現代におけるフォルテピアノ

 楽器に大きな音量が求められるようになったのは、西洋音楽に関しては19世紀の初め頃ではないかと思えます。社会的にはフランス革命以降、音楽が一部の宮廷やサロン、教会などから出て一般市民が聴衆となっていった時代です。音楽家もプロモーターも演奏会を営業的に成功させるためにはできるだけ広い会場で多くの聴衆に聴いてもらう必要があったのでしょう。ちなみに今日使う楽器はモーツアルトが生きていた時代すなわち18世紀の後半に使われていた様式のフォルテピアノですが、そのモーツアルトの予約演奏会は多くても150人程度だったようです。また大きな音量とともに求められたのが音域の拡大でした。18世紀の後半までは5オクターブの楽器が標準でしたが、1830年頃には6オクターブ半があたりまえになっていました。わずか50年で1オクターブ半も拡がったのです。現代のピアノと同じ7オクターブ半の音域はそれから20年後には存在していました。音量と音域の拡大は察するところ、より多くの刺激を求めた結果と言えなくもありません。世間が昔より騒がしくなっていたのかもしれません。いずれにせよそれにより楽器の構造は大きく変わることになります。大きな音量を出すためにはより強い張力で弦が張られる必要があります。18世紀のフォルテピアノが5オクターブで1.5トンに対して現代のピアノは7オクターブ半で約20トンの張力です。当然のことながら音を出すためにより多くのエネルギーを必要としますが、フォルテピアノのハンマーが小豆か大豆程度のものだとすれば現代のピアノのそれは伊達巻の輪切りほどもありましょうか。結果、鍵盤の重さは10倍ほどになります。一見親子の関係に見えるかもしれませんがこれだけの差分がありますと基本的ポリシーからして全く異なってしまいます。すなわち、かつてのフォルテピアノは共鳴箱を鳴らす鍵盤付弦楽器であったのですが、現代のピアノは共鳴盤を鳴らす鍵盤付打楽器なのです。その分岐点はおおよそ1840年頃だと思われます。一方、ダイナミクスの広さはそれ程違わないようで、片やピアニッシモに偏ったダイナミクス、片やフォルテッシモに偏ったダイナミクスを持ちます。さて、説明が長くなってしまいましたがやっと本論です。以上で述べたことで大体おわかりになると思いますが、フォルテピアノの特徴は少人数の聴衆を前にして、軽やかな音色でかつピアニッシモに特化したダイナミクスを用いて音楽を表現することにあります。中でも特筆すべきはやはり芯のあるピアニッシモのニュアンスでしょう。ピアニッシモが意味するところが単に小さい音、弱い音ではないことが大変よくわかります。すなわち聞き手を否応なく音楽に引きずり込む力を持っているのです。気が付くと音は自分の中にいた、という感じでしょうか。ただし知らずに大変集中力を使いますので精神的には疲れます。しかし一度でもこのわずかなニュアンスの変化を聞き取るようになると、人間の耳のセンサーはいかに感度のよいものであったかに驚くことになります。それと同時に、音は与えられるものではなく自分の中にあるのだということも認識できると思います。現代は昔に比べて恐らくますます騒がしい環境にあると思います。車の音にしろ、ビル自身が発するうなりにしろ、はたまた冷蔵庫のコンプレッサーの音にしろ、自分を自然の中で無音の環境に置くことは大変難しい時代になってきています。そんな中でフォルテピアノのピアニッシモを聴こうとするのはかなり難しいことかも知れませんが、音楽の可能性および人間の可能性を広げることにおいて重要な意味を持っているのではないかと思います。
佐藤裕一(鍵盤楽器製作)
Home に戻ります