集』358話/山本光雄訳・岩波文庫)や、アメリカのペリー版1952年(『イソップ寓話集』471話/中務哲郎訳・岩波文庫)があり、いずれも邦訳されている。それらを見ればすぐに了解されることだが、イソップ寓話は、必ずしも子ども向けの読み物というわけではない。*3
 話はごく短いものが多く、ものを言う動物たちが登場する。そこでは、教訓をより説得的に述べるためのレトリックとして動物たちが出てくる。したがって、動物たちのストーリーは教訓の道具立てに過ぎない。ちなみに、広辞苑で「寓話」という項目をひくと「ぐう‐わ【寓話】(fable) 教訓または諷刺を含めたたとえ話。動物などを擬人化したものが多い。」とある。つまり、もともと寓話は「教訓」や「風刺」を効果的に伝えることが主眼なのである。しかし、そこに登場する動物や人間たちの言動は、それだけを独立して読んでも、子ども読者にとって十分に魅力のあるものだったのだろう。そこで、「イソップ寓話」は、ストーリーの展開に中心を置いた「イソップ物語」としても、子どもたちに受け入れられてきた。
日本へのイソップ移入史概観 
 イソップ寓話が日本へ持ち込まれたのはかなり早く、1593(文禄2)年、イエズス会が天草で活字印刷したものが最初である。これは、『エソポノハブラス』(ESOPONO FABLAS)と題されたローマ字本で、日本で最初の翻訳文学書だといわれている。(『キリシタン版エソポ物語』大塚光信校注・角川文庫、ほかに翻刻)この後、『伊曾保物語』と題した古活字本や写本が江戸期に普及し、近世の読書人に迎えられた。(『日本古典文学大系・仮名草子集』所収「伊曾保物語」、『万治絵入本 伊曽保物語』武藤禎夫校注・岩波文庫、など)江戸期に普及したイソップ寓話は、町人の華美を戒めるかのような「教訓」が添えられたりしていて、興味深い。しかし残念ながら、これら江戸期までの翻訳のなかには、「ウサギとカメ」の話は入っていない。おそらく翻訳底本に、この話が収録されていなかったのであろう。
 明治に入ってから、新たな翻訳作業が行われる。その嚆矢は福沢諭吉の手になるもので、英語の読本を翻訳した『童蒙教草』1872(明治5)年のなかにイソップ寓話10編が紹介されている。続いてイソップ寓話の全体像を紹介したのは、渡部温の『通俗伊蘇普物語』6巻・1872〜75(明治5〜8)年だった。これは、Thomas Jamesの Aesop's Fables 1848年、を翻訳したもので237編が紹介されていた。平明洒脱な訳文で、訳者独自の味付けもされており、近代口語文体の創造という観点からも、注目すべき仕事である。明治から昭和戦前期にかけて、この本が教育に及ぼした影響は大きかった。というのも、この後、小学校の「修身」や「唱歌」、さらに国語読本などの素材として、この翻訳が大いに利用されたからである。
 明治初期には、渡部の『通俗伊蘇普物語』は、実際に小学校の「修身」の教科書としても使われたらしい。もっとも、これは子どもたちが直接に読むためではなく、教師が「口授」する材料として使われたようである。なぜなら、明治5年の「小学教則」を見ると「修身教授」という科目があり、この渡部のイソップ物語が、教師用講述資料としてあげられているからだ。さらに、当時の諸府県における「小学教則」には、下等小学の低学年用読み物として『通俗伊蘇普物語』の名も見える。*4したがって、実際に子どもたちが読むための教材として扱われていた可能性もある。

『通俗伊蘇普物語』の「兎と亀」
 この『通俗伊蘇普物語』に出ているウサギとカメの話を、次に紹介してみよう。*5

   兎と亀の話
 兎。亀の行歩の遅きを笑ひ。愚弄して「コウ。こゝへ来や。競争をしやう。乃公の足は何で出来てると思ふゾ」と威張れば。亀は迷惑には思へども一ツ処へおし並び。サアと云れて寸分も猶予せず。例の通り遅々とあるき出す。されど兎は固亀を侮て居る事なれば。一向に遽もせず。うさぎ「吾はマア一睡して往くから。急で往なせへ。直に追越すよ。と云て微睡とする内に。亀の影が見なくなつた故。兎肝を消し。急に躍出して約束のところへ至て見れば。亀は先刻到着して。欠伸をして居たりけると
 遅緩なりとも弛ざるものは。急にして怠るものに勝つ

 会話部分は、江戸の庶民の姿を彷彿とさせるような訳文である。
 この話はウサギがカメに、競争を仕掛け、高慢のあまり恥をかくというトーンになっている。ウサギとカメの話は、つまるところ二匹の動物の競争の話だから、ウサギの側からいえば、怠けたり油断したりしたから負けたということになるし、カメの側からすると、まじめにがんばったから勝ったということになる。したがって、そこに添えられる教訓も、どちらかの側に立って、メッセージを強調するという形になる。この渡部訳の場合は、ストーリーそのものはウサギ側からの語りになっているが、教訓はカメに寄り添って「たゆまず努力すれば、怠け者に勝つ」となっていて、両者の間には若干のずれがある。とはいえ、どちらかの立場に立つといっても、それはコインの裏表で、どちらかを肯定的に言えば、その逆を否定することになるのだから、内容としては同じ方向にあるといっていいだろう。
 先にも触れたように、おそらくこうした文章を、教師が本を片手に読み聞かせたのであろう。くだけた庶民風の会話を、教室でどう取り扱ったのかは気になるところだ。もしかすると、教師が事前に本を読んでその内容を自分のものにしておき、その場に応じた口調で子どもたちに伝えたのかもしれない。
 いずれにしても、この渡部温の『通俗伊蘇普物語』が原点となって、日本における「ウサギとカメ」文化史の扉が開いたのである。

 2、明治期の教科書の中のウサギとカメ
 徳目や教訓を教える素材
 子ども自身が読むための読み物の歴史、すなわち、日本児童文学史の記述は、1890年前後つまり明治20年以降から書き起こされることが多い。明治20年代以前にも、様々な形で子どもの読み物が存在し、それが普及していたことも近年話題になってきたが、子どもの読み物が商業出版として大規模な形で流通し出したのが、明治20年以降であることは動かないであろう。*6
 イソップ寓話は、先の渡部の『通俗伊蘇普物語』を始めとして、明治期に20種類以上の翻訳があるが、明らかに子ども読者にむけたものでは、1893(明治26)年の西村酔夢『イソップのはなし』や、1911(明治44)年の巌谷小波『イソップお伽噺』などがある。これら子ども用の読み物も子どもに読者たちに親しまれただろうが、教科書類を通してイソップ寓話に触れた子どもの数の方が間違いなく多いはずだ。というのは、明治10年代半ばからは、子どもが自力で読むために編まれた修身教科書が登場し、それにイソップの話が翻案されて数多く出ているからである。修身ばかりではなく、今日の「国語教科書」にあたる読み方の教科書(読本)にも、たくさんのイソップ寓話が採択されていた。
 そのうちここでは、国語教科書に載せられたもののいくつかを紹介する。なお、学校で取り扱われる教科書は、明治初年、つまり渡部温が『通俗伊蘇普物語』を出版したころには、まだ未整備だったが、文部省が1873(明治6)年に編纂した二種類の『小学読本』を皮切りに、徐々に整備されていく。教科書制度も、開申制、認可制を経て、1886(明治19)年からは、現在と同様、文部省による検定制度になり、多くの民間会社が教科書の作製に手を染めていた。したがって、文部省が作製したもの以外にも、かなり多くの民間国語教科書(読本)が出回っていた。
 そのうちからまず、1883(明治16)年の、『小学読本 初等科』(原亮策編述・金港堂)の巻四に載せられたウサギとカメの話を見てみよう。

第一課  亀とうさぎ
 あゆむこと。おそしといへども。怠らず。ゆくときは。つひに千里の遠きにも。いたるべし。むかし兎と亀とありて。はしることをば。たくらべしが。兎は。己が足のはやきにほこり。亀の歩みのおそきを侮りて。途中に。ひとねふりし。やがて目をさましてみれば。亀は。はや定めたる処につきて。勝ちをとりしとぞ。

 現在でいうと、小学校二年生の後期用に使われる教科書の冒頭の教材である。文章は文語文で、同じ巻に収められた他の教材文もおおむねこうした文体である。渡部の翻訳が、会話を交えて、臨場感のあるものだったのに比べて、この教材はまるで筋だけになってしまっているが、要点だけは押さえられている。
 この教材文では、始めに一般的な「努力」の重要性が述べられ、その実例として「ウサギとカメ」の話が展開されている。つまり、「教訓」が最初にあげられて、その後に本体の話が例示的に掲げられているのである。まさしく寓話が教訓を教えるためのものであることを如実に示している。それはまた、この教科書自体が、徳目や教訓を重視し、それを前面に出していることの表れでもあった。
 もっとも、それは何もこの教科書だけのことではなかった。例えば1887(明治20)年の、『新読本』巻五第九課に載せられている「兎と亀」には、直接読み手に呼びかけた次のような教訓が添えられている。

 子供よ。此の兎と亀とを見よ。兎は能にほこりて。恥をかうむり。亀はにぶけれども。怠たらずして勝ちを得たり。にぶきものとて。侮るべからず。にぶきものも。怠らざれば。能者となるなり。

 また、同じ年に刊行された『小学読本』(竹下権次郎編纂)の巻三下の第三五課には、「油断大敵」という題で、この話が採られていて、次のような教訓が付けられている。

 人モ才智アリトテ油断スレバ此兎ノ如ク遂ニ遅鈍ナル者ニモ及バズ 諺ニ油断大敵ト 誠ニ慎ムベキ事ナリ

 この教科書では、努力を奨励することよりも「油断大敵」を戒めるというところに主眼を置いていたようだ。
 同じように「油断」を戒める教訓は、1887(明治20)年の『幼学読本』(西邨貞・金港堂)の第五巻第九課にもある。ここでは、子どもの日常生活の実際と直接に結びつけ、さらに一歩踏み込んだ教訓になっている。

 児童等 ヨ、如何 程 賢キ ウマレツキ ニテモ 之レ ヲ 恃ミテ、勉ム 可キ 業 ヲ 怠ル 時 ハ、遅鈍 ニテモ 勉強スル 人 ニ ハ 劣ル 可シ。「油断大敵。」ト 云フコト ハ 常常 忘ル 可カラズ。 高慢 ハ 必ズ 戒ム 可シ。

 同様の例では、1888(明治21)年の『小学読本』(井上蘇吉編纂・杉浦重剛校閲)巻三に「何人も我身の才能に誇りて怠るときハ斯くの如くなるものと知るべし」という教訓が見られ、1894(明治27)年の『学習院 初学読本』(学習院編纂)の巻三にも「よく出来たればとて、ゆだんをすれば、己におとる者にも、劣るに至るべし」という教訓がつけられている。
 修身の教科書ならともかく、「国語読本」がこういう状態なのである。もともと、イソップ寓話が教訓を伝える目的だったという来歴を最大限に利用して、日常の心がけを教え諭すという教材化をしているのだ。「寓意」や「下心」をそれとなく感じさせるというのではなくて、あからさまな形で教訓を示すことこそが、教育的だと考えられていたのである。
 もっとも、一般に向けたイソップの翻訳もそうした傾向から必ずしも自由だったわけではない。1907(明治40)年の『正訳伊蘇普物語』(佐藤潔訳解・小川尚栄堂)は、英文を学習するものにも便利なように作られた書物だが、一般の児童が読むことも期待していたようだ。各話には、訳者による「説明」がついていて、「教訓」がより具体的に説明されているが、「兎と亀」の場合は、次のようである。

 此訳の意味は誰にでも善く解るでせう。歩き方が遅くとも根気よく休まない亀は勝つし,疾足でも度々息んで油断した兎は負けました。学校の生徒も同じ事で、平素覚へが善くても怠惰るとグングン成績が悪くなるし又覚へが悪くても精出して勉強すればグングン上に昇つて試験に勝つことが出来ます。

 「学校の生徒も同じ事」と、日常生活に直接結びつけて、「試験に勝つ」ように叱咤激励する文調になっている。市販の「イソップ物語」も、そこから現実的な処世訓を読み取るためのものという点が強調されていたのである。

 様々な学習活動の工夫 
 今見たように、この時代の教科書は、「イソップ寓話」を教訓を注入する素材として十二分に活用していた。しかし、明治も30年代に入ると、国語読本の内容や形式にも様々な工夫が凝らされるようになってくる。それは、子どもの話しことば(談話文)を多用し、日常の言語生活を拡充する方向に、イソップ話材を活用しようという方向である。
 その一例として、1900(明治33)年の、『尋常国語読本』甲種・巻一(金港堂)を見てみる。

 タロー ノ ハナシ
アル トキ ウサギ ト カメ ト、カケクラベ ヲ イタシ マシ タ。
カメ ハ、ユダン ナク、アルイ テ ユキ マス。ウサギ ハ、アシ ガ、ハヤイ ノ デ、キット カツ ト オモッテ トチュー デ ネ マシ タ。
カメ ハ、ソ ノ アヒダ ニ、ウサギ ヲ オヒコシ マシ タ。
ウサギ ハ、メ ガ サメ テ カラ、キューニ ハシリ マシ タ ガ、トートー カメ ニ マケ マシ タ。
 つゞき
はゝさま けふ は、おもしろい しょーか を ならひ まし た。
たゞいま うたっ て、おきかせ まうし ませう。
はしる に はやき うさぎ すら / ねむれ ば かめ に おひ こさる。
まされる ひと も おこたれ ば / おとれる ひと の あと に なる。
はげめ や はげめ わが こら よ。 / はげめ や はげめ わが こら よ。

 小学校の一年生前期用の教材で、語単位の分かち書きになっている。また、片仮名文に平仮名文が連続しており、教材文をそのまま教えるという形から、寓話を言語生活の中に取り入れるという形が出てきたことが分かる。つまり、太郎の話と題して、実際に小さい子どもがお話を語るという設定にして、子どもの話しことば(語りことば)の文体で「ウサギとカメ」の話を提示しているのである。子どもの直話という設定だから、平易な語彙と、比較的単純な文体で構成されている。教訓も子どもの話の中には直接出て来ない。つまり、ウサギトカメの話の部分は「寓話」ではなく、「物語」になっているのである。
 しかし、そこは明治の教科書である。「物語」を単純に楽しむだけでは終わらずに、教訓が「唱歌」という形で付け足されている。「唱歌」は文語体が採用され、異なった文体を提示するという意図もあったのだろうがその内容は、「教訓」を韻文形式にしただけで、太郎のいうような「面白い唱歌」とはいいかねる。まるで、欧米列強に追いつき追い越せとばかりに、教育活動に「はげめやはげめ」と拍車をかけているようだ。
 このように学習活動を豊かにしようという工夫は、「統合主義」を唱えたことで知られる樋口勘次郎が編集した国語教科書にも見られる。1901(明治34)年に、同じ金港堂から出された『尋常国語教科書』の巻五の第一三課に「かめとうさぎ」という話があり、そこでは、次のような展開になっている。

 うさぎはかめの歩みのおそきを見て、「君の足はなかなか早いね、あの小山のみねまでかけくらをせぬか。」と、からかひしに、かめはわらひながら「それは面白からう。」と、いひて、一しょに出立せり。
 うさぎはしばらく走り行きしが、はるかにかめのおくれたるを見て、「あの足で、かけくらとは、なまいきだ。かれがここまで来るには、まだよほど間がある。ここらで一休せう。」といひて、道ばたの石にこしをかけ、そのまゝひるねせり。
 しばらくして、うさぎは目をさまし、後を見しに、かめのすがた見えざれば、急ぎかけ出して、定めのばしょにいたれば、かめははやそこにつき居て、「君も思ったよりは早いことね。」と、いへり。

  このほどはきみのあゆみのおそきをあなどり、わたくしよりかけくらをいひだしながら、ゆだんして  ねむりたるまに、おひこされたるは、まことにはづかしきかぎりなり。こののちはさるしつれいなる  ことは、きっとまうすまじければ、まへにかはらず、なかよくおつきあひのほど、ねがひたし。
      うさぎ
かめどの

 この教材の特徴は、冒頭のウサギの挑発のことばに対して、最後のカメのせりふがそれに呼応して、若干皮肉めいた口調になっているところであろう。これはおそらく、小学校の三年生のための素材ということが念頭にあり、単純なストーリーにちょっとひねりを入れたからではないかと推測される。さらに興味深いのは、手紙の形式で、和議を求める内容が添えられていることである。手紙文の学習は、明治時代の作文教育の中心的な内容であり、おびただしい教材例もあるが、それらはどれも実用的、あるいは日常生活に適用することを前提として考えられており、この文例のように仮構の手紙文は珍しい。内容的には、ウサギとカメのレースの後日談であり、自分の非を認めて、これからの交友を求める趣旨になっている。ここまでこの教科書は、かなり「教訓」から自由な編成になっているといっていいかもしれない。
 だが、この話題はまだ終わらない。それは、続く「第一四課」に載せられている「かめとうさぎとの歌」である。

 かめとうさぎとかけくらに おそい歩みのかめかちて
 早いうさぎのまけたるは  いかなるわけかよく思へ
 かめが後をも見もせずに  急ぎて行きしその間
 うさぎが休んで居た故ぞ  ゆだんをするな何事も

 形式的には別の課という扱いになっているが、当然、前の課と連続して取り扱うべき内容である。おそらく、物語形式、手紙形式、韻文というように、いくつかの文体を取り合わせたところに編者の工夫があったのだろう。だが、読者に「油断をするな何事も」と戒めを伝える内容は、やはり教訓臭さから免れていない。どうしても「教訓」から、「ウサギとカメ」の競争は、逃れられないようだ。
 しかしここで重要なのは、ことばの教育が唯一絶対の「読本」を聖典としてそれを押し頂くのを目的とすることから、子どもたちの言語生活を豊かなものにする方向に向けられるようになったことである。それは「読本」の内容を教えるという地平から、「読本」に書かれていることを中心にして、自分たちの言語生活を見直したり、その中に読本で学んだことを取り入れたりするような学習活動となって表れてくる。

 姿を消すあからさまな教訓
 一方、1897(明治30)年の『国民新読本 尋常小学校用 巻二』、1901(明治34)年の『尋常 日本国語読本 巻三』、1902年(明治35)年の『尋常 国語教科書 巻三』、『扶桑読本 尋常科用 巻二上』などに出ているウサギとカメの話には、教訓そのものが付けられていない。また、『扶桑読本 尋常科用 巻二上』では、最後にカメがウサギに向かって「かめはさきにとどきて、其のをこたりを、わらひきとぞ」となっており、1897(明治30)年の『国民新読本 尋常小学校用 巻二』では、「ウサギサン、イママデ、ナニヲシテヲリマシタカト、ワラヒマシタ」と、「笑い」で話が締めくくられている。「笑い」といっても非難や冷笑から、相手を受け入れる笑いまで様々なニュアンスはあるが、少なくとも「教訓」をむき出しにする結末よりは軟化している。このように明治期後半になると、教材に直接の教訓を付けて、メッセージをそのまま読み取らせようとするよりも、物語それ自体から間接的に「下心」を感じ取らせようという方向へ教材化が進んでいくように見える。
 1902(明治35)年の『尋常国語教科書』(小林義則・文学社)の巻三第四課の「うさぎとかめ」は、話そのものは、簡略ではあるが、すっかり「物語化」され、教訓めいた文章はどこにもない。

 あるとき、うさぎとかめとが、であひました。
 うさぎは、「かめさん、ここから、あの山の上まで、かけくら を しませう。」と いって、かめにすすめました。
 そこで、かめは、いっしょーけんめいに、かけだしましたが、足が おそいので ずっと、あとに なって しまひました。
 さきに たった うさぎは、かめを ばかに して をりましたから、とちゅーで、ひとやすみ して、つひ、うとうとと、ねむって しまひ ました。
 しばらく たって、うさぎは 目をさまし、すぐに、かけのぼりましたが、あひては、もう とうに 山の上に、ついて をりました。
 
 もちろん、この教材を読んだ後、教室でどんな話し合いが進行するかは、教師の導き方にかかっている。ストーリー展開を楽しむ方向に進むか、あるいは教訓を読み取ることを専一にするか、それはそれぞれの教室の状況によって若干は異なるだろう。だが、教訓に全く触れないということは考えにくい。明治時代の教室で、この教材を扱うのだとすれば、やはり「努力」や「油断大敵」といった着地点に向かって、学習が収斂すると考えた方が無理がない。しかし少なくとも、明治末年には、教材文にむき出しの教訓がそのまま附載されることが少なくなってきたということだけは確認できるように思う。

 世上に普及したイソップ寓話
 少し話題を変えよう。
 1900(明治33)年に出た『国語読本 尋常小学校用』は、坪内雄蔵、すなわち坪内逍遙によって編まれた教科書で、新しい工夫を盛り込んだ名読本として有名である。作家活動を旺盛に行い、多忙だった逍遙ではあるが、かなりの力をこの読本に傾けたといわれている。その結果、「全体に文章表現の平易化をすすめ、更に教材の児童生活化とともに、文学性・興味性に力を入れ」たと、評価されるような子どもに親しみやすい教科書が出来上がった。*7 発行元は、富山房である。
 この『国語読本 尋常小学校用』の第一巻は「トリ、ハト、アリ」と、単語による文字提出から始まっている。単語から始まるのは、当時の読本類の通例にしたがったまでだが、興味深いのは二頁目の「ハト、アリ」に添えられた挿絵である。そこには、着物姿の男の子が長い竿を持っているところが描かれている。竿の先は、高い木の上に止まっていたハトに向けられていたらしいが、ねらいがはずれてハトは今まさに枝から空中へ飛び立ったところである。おそらくハトは竿で突かれるか、あるいは竿の先に塗った鳥もちにからめ取られる運命だったところを、かろうじて逃れたのであろう。獲物を逃して苦い表情をしている男の子の視線は、しかし、そのハトにではなく、自分の足下に向けられている。よく見ると男の子の足にアリがへばりついている。おそらく、アリが男の子の足に噛みついたので、男の子は痛さのあまり手元が狂って、的を外したのであろう。アリのおかげで、ハトは命拾いをしたのだ。
 と、ここまで書けば、この話の出典が同じイソップ寓話の「アリとハト」であることは、すぐわかるだろう。この話には、前段がある。たまたま木の上にいたハトが、水におぼれかけたアリを見つけ、木の葉を落としてやって、その命を救ったから、アリはハトを助けるために人間に噛みついたのである。小さいものでも恩を忘れないという主旨で、「一寸の虫も恩人に対しては大いなるお返しができるのだ」というのが『イソップ寓話集』中務哲朗訳・岩波文庫1999(平成11)年の「アリとハト」に付けられた「教訓(下心)」である。やはりイソップ寓話に収められている類話に「ライオンとネズミ」の話があり、これも命を助けてやった小動物に、力の強い大きな動物が助けられる話である。
 ここで、「アリとハト」に少々こだわったのは、すでにイソップのいくつかの話が、子ども読者にもよく知られた話になっていたということをいいたかったがためである。つまり、人間がハトを取り逃した場面にアリがいるという絵さえあれば、「ハト、アリ」という文字提出をするだけで、例のイソップの話だと読者が了解できるほど、この話は人口に膾炙していたということだ。坪内本だけではなく、1901(明治34)年に出された『尋常国語教科書 甲種』(樋口勘次郎・野田瀧三郎合著・金港堂)の巻一でも同じである。文字提出は、「あり はと アリガオヨグ ハトガ キノハヲ オトス」であり、挿絵は、おぼれているアリにハトが木の葉を落としている。これだけでは、恩返しをする部分がないので、話としては完結しない。しかし、おそらくそれで十分だったのだ。アリとハトの話を、あらためて語り直さなくても、読み手はその話をよく知っていたのである。(もちろん、子どもたちがその話を全く知らない場合は、教師が口頭で補うということもあわせてなされただろう。)
 ウサギとカメの話も、まったくこれと同様の位相にあった。
 この坪内本では「ウサギ ガ ヤスム。 カメ ガ イソグ。」という文章と、眠るウサギと一生懸命歩むカメの様子を書いた絵だけが提出されている。ウサギが競争を言い出したことも、最終的にカメが先に目的地に到着して勝利を収めたことも書かれていない。しかし、それは読者の側がよく知っていることだった。つまり、これも読者がこの話を熟知していることを前提とした教材化なのである。同じような例に、1901(明治34)年の『尋常単級 国語読本』(小山佐文二・加納友市合著・集英堂)の巻一では「カメヨ、ヤスムナ。ヤスムナ、カメヨ。」の文字とその場面の挿絵がある。また、1902(明治35)年の『小学読本』・『国民読本』(ともに国光社編)の巻一には「ウサギ ガ ネムル。カメ ガ イソグ。」、同じ年の『単級 国語教科書』(文学社)では「カメ ガ イソグ。ウサギ ガ ネムル。」の文字と、これも一場面だけの提示である。どれも、小学校一年生用の上巻の掲載であるから、多くの文字提出が出来なかったという理由もあるだろう。しかし、そのことは逆に、これだけの少ない文字情報からでも、もとのストーリーを再現することが可能なほどに、「ウサギとカメ」の話が人口に膾炙していたことを表していると考えていい。
 
3 唱歌の中のウサギとカメ
 韻文のウサギとカメ
 歌は、物語よりも伝播力が強い。メロディーが、直接に聞き手を感化するからである。つまり、物事の普及には、歌がきわめて役に立つということだ。
 ところで国語の読本には、様々な文章が混載されている。中心になるのは散文であるが、韻文も載せられており、古来の和歌や俳句、あるいは新体詩などの文語定型詩が、ところどころに配置されているものが多い。ウサギとカメの話題に限っても、先ほど見た、1900(明治33)年の、『尋常国語読本』甲種・巻一(金港堂)では、「太郎」が学校で習ったという「唱歌」や、1901(明治34)年の『尋常国語教科書』巻五の第一四課に「かめとうさぎの歌」があった。また、1901(明治34)年に出た『尋常単級 国語読本』(小山佐文二・加納友市合著・集英堂)の巻三にも、「カメトウサギ」という題材がある。

 カメトウサギ
 ショーカ ガ ハジマリ マシタ。
「オホキナ うさぎ ガ、ナマケテネムル。
 ちひさい かめ ガ、ヤスマズアルク。
 おきよ、おきよ、うさぎ。
 イソゲ、イソゲ、カメヨ。」

 「唱歌」とあるが、国語読本に楽譜が添えられているわけではないから、実際に声に出して歌われたのかどうかまではわからない。もしかすると、国語の教科書と連動する形で、唱歌の教科書の方に楽譜が載っていたのかもしれないが、今、そこまでは調べきれていない。しかし、国語教科書の中には、「ウサギとカメ」に材を求めた韻文がたくさん載っている。
 さて、「唱歌」の教科書に目を移そう。「唱歌」という呼称は、学校教育の中の科目名(学科目)であり、今日でいえば「音楽科」にあたる教科である。この学科目の教科書は、1881(明治14)年に『小学唱歌集初編』が文部省から発行されたのが最初で、明治20年代の中頃から、民間から音楽教科書や唱歌集が数多く発行されるようになったが、その主流は「教育勅語」の精神を歌い込んだ「徳目唱歌」と、当時の社会情勢に呼応した「軍歌」だった。
 1896(明治29)年には、『新編教育唱歌集』(教育音楽講習会編纂・開成館)が出た。この本は、明治39(1906)年には大幅に内容が改訂され、その改訂版の第一集には、36曲が収められていた。国定読本の韻文に曲を付けた歌詞も四分の一ほどを占めている。この中に「兎と亀」の歌と曲がある。
 亀と兎
(一) 亀と兎と、ある時に、走りくらべをしたりしが、
    兎は亀に語るよー、その足おそが、いかなれば、
     我にかたんと、侮りて、恥ぢしめしこそおろかなれ。」
(二)足こそ亀は遅けれど、たゆむひまなく行きしかば、
    早くも先につきにけり、兎は、あまりの慢心に、
     一跳とびては休みつゝ、おこたりがちに進みゆく。」
(三)到りて見れば、こはいかに、かの足遅とあなどりし
    亀は、とくより行きつきて、巖のうへにまちゐたり。
     兎はこゝに心折れ、油断せし身を悔いしとぞ。」
   
 この曲は、「教育勅語の徳目」でも「軍歌」でもないから、子どもにはある程度親しまれたかもしれない。単純なメロディーではあるが楽譜が添えられているので、実際に子どもたちに歌われたことだけは間違いない。「唱歌」の時間に、教師から習った子どももいたことだろう。だが、この曲は現在ではまったく知られていない。

言文一致唱歌の誕生 
 「うさぎとかめ」の歌として、歌い継がれているのは、納所弁次郎が作曲した曲である。「もしもしかめよ」の軽快なリズムが記憶に残る、あの歌だ。この曲は、明治34(1901)年に出た、『教科適用 幼年唱歌 二編 上巻』に収録されている。発表されてから百年近く経過している。ここに収められた歌詞は、文語体ではなく、いわゆる「言文一致唱歌」なので、今日の子どもたちにとっても、歌の内容は容易に理解することができるだろう。
 明治33年8月に示された「小学校令改正」では、尋常小学校の教科目は、修身・国語・算術・体操であった。これに「土地ノ情況ニ依リ図画、唱歌、手工ノ一科目又ハ数科目ヲ加ヘ」ることができた。つまり、「唱歌」は、増加科目だったのである。この本の題名の「角書き」つまり『教科適用 幼年唱歌』の「教科適用」という名称は、当該の学校が教科目として「唱歌」を加えて採用した際に、教科書としても使えることを強調するために命名されたものだろう。

 うさぎとかめ  石原和三郎 作詞 /納所弁次郎 作曲
もしもしかめよ かめさんよ/せかいのうちに おまえほど
あゆみののろい ものはない/どうしてそんなに のろいのか

なんとおっしゃる うさぎさん/そんならおまえと かけくらべ
むこうのやまの ふもとまで/どちらがさきに いきつくか

どんなにかめが いそいでも/どうせばんまで かかるだろ
ここらでちょっと ひとねむり/ぐうぐうぐうぐう ぐうぐうぐう

これはねすぎた しくじった/ぴょんぴょんぴょんぴょん ぴょんぴょんぴょん
あんまりおそい うさぎさん/さつきのじまんは どうしたの

 作詞者の石原和三郎は、群馬の生まれ。群馬師範を卒業後、郷里の小学校に勤務したが、1894年、東京高等師範附属小学校に転出。ここで、最新の教育理論と実践に触れ、1900年に株式会社富山房に入社する。坪内逍遙が編集して、当時評判になった「小学国語読本」の編集に携わった。同時に『幼年唱歌』全10巻を順次刊行。「うさぎとかめ」のほか「花咲爺(うらのはたけで・・・・)」「金太郎(まさかりかついだ・・・・)」などが有名である。*8 作曲の納所弁次郎は、やはり東京高等師範学校に勤めていた田村虎蔵らとともに、言文一致唱歌を強力に進展させた人物である。
 この唱歌は、ウサギのからかい、カメの反発、ウサギの慢心、そして後悔と、かめの揶揄という具合に、場面がテンポよく展開する。対話形式でストーリーが進行し、リズム感があるので、今日まで歌い継がれたのであろう。というより、ウサギとカメというと、まっさきにこの歌が脳裏に浮かぶのではないだろうか。今日では使わない言い回しなどが含まれているものの、現代の子どもにも歌詞の意味はよくわかる。
 日本における「ウサギとカメ」教育文化史においては、この歌の貢献度と頻出度が最高であるかもしれない。

4,国定読本の中の「ウサギとカメ」
明治検定期におびただしい数の「国語読本」が出されたが、それは結局、国が作製した唯一の教科書「国定読本」へと収斂する。
1903(明治36)年、小学校の教科書は国定制へ移行し、翌1904(明治37)年の4月からは、国定読本が使われるようになった。しかし、ほどなく1907(明治40)年3月に小学校令が改正され、義務教育の年限が6年に延長されたことにともなって、新しい国定教科書の改訂が要請される。第二期国定読本の登場である。第一期国定国語読本(イエスシ読本)に比べて、この第二期国定読本は、日清日露戦争で大きく盛り上がった国家主義的な風潮を反映していた。すなわち、第一期に比べて軍事教材が増え、言語表記の面でも旧来の表記法にもどり、復古的なにおいの強い教科書になっていた。
ハタタコ読本の後を継いで、1918(大正7)年度から使用されたのが、第三期国定読本『尋常小学国語読本』(ハナハト読本)である。この本が公刊された当初は、ハタタコ読本を修正した『尋常小学読本・修正本』も並行して発行されていたので、教育現場はどちらの読本を選択してもよいことになっていた。が、結局、新しいハナハト読本の方が、大方の支持を得ることになる。この第三期国定読本は、それまでの教科書に登載されていた実学的な教材を残しているものの、文学的な教材をさらに増加させたことで、国語の教科書として、一歩前進したと評価された。
 第一期から第三期までの国定読本には、イソップから採られた話材がいくつか採られている。とりわけ第一期国定読本には、その数が多い。主に低学年の教材で、例えば「よくばりいぬ」「ネズミの相談」「二人の旅人と熊」「ライオンとネズミ」などで、それらは国定期以前から国語読本の教材としておなじみだったものである。「ウサギとカメ」は、検定期に引き続き国定修身教科書の教材にもなったが、国語読本には、1933(昭和8)年の第四期国定『小学国語読本』(サクラ読本)で登場した。また、1910(明治43)年に出た国定修身教科書『尋常小学修身書』の巻一には、「ベンキョウセヨ」というタイトルに対応して、ウサギがカメに追い越される絵が描いてある。
 この第四期国定国語教科書『小学国語読本』は、「教科書の神様」と称された井上赳が編纂官として関わったもので、子どもたちの心性を重視した画期的な教科書だといわれている。文学的な教材が多く盛り込まれており、口語常体の文章が中心的になった色刷りの教科書であった。イソップ寓話からは、ほかに「獅子と鼠」「金のをの」「ねずみのちゑ」などが教材化されている。
 この「サクラ読本」の「ウサギとカメ」は、巻一に載せられている。 
 
 アル日、ウサギト カメ ガ、カケッコ ヲ シマシタ。ウサギ ハ アノ ノロイ カメ ニ マケル コト ハ ナイ ト オモヒマシタ。ウサギ ハ、トチュウ デ、ユックリ ヒルネ ヲ シマシタ。カメ ハ、スコシモ ヤスマナイデ、ハシリマシタ。トウトウ、カメガ、ウサギ ニ カチマシタ。 

 おそらく一年生の九月頃に習うことになる教材で、ストーリーをむだなく追った文章である。ところが、同じ井上赳が関わった、第五期国定国語教科書『国民科国語教科書』(アサヒ読本)になると、同じ素材が次のような形で教材化されている。掲載されているのは、1941(昭和16)年度から使用された「ヨミカタ 二」である。

 ウサギトカメ
 ウサギ「カメサン、コンニチハ。」
 カ メ「ウサギサン、コンニチハ。」
 ウサギ「ナニカ、オモシロイ コトハ ナイカナ。」
 カ メ「サウ ダネ。」
 ウサギ「カケッコヲ シヨウカ。」
 カ メ「ソレハ オモシロイ。」
 ウサギ「デモ ボクノ カチニ キマッテ ヰルナ。」
 カ メ「ソンナ コトハ ナイヨ。」
 ウサギ「デハ ヤラウ。ケッショウテンハ、アノ 山ノ 上 ダヨ。」
 カ メ「山ノ 上。イイトモ。」
 ウサギ「ヨウイ、ドン。」

ウサギ「オソイ カメサン ダナ。アンナニ オクレテ シマッタ。コノヘンデ、ヒルネヲ シヨウ。グウ グウ グウ。」
カ メ「オヤ、オヤ、ウサギサン、ヒルネヲ シテ ヰルゾ。イマノウチニ オヒ コサウ。急ゲ、急ゲ。」

ウサギ「アア、イイ キモチ ダッタ。マダ、カメサンハ ココマデ 来ナイ ダラウ。ドレ、出カケ     ヨウカナ。オヤ、山ノ 上ニ ダレカ ヰルゾ。」
 カ メ「バンザイ。」
ウサギ「ヤア。カメサン ダ。シマッタ、シマッタ。」

 1941(昭和16)年、小学校は国民学校と改称された。一億国民の総力を挙げて大東亜戦争を遂行するための教育を徹底するためである。国語教科書にも時局を濃厚に反映した教材が増えた。またこのアサヒ読本では、音声言語教育が重視されたことが特筆される。文字・文章の指導に偏した国語教育を、話しことば中心に組み立て直そうとしたのである。発音・発声の指導、標準語教育の徹底、対話・劇教材の重視などがその具体的な方策である。しかし、厳しい戦局は、全国の子どもたちが十分に学習できるだけの時間を保障することが出来なかった。また、音声言語を前面に立てた国語教育も、やはり戦争と無関係でいられるはずはなかった。
 もっとも、この「ウサギ」と「カメ」の会話劇からは、そうした緊張感は感じられないかもしれない。だが、会話こそ一見のんびりしているが、挿絵を見ると、山の頂上にはカメの姿よりも大きい「日の丸」の旗がへんぽんと翻っている。つまり、ウサギトカメの国籍は、当然のように「日本人」だとされている。戦時下という極限化した状況のもとで、ヨーロッパから移入されたイソップの話は、国定読本の中で文字通り「国粋化」されてしまったのである。

5,戦後の「ウサギとカメ」の話題のいくつか
 戦後の国語教科書にも、「ウサギとカメ」は登場しないわけでないが、紙数の都合もあるので、以下、ほかの話題をいくつか記すことにしよう。

 児童文学の中の「ウサギとカメ」
 子どもの読み物には、「イソップ寓話」はどのような形で導入されたのだろうか。
 明治後半から、大正・昭和戦前期にかけては、子ども読者に向けのいわゆる「世界文学全集」の類が数多く出版された。調べてみると、そのほとんどにイソップ寓話が取り上げられている。例えば、1916(大正5)年には豪華な装幀で知られる「模範家庭文庫」に楠山正雄訳・岡本帰一画の『イソップ物語』が、1925(大正14)年には世界の古典・寓話・神話・童話などを集大成した「世界童話大系」に松村武雄の解題が付された山崎光子訳『伊蘇普寓話集』が、1927年(昭和2)には菊池寛と芥川龍之介が編集にあたった「小学生全集」に菊池寛訳編『イソップ童話集』が、1929(昭和4)年にはアルス社の「日本児童文庫」に新村出訳『イソップ物語』が、1933(昭和8)年には「春陽堂少年文庫」に楠山正雄訳「イソップ物語」が、それぞれ収められている。このうち、もっとも世上に流通したのは、大人のための大量販売企画、いわゆる「円本」の体裁をまねた「小学生全集」と「日本児童文庫」だった。もっとも、この二つのシリーズのイソップ集には、「ウサギとカメ」の話は収録されていない。なお、日本の絵本の歴史に一時代を画した「講談社の絵本」シリーズにも、八波則吉の文・黒崎義介の絵による『イソップ絵話』1937年、が収録されていた。
 昭和戦後期に入っても、イソップ寓話は、子どものための文学全集類には欠かせない存在だった。1950(昭和25)年から刊行が始まった「岩波少年文庫」では、ギリシャ語からの本格的な翻訳として、河野与一編訳・稗田一穂画で300の話が紹介されている。また、戦後を代表する児童文学全集といわれる講談社の「少年少女世界文学全集」にも、呉茂一訳の『イソップ物語』1961年が収められていた。これらは少年・少女に向けた翻訳という性格上、「ウサギとカメ」を含めて数多くの作品が載せられている。
 幼い子供に向けた読み物類では、児童文学者やたちの手によって数多くの翻案・再話が提供された。例えば、「学年別おはなし文庫」土家由岐雄著『イソップものがたり』1956年、「世界名作童話全集」田中豊太郎編著『イソップ物語』1963年、「子ども世界名作童話」西本鶏介・文『イソップ物語』1987年がそれで、他にも、浜田広介、坪田譲治、与田凖一、平塚武二、二反長半、今西祐行などがこうした仕事を手がけている。子どもたちは原典からの忠実な翻訳よりも、むしろこのような翻案・再話によって、イソップを身近なものとして意識していっただろう。
 そのうち、まず「世界名作童話全集」田中豊太郎編著『イソップ物語』1963(昭和38)年の冒頭を紹介しよう。
 
 かめが、川の きしを のこのこ あるいて いました。
 それを みた うさぎは、
(なんと まあ、のろい あるきかたを するのだろうな。わしが ひととび ピョンと とぶ ところを、かめは あんなにも ながい あいだ かかって、あるくの だもの。ひとつ、わしの はやい ところを みせて やろう。)
 と おもいました。
 そこで、かめに むかって いいました。
「かめさん、かめさん。きょうは いい おてんきだね。どうだ、ひとつ かけっこを しようじゃないか。」
「そうだな、やろう。」
と、かめは へいきな かおで いいました。      
(以下、略)

 この作品は、ウサギの内面の心理を内言という形で表現してある。人物の内面描写や、会話が頻出するおかげで状況はわかりやすくなっているが、それだけ作品の長さが増している。
 もう一つ、比較的新しく作られた、立原えりかの「ウサギとカメ」を見よう。

「かけっこなら ぜったい いちばんだ」
うさぎが いいました。
「ぼくだって せったい いちばんだよ」
かめがいいました。
「よーし、きょうそうしてみよう」
のはらを こえて、山を こえて、さあ いくぞ。
(中略)
ゆっくり ゆっくり のんびり のんびり、
かめは あるいて あるきつづけて、うさぎを おいこすと、
山を こえて 大きな木に タッチしました。
「ぼくが いちばんだよ」
かめは いったけど、うさぎは まだ ねむっていました。

 この作品では、高慢なウサギがのろまなカメを挑発するというパターンではなく、幼い子どもが、それぞれの力量も自覚せずに互いに張り合って競争になるという設定になっているので、頬笑ましささえ感じる。結末も、ウサギはまだ眠っているので、ウサギが後悔したり、カメがウサギの自慢を揶揄するということもない。ほのぼのとした童話に仕上がっているといってもいいだろう。
 これらの子どもに向けた作品の特徴は、ストーリー性を大事にしていることであるが、そのために、教訓をあからさまに語らないもの、あるいは子ども読者を意識して動物たちが仲良くなるという結末に作り替えるもの、さらには文章に情景描写をふんだんに加えたり、擬態語や擬声語をなどを取り入れたものなど、それぞれに特徴がある。幼児向けに作られた絵本の中には、「教訓」を忍び込ませているものもあるが、総じて子どもたちに対して教訓を教え込もうというよりも、物語そのものを楽しんでもらおうという姿勢に変わってきているように思われる。

イソップは今でも読まれているのか
 それにしても、ややもすると「教訓」へと回収されがちなこの物語を、子どもたちは好んで読んでいるのだろうか。
 統計的な証拠はないが、そうしたことを推測する手がかりとして、毎日新聞社で行っている「学校読書調査」が使えるかもしれない。これは、1957年以来、子どもたちがどんな本を、どのくらい読んだかの経年的な調査である。その調査をもとに、土屋智子氏が作成した表が『図説子どもの本・翻訳の歩み事典』に載っている。*9 それを見ると、外国昔話という項目に、イソップ物語の名があり、小学男子では、1950年代から1980年代まで読まれていることを確かめることが出来る。小学女子では、同じく1950年代から読まれていて、1990年代まで続く。しかし、その後は男子も女子も読んだ本の名前として、イソップの話を挙げていない。中学校の調査もあるが、さすがに中学生になってからイソップは読まないようで、リストの中にイソップの名前は出てこない。もちろんこの調査だけでは、確実なことは言えないが、イソップ寓話は小学校段階では、戦後もずっと読まれたきたが、最近になってほとんど読まれなくなっているという傾向がうかがえる。
 これもイソップに限って読まれなくなったというより、昔話や従来の有名童話が必ずしも必読書ではなくなったと解釈した方がいいかもしれない。つまり昔話や有名童話よりも、現代の子どもを直接に意識した多種多様な創作作品の方がよく読まれているのだ。したがって、相対的に古典的なイソップへの着目度は低くなっているということだろうか。しかし、児童書購入の決定権を持つのは親や教師でもあるから、いわゆる名作童話を読ませようという意識と同じような意識でイソップ寓話を選択することも考えられる。その証拠に、いわゆる「親と子どものための名作童話絵本」のような廉価なシリーズには、今日でも必ずと言っていいほどイソップの作品が含まれている。
 その意味では、まだまだイソップは読書材としての普遍性を持っているということが出来るのかもしれない。 
 
「ウサギとカメの」書き換え
 イソップの教訓も、さすがに少し成長すると嘘くさく感じる。そこで、そのパロディを作って、遊びたくもなるだろう。つまり、イソップ寓話の「書き換え」である。
 例えば、ビートたけしが書いた『ビートたけしのウソップ物語』(瑞雲社・2001年)には、イソップだけではなく様々な昔話のパロディが集められている。「ウサギとカメ」の話には、二つのパロディが載せられていて、一つは、決勝点までいったカメが寝ているウサギを起こすと、ウサギが「バカ!おれは三往復目だ」と答えるというもの(これには、たけしの教訓として「人間いくら努力しても、才能のあるやつにはかなわない」がついている)。二つめは、進んでいくカメの背中にウサギが寝ていて、決勝点の直前で飛び降りるというもの(これには、たけしの教訓として「能力のあるやつは楽をして栄光をつかむ」がついている)。どちらも、毒舌で売っている「ビートたけし」らしく辛口の結末である。
 これは、読み物であるが、実際に学習者に「ウサギとカメ」を、自由に書き換えさせたらどうなるか。実は、大学生にこれを書き換えさせてみた。『ビートたけしのウソップ物語』は、毒舌と皮肉を見せることが目的だった。それに対して、学生たちは、それぞれの感性と認識とにしたがって、自由に書き換えればよいわけだ。30人ほどのクラスで、短い時間の間に、取り立てて説明もせずに、とにかく「ウサギとカメ」の話を、自己流に書き換えてくださいと指示しただけなのだが、思いがけず両者が和解したり、協力し合ったりする話がたくさん出てきた。現代の若者の「競争」に対するスタンスを表しているようだ。その例を、次に示す。

 昔々、頭があまり良くなくて、太っちょのウサギと、頭が良くてスマートですが、足の遅いカメがいました。二匹はいつもけんかばかりしていて、ある日、競争をすることになりました。ヨーイドン! 二匹は歩き始めました。太っちょのウサギは歩くと、ヒーヒー言って汗がふき出ました。スマートなカメは、スイスイと自分のペースで歩いていきます。ところがとちゅうでカメが石にぶつかって足をけがしてしまいました。あまりにひどいケガなのでうさぎはカメをおんぶしてあげました。ところが頭がよくないウサギはとちゅうで道がわからなくなって困ってしまいました。そこで頭のよいカメが「あっちに行ってごらん」と道案内をしました。二匹は協力し合ってやっとのことでゴールにたどり着きました。それからというもの二匹は困ったことがあると、互いに助け合う仲のよい友だちになったとさ、おしまい。
 教訓:どんな子にもよい部分と、欠けている部分とがありますが、それを助け合えばきっと仲良くなれるし、お互いが高めあえる。
 
 昔々、ウサギとカメが競争をしました。ウサギはカメの足が遅いのを知っていましたし、カメもウサギの足が速いのを知っていました。二人はそれを承知の上で競争をOKしたのです。ハンディなしで、二人はスタートしました。ウサギはどんどん進んでいき、カメはのろのろと、でも一生懸命に進んでいきました。ウサギは、かなりゴールに近づいてくると、後ろを振り返りました。やっぱりカメの姿は見あたりませんでした。しばらく待ってみようと、寝っころがりながら待ってみましたが、なかなかやってきません。
うさぎは、のろのろと、でも頑張って進んでいるだろうカメを思い出しました。カメは自分が競争に負けるとわかっていながら競争に臨んでいるのです。ウサギはこのまま自分がストレートに勝っても喜べないような気がしてきました。そこで、うさぎはそのままカメがくるのを待ち、仲良く一緒に進んでゴールしました。二人はとても気持ちよくゴールしたそうです。
 教訓:何か秀でている人がそのまま勝つ世の中もいいけれど、相手のことを考えて、相手の立場になってものごとを考えてみて、出した結果は、より気持ちのいいものになる。

 もともと、この話は、普通に競争すれば勝つに決まっているウサギが、これも普通に競争すれば負けるに決まっているカメに競争を持ちかけるところから、話が始まる。そのままウサギが勝負に勝ってしまえば、それこそ話にならない。負けるに決まっているカメが勝ったから、つまり、普通でない出来事が起こったからこそ、伝承するに相応しいエピソードとして残ったのである。
 ところが、どうも大学生たちは、そうした競争のあり方にも疑問を持ち、競争それ自体を無化してしまうような「書き換え」作品を書いた。明治時代にもウサギがカメをバカにしたことを反省し、これからも「なかよくおつきあい」をしてくれと頼んだ樋口勘次郎の教科書の例があったが、これは平等互恵・協力という「教訓」を中に込めた物語の書き換えになっている。
 明治以来の、近代的な「競争」、とりわけ学校の中での「競争」そのものが、ここであらためて問われているのかもしれない。





*1 豊郷小学校の内装については、以下のホームページを参照のこと。http://www46.tok2.com/home/arc/shiga/shiga_12.htm
*2 『世界大百科事典』平凡社 1998年 「兎と亀」の項目 執筆・野村敬子
*3 イソップの話題については、インターネットの「イソップの世界」がきわめて充実しており、一見の価値がある。 http://www.geocities.co.jp/Bookend/9563/ また、イソップの日本への移入についての必読文献は、小堀桂一郎『イソップ寓話−その伝承と変容』講談社学術文庫 2001年8月、である。
*4 『日本教科書大系第3巻 修身(3)』講談社 1962(昭和37)年 572頁
*5 ここでは、『通俗伊蘇普物語』渡部温訳・谷川恵一解説、平凡社(東洋文庫)2001年9月 P50、によった。明治文化体系教育編や日本教科書大系「近代編・修身」にも,その全体が翻刻されている。
*6 鳥越信編著『はじめて学ぶ日本児童文学史』ミネルヴァ書房 2001年4月,などが,新しい研究の動向を伝えている。
*7 『国語教育史資料・第2巻・教科書史』東京法令出版 1981(昭和56)年 129頁
*8 1991年10月23日に郵政省(当時)から出された「ふるさと切手・群馬県」は「ウサギとカメ」の図柄である。作詞者石原和三郎の出身地が群馬県だという理由である。ちなみに原画は、やはり群馬県在住で口で絵筆を操る画家、星野富弘が描いたものである。
*9 子どもの本・翻訳の歩み研究会『図説子どもの本・翻訳の歩み事典』柏書房 2002年4月