名句再考「魂をこめた演奏」 キース・ヒル (訳=秋岡寿美子)
"Playing from the Soul"A new look at a familiar phrase. Keith Hill
 「音楽を演奏する者は、魂をこめて演奏しなければならない。仕込まれた鳥のように歌ってはいけない。」(第1部第3章7)C.P.E.バッハは、その著書「正しいクラヴィーア奏法試論 Versuch ube rdie wahre Art das Clavier zu spielen 」の中で、このことをとくに強調しています。彼の言わんとするところを理解しようとするとき、20世紀後半に生きている私たちにとってやっかいな間題は、魂という言葉をどうとらえるか、ということです。もっとも、バッハやその当時の音楽家にとっては、これはまったく問題ではありませんでした。ほとんどの人は、魂は存在するものと思っていましたし、魂をこめて演奏するためにどうやってそこへ辿りついたらよいかということも、ちゃんと知っている者がいたからです。しかし、こんにちでは、こういう大前提は成り立ちません。その結果、当然のことですが、昨今の音楽界で通用している者の多くは、様々に形を変えた"仕込まれた鳥"たちです。本当に音楽を愛する人々は、何か欠けているものがあることにずいぶん前から気づいました。今では一般の音楽愛好家たちも、耳にする音楽の多くに失望して、もっと手応えのある何かを求めています。魂の奥底から響いてくるような音楽にふれることを、皆、望んでいるのです。魂それ自体にもはや意味を見出さないような世の中で、音楽家は難しい問題に直面しています。つまり、聴く人にきちんと受け止めてもらえるようなやり方で音楽の精髄を伝えることができるようになるには、どのようにそのコミユニケーション能力を磨いたらょいか、ということなのですが、これは、できないことではありません。というのは、私が思うに、聴き手にすんなりと受け止めてもらえるように音楽の精髄を伝えるという意味でのコミュニケーションと、"魂をこめて演奏する"こととは、まったく同じことだからです。くりかえし申しますが、間題は、どうやってそのコミユニケーション能力を高めるか、ということです。そのためにはまず、"レトリック"と"知覚"について、慎重に研究することから始めるべきでしょう。とはいえ、単にレトリックの様式を研究するのではなく、むしろ、人の心に訴える術としてのレトリック、という観点から見るべきだと私は思います。また、"知覚"と言っても、私は、あなた方が感じていると思うことをただ分析するという意味で言っているのではありません。あなた方の頭脳が、そこで受け止めたものをどう意味づけしていっているかを探るべきだ、と言っているのです。このようなことを研究するにあたって、心にとめておくべき大事なことが3つあります。まずひとつは、あなたの心に響くような説得力のある演奏の実例をさがすことです。(録昔されたものか、生演奏か、どちらかで)。もうひとつは、調査研究の手段として、あなた自身の知覚能刀を活用するということです。やり方としては、まず、自分自身が理解したことを研究し、次に、他の人がどう理解しているかを調べ、それから双方の所見を比較検討するのです。そして最後におぼえておいていただきたいことは、魂をこめて演奏する気にさせるような楽器は、っまるところ、あなた自身なのだということです。
レトリック
 まず第一の問題、レトリックを適切に用いているモデルとして研究に値するような演奏家をみつける、ということについて考えてみましょう。たとえば、ショパンは、当時のトップ・レベルのオペラ歌手の歌を毎週何時間も熱心に聴いていたということです。このことは、彼自身の残した文章や彼について書かれたものの中に記されているのですが、そういう歌の中に彼は、心に追る芸術表現の完成された姿を見てとったというわけです。もし、ショパンが理想のモデルをみつけてそれを模倣することができたのなら、同じように、あなた方もできるはずです。ただし、今のような時代において、だれをそのようなモデルにするか、ということについては、よくよく考えて選別する必要があります。今どきのオペラ歌手は、自分自身の声の響きにはおおいに興味を示しますが、直載に情熱を込めて昔楽の精髄を伝えることにはそれほど熱心ではありません。ですから、適切なモデルは、オペラ以外のジャンルからみつけてくる必要があるのですが、そんなに必死でさがしまわらなくても、ポピュラー昔楽畑にはレトリックの達人がたくさんいます。たとえぱアル・ジョルソン Al Jolson、バーブラ・ストライザンド Barbara Streisand、エディ・カンター Eddie、Canter、マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich、ルイ・アームストロング Louis Armstrong、エラ・フィッツジェラルド EllaFitzgerald、ビング・クロスビー Bing Crosby、ジュリー.アンドリュース Julie Andrews、などなど・・・それにエディット・ピアフ Edith Piaf を筆頭に多くのフランスのシャンソン歌手たちも数にいれるべきでしょう。そして、今挙げた歌手たちの演奏スタイルに共通しているのは、"ポルタメント"だということに私は気がつきました。普通、ポルタメントというと、ひとつの昔からもうひとつの音へピッチをずらしてゆくことだと思われていますが、このテクニックは1950年ごろには、世界中どこでも、ほとんど使われなくなってしまいました。(一部の偉大なポピュラ一音楽家は別ですが)クラシック音楽の世界では、ポルタメントは悪趣味とされ、演奏がだらしなくセンチメンタルになると思われていたのです。確かに、考えもなくポルタメントを便って評判を落とすということも、実際ありました。しかし、いくらそういう悪趣味で通俗的な音楽づくりを下火にするためとはいえ音楽的表現にとって価値あるものすべてを葬り去ってしまった結果、何の香りも味わいもない無味乾燥な音楽づくりだけが残ってしまったのです。風署の湯だけ残して、中にいる赤ん坊を放り出してしまうようなものです。このょうに、ポルタメントを放棄したことは重大な過ちでした。これから、それがなぜか考えてみましょう。
ポルタメント
 ポルタメントという言葉は、ラテン語に由来するものです。"porto" は「運ぶ」という意味、"mens(mentis)" は心」という意味ですから、"portamento" は、文字通り心を運ぶ」という意味になります。音楽がきちんと伝わってきたとき、自分白身の心がそれに対応してどう動いているか、よく気をつけていれば、ポルタメントがつかわれたときに突然その動きが早まることに必ず気がつくはずです。それは、その昔楽の本質が、演奏者のイマジネーションを通して聴く人の心に到達したからこそ起こることで、その意味からも、このような昔楽的効呆を描写するのに最もふさわしい言葉はポルタメントだということになります。これカ沐当にこの言葉、ポルタメントの意味するところだとしたら、ポルタメントを便わずに演奏した場合、演奏者はその音楽の解釈をうまく伝えることができなくなり聴衆も音楽の本質を感じ取る喜びを著しく損なわれることになります。だからこそ、本当に魂のこもった音楽をつくるためにはどうしてもポルタメントが必要不可欠なのです。ポルタメントには6つのタイプがあります。まず第一のタイプは、私が、和声的ポルタメント harmonic portamento と呼んでいるものです。たとえぱ、歌手や弦楽器奏者リュート奏者、ギタリスト、あるいは鍵盤楽器奏者が、ある旋律をこれから弾こうとしているとします。その時、その旋律が始まる前に、協和音を下からすくいあげるような形で、音程をスライドさせながら弾くのが、このタイプのポルタメントです。鍵盤楽器の場合には、協和音を分散させながら弾くという方法をとったのでしょう。奇妙なことに、バッハは、無伴奏ヴァイオリンやチェロのための作品のなかに、上から下までとても同時には弾ききれないような和音を書き記していることがあるのですが、これも、まさしくこのタイプのポルタメントとして演奏するべきものと私は考えています。和音を分散させることは、自然に、和声的ポルタメントに行き着くのです。私の知るかぎり、この和声的ポルタメントをもっとも多用した歌手は、最後のカストラート、アレッサンドロ・モレスキ Alessandro Moreschi でした。2番目のタイプは、他のタイプのものより普通によく使われるもので、私はこれを身振りの、あるいは旋律のボルタメント gestural or melodic portamento と名付けました。これは、演奏者が、ほとんど放物曲線に近い形の身振りをして、いくつかの音をひとっのまとまりあるものにしょうとすることです。このような身振りや動きは、自然界に多々見うけられます。たとえば、ガチョウは、のびをするような動きをするとき、翼をバタバタと動かします。はばたきのひとつひとつの時間的問隔は、気持ちよくのびきるまでの間にだんだん短くなり、そのあと動きが止まるまでの問は、逆にだんだん長くなります。そして、そのはばたきの基点をつなぎあわせると放物曲線になるのです。演奏者がこのような形を作った時にだけこの身振りのポルタメントが生じます。他の形では、どんなにしてもこれほどうまく演奏者の意図を伝えることはできません。なぜなら、この夕イプの放物曲線というものは、見る側にとって最も認識しやすく、おぼえやすいものだからです。ほとんどの生物の作る形がこの種の曲線でできていることを考えてみると、人問の頭脳のなかにこの形(放物曲線)がすでに遣伝的に組み込まれているとするのがいちばん妥当な説明かもしれません。ほんの少しの間、自然を正確に観察すればわかることです。3番目のタイプは、私が好んでテンポのポルタメント temporal portamento と呼んでいるものです。テンポの、ということは、つまりタイミングに関係があるということで、このタイプのポルタメントを使いこなせるのは本当に一流の音楽家だけです。なにしろ、どの音がこれから鳴るか、実際にいつ鳴るか、聴衆が期待して待っている中で演奏するわけですから。そんな中で、クライマックスの音を、ほんの少し、ためらうように遅らせるのがテンポのポルタメントです。そうすると、聴衆は、演奏者が本当にその音を鳴らす前に、これからその音が鳴るという暗示を受け入れ、心の中にふくらませる余裕ができるのです。コメディアンは、このタイプのポルタメントを使って、お客さんが期待している言葉を言うタイミングをずらし、思いもかけない時にそれを言って笑わせます。モレスキと同じく、ヴラディミル・ホロヴィツ Vladimir Horowitz も、このテンポのポルタメントを巧みにあやつりました。4番目のポルタメントは、ある調性の中で音がどのようにお互いに引きつけあうかという問題に関係してくるので、ややわかりにくいタイプです。このタイプのポルタメントは、方向性 tendency という概念をきちんと理解していないと演奏できません。あるひとつの音が他のどの音に向かう傾向が強いかという問題は、総合してみれば、どの音とどの音が結ぴ、付きやすいか、ということでもありますから、私はこのタイプのポルタメントを、結合のポルタメント connective portamento と呼んでいます。この夕イプのポルタメントの演奏上のテクニックとしてはレガートが用いられます。バッハはレガートの名手として評判でしたが、彼の用いたレガートとは、おそらくこのタイプのポルタメントだったと思われます。モレスキも同じくレガートによるポルタメントを用いました。レガートとは本来こういうものだったのです。こんにち、たいていの音楽家はアーティキュレーションの"間"をとらずに音をつなげて演奏し、それをレガートと呼びたがりますが、それは決して本当のレガートではありません。まちがったレガートでいくら弾いても、音は意味もなくいっしょに流れてゆくだけで、ただブツブツと言っているように、平板に聞こえてしまいます。5番目のタイプは、あるフレーズの一部分を特に強調するために、そこに注意をひきつけるような音や身振りを付け加える、あるいは上乗せする、というものです。これは、付加的ポルタメント loaded portamento と呼ぶしかないでしょう。たとえば歌手が、情感をこめるためにわざとつぶれた声やわれたような声を出したり、ヴァイオリン奏者が、ある音にひずみを出すために弦を押しつけて弾くというようなことがあります。鍵盤楽器の場合は、いくつか余分な音を付け加えて不協和音を作り、同じような効果をあげることができます。ジャズの演奏家はよくこのタイプのポルタメントを用います。このタイプのポルタメントを使う歌手で最もよく知られているのは、おそらく、マリリン・モンロー Marilyn Monroe でしょう。彼女は、歌っている聞とても魅力的な仕草で口を動かし、母音の音色をかすかに変えることで聴衆の注意を一身に集めました。6番目のタイプは、「サン・スーシのポルタメント sanssouci portamento 」(文字どおりには"気楽な"ポルタメント)と呼ぶのが一番よいかもしれません。これは、あるひとつの音をきっちり同時に弾くようにとの指示が楽譜に書かれてあるときに、わざと不規則に、あるいはつまずいているように演奏しで、無頓着を装うやりかたです。C. P. E. バッハは、これをテンポ・ルバートと呼び、どんなふうに音をゆらすかという具体例まで示しています。カール・ライネッケ CarlReinecke も、このタイプのポルタメントを大変効果的にとりいれていますが、彼のレコーディングについてはあとで詳しく述べることにしましょう。この「サン・スーシのポルタメント」は、クープランが言うところのノト・イネガル notes inegales と同じものではないかと私は考えます。ちなみに、ピエロは舞台の上をあっちへ行ったりこっちへ行ったり巧みによろめきながら歩きまわりますが、これも一種の "sanssouci portamento" と言えるでしょう。"ディクシーランド"風の音楽があれほど魅力的なのも、このタイプのポルタメントの動きによるものなのです。
 さて、ここまで6つのタイプのポルタメントについて述べてきましたが、これらはみな単なる手段にすぎません。演奏家がポルタメントを使って何をしようとしているかというと、それは、ばらばらの音をはっきりと意味あるフレーズにするためです。そのおかげで、聴く者は、何が大事で何がそうでないかをはっきりと理解できるようになるのです。問題は、ヴァイオリニストであれ鍵盤楽器奏者であれ、このようにいろいろなタイプのポルタメントを使って演奏した時に、どうしたらだらしなくセンチメンタルにならずにすむか、ということです。これは、簡単なことではありません。しかし、バッハやモーツァルト、ショパン、それにライネッケやホロヴィツにそれができたということは、本当にそういう演奏がしたいと願う者ならばだれでも可能性はあるということです。ここで、ボルタメントを便いこなすために大事なことをいくつかあげてみましょう。
 (1)まず、ポルタメントがどんな味わいのものか、自分自身が体得することです。その効果について自分自身が納得していなければ、それを便って演奏する時に説得力を持つことなどどうして望めるでしょうか。そして、ポルタメントを使わずに演奏された音楽を聴くに耐えないと思うようになったら、(2)あなたが自分で良いと思う演奏をモデルにして研究してください。そこで様々なタイプのポルタメントがどのように用いられているか研究して、同じような効果をあなたの使う楽器でどうやって生み出したらよいかを考えるのです。(ここで、どんな楽器を使うかが間題となります。というのは、現在作られている楽器でポルタメントをとりいれて演奏すると、ほとんどの場合、だらしない響きになってしまい、効果的とはいえないからなのです。しかしこれは、本質的に役に立たない楽器の方に問題があるのであって、ポルタメントに間題があるわけではありません)。おぼえておいていただきたいのは、たとえあまり性能の良くない楽器であっても、ポルタメントを使うことはできるということです。ただ、その際、ぎごちなくならないようにという意識をあまり前面に出さないよう気をつける必要があります。そして、ポルタメントがはっきりすれぱするほど音楽は聴き手にしっかりと伝わる、ということも忘れないでください。(3)さて、ぎごちなくならないようにするにはどの程度加減して演奏したらよいか知りたくなったら、身近にいる、なるべく素人に近い聴き手に、意見を聞いてごらんなさい。間違えても同じプロの音楽家にアドヴァイスを求めてはいけません。彼らは、あまりにも多くの偏見をもっているので、尋ねても役に立たないのです。ただし、もしあなたの知人でポルタメントを正しく用いた音楽だけを愛好するような音楽家がいるなら、その人はあなたにとって最高の批評家となるでしょう。(4)ばかなことをしていると思われないかと心配してはいけません。そんなことを気にしていたら本当に心を動かす音楽をどうやって作り出したらよいか学ぶことなどできません。(5)自分の演奏はこれでもう十分などと決して思わないょう心がけてください。これぐらいでちょうどよい、ということが言える人はほとんどいませんが、これではやりすぎだ、ということはおょそだれにでも言えるのです。だからといって、あまりにも週剰な表現になることを心配するようになると、演奏はかえって何の味わいもないつまらないものになってしまうでしょう。もう少し恩いきって踏みこんで表現できるのではないかということを常に念頭に置いておかないと、進歩しないものです。いずれにせよ、表現上の冒険をしてもよいのだと自分自身に言い間かせ、実際にそうすることによって、どこまでやってよいのかがわかり、また、聴衆が求めているものにどうやって自分の演奏スタイルを合わせていったらよいのか、学ぶことができるのです。このことは、クヴァンツJ. J. Quantz が、フルート演奏に関する著述の中で熱心に説いているところでもあります。
 あらゆるタイプのポルタメントを、こうやってちょうど程よく演奏にとりいれることができるようになってはじめて、その音楽の言わんとするところがきちんと聴く者に伝わり、受けとめてもらえるようになるのです。本当にじょうずにポルタメントを使った演奏というものは、強烈な表現力で聴く者の心を深くとらえ、つき動かさずにはおきません。このように、ポルタメントを使うということは、とりもなおさず、魂のこもった演奏に行き着くことになります。そして、それは、聴く者の立場から言っても魂のこもったものとなるのです。ここで、ボルタメントについて考える一助として、モデルになるょうなレコーディングをいくつか御紹介しましょう。先に少し触れましたが、ライネッケ(1824-1910)がモーツァルトとシューマンを録青したもの、この練り上げられた表現を凌ぐ演奏を私は未だかつて聴いたことがありません。彼は、本当にピアノを通して歌っているように聞こえます。彼が考え感じていることを、演奏者であるピアノがまるで代弁しているかのように聞こえるのですから、驚きです。しかもそれが、最初から最後まで魅力的で美しいのです。この録音は、『19th‐century Pianists on Welte Mignon 1905/06』というタイトルで Archlpon のCD(#ARC‐106)に収められています。このCDには、他のピアニストの演奏も収録されています。そのうちのひとり、サン=サーンスは、ライネッケと同様、技巧的なレトリックを随所に用いていますが、ライネッケほどの効果は生んでいません。レシェティツキの演奏は、他の演奏家に比べるといささか冗漫です。レトリックの達人といえば、マレーネ・ディートリッヒです。彼女の歌の多くは、けっして特別心踊るょうなものではないのですが、にもかかわらず、どこを聴いても完璧な説得力をもっています。これこそ彼女のうまさと言えるでしょう。キャバレーやヴォードヴィルの世界にもモデルとなる演奏家はいます。彼らの演奏スタイルは、あらゆるレトリックの原則を体現しています。それがどうして効果的なのかを注意深く仔細に調べてみれば、それをもとに、ライネッケのように、クラシック音楽の演奏スタイルをうちたてることもできるはずです。研究をすすめてゆくうちに私たちは、次の間題、つまり、聴く者がそれぞれの頭脳を通してどのように音楽を知覚していくか解明するという問題に行き着くでしょう。ディートリッヒの、あの説得力ある歌い方を、ライネッケがしたように、鍵盤楽器の演奏にどのように応用できるか、ということを考えるうえで、知覚の問題を迫及することは必要不可欠なのです。
知覚
 知覚の問題を考えるにあたって大事なのは、正しい事柄に焦点をあてることです。それは、何をおもしろいと感じ、つまらないと感じるかという精神状態のことです。そして、そういう精神状態が、その時々何をたまたま嗜好するかによって容易に変化するということも、大事な点です。たとえばあなたがバッハの曲を弾くのが大好きだったとします。そうすると、たとえあなたが、いわゆる「仕込まれた鳥」のように弾いていても、自分でそれをつまらないとは思わないかもしれないでしょう。ですから、自分自身がおもしろいと思っているかつまらないと思っているか、正確に見極めるためには、どうしても、自分の好みというものを除外して考える必要があります。そのためにはまず、そもそも自分の演奏はつまらない、という前提に立つことです。そうすれば、実際にはおそろしくつまらない演奏をしているのに、それを無理矢理おもしろいと自分に思い込ませることもできなくなります。このようにして、自分自身をごまかさないでいると、自分の気持ちをきちんとみつめることができるょうになり、ほんの一瞬、木当におもしろいと思えるような演奏をしたときに、すぐ気がつくようになります。そういう瞬間こそ、あなたが求めているものであり、演奏の中で、それがもっともっとひんぱんに起こることが理想なのです。あなた自身が音楽をどう受けとめているか正確に知ろうとするならば、どんな小さな、かすかな心の動きにもつねに注意を払っていなければなりません。それが習慣づけられれば、あなたの頭脳は、さらにもっとかすかな心の動きを察知することができるだけの知的レベルに到達するでしょう。この種の研究をすすめてゆくうえで最もむずかしいのは、おそらく、どうやって感情を知的に抑制するか、ということでしょう。研究が成功するか失敗するかは、ひとえにこの、感情の取り扱い方いかんにかかっています。なにしろ、C.P.E.バッハも警告しているように、感情という代物は、つねに、実際に経験したことには関係ない何か余分なお荷物を付け加えて、明快な知覚分析をさまたげるものだからです。ここで、皆さんに知っておいていただきたいのですが、鍵盤楽器を弾く人にとって、良いクラヴィコードほど雄弁に音楽を語ってくれるものはありません。この楽器は本当にかすかな音量しか出しませんが、逆にそれが最大の利点ともいえます。つまり、楽器を鳴らす行為だけで満足して演奏者の心の動きがかき消されてしまうということが絶対にないのです。自ら演奏にたずさわりながら、その心の動きを知ろうと思うなら、これは大事なポイントです。
楽器
 最後に間題になるのは、いつも「魂のこもった」演奏をする気にさせてくれるような楽器をさがすことですが、これは一番やっかいな問題です。どんな演奏家も、その人が使用する楽器に備わっている以上の表現力をもつことはできません。ある楽器が伝えうる限界をこえて、それ以上のものをそこから得ようとするのは、土台無理な話なのです。表現の可能性を限界まで追及しようという姿勢もなしに作られたような楽器は、せいぜい、仕込まれた鳥のように演奏するのが好きな人たちの役にしか立ちません。そのような楽器を知らずに使っていると、楽器そのものに限界があるせいで、演奏も表現上の制約をうけていることに気づくはずです。このように、楽器の性能が劣っていると、それを使って演奏する人まで、仕込まれた鳥のような思考回路に陥らざるをえないことになるでしょう。楽器が悪ければ悪いほど、魂のこもった演奏をしようという意欲はなくなりますし、逆に、楽器がよければ、仕込まれた鳥のように弾く気はなくなります。とはいうものの、大変すばらしい楽器を便っていながら、まだ仕込まれた鳥のようにしか聞こえない演奏をする人も中にはいます。したがって、粗雑な楽器づくりと、そういう楽器を使った演奏に対するー般的な認識の甘さが、今日仕込まれた鳥のような演奏スタイルが巷にはぴこるょうになった一因といえるでしょう。事態を打開するには何を変えたらよいのでしょうか。まず、より良質な楽器をさがし求めることです。あなたの今現在の演奏が、それで行き着くところまで行っているなどと、ゆめ思ってはいけません。より良い楽器をみつけたらすぐに、それまで使っていた質の劣る楽器は、だれか楽器をぜひとも必要としている学生にでも売るか、安くゆずるか、いっそただであげてしまいなさい。そして、それからもつねに、楽器の品質をより正しく見きわめることができるように心がけていてください。楽器の問題を前向きに検討しようとする時に役に立つと思われることを、次にいくつか挙げてみましょう。
(l) 全音域において、どの音あるいは弦をとっても、ーつ一つがはっきり違う個性を持っているのが良い楽器です。楽器の質が高ければ高いほど、それぞれの音の違いはきわだってくるものです。このことがなぜ大事なのかというと、私たちは、物事の類似性ではなく、相違を認識するようにできているからなのです。もう一つ大事なことは、一つ一つの音がおおよそ同程度に粒が立っていて、しかも響きあう、ということです。いくつかの音だけが他の音とくらべて自立ちすぎたり響きすぎたりすると、残りの音が弱々しくあいまいに聞こえてしまうからです。同じように粒が立っていて響きあいながらもそれぞれに違う個性を持つ、そんな音を出せる楽器であれば、一つ一つの音を個別に認知し、追っていくことも簡単になります。しかし、そのような理想的な楽器でさえ、単純素朴な作品を演奏する場合、一つ一つの音がはっきり心に刻みつけられるようにするには、ある一定のレベルの複合的な知覚が必要とされます。道に、音楽が複雑になると、かえって一つ一つの音がはっきりした個性をもって自己主張するようになるので、それを追ってゆくのはむしろ簡単になります。個々の声部やメロディーが、はっきりと識別できるようになり、おもしろみが出てくるのです。
(2) 音域によってもはっきりと異なる個性がなければいけません。高音域は、中音域とははっきり運う個性を持っているべきですし、また、バスとテナーとは全く異なって然るべきです。そうなっていれば、複雑な対位法の作品も簡単に聴きわけることができます。
(3) 本当に良い楽器は、それぞれの音の響きにはっきりしたふくらみがあるものです。ひとつの音が鳴らされた後、実際に音量がふえるわけではないのですが、いかにもそのように聞こえるのです。音楽用語では、メッサ・ディ・ヴォーチェ messa di voce とも呼ばれますが、これは、言語学的には、言葉を発する時の音声調節、と同じことを意味します。非常に昔楽的に間こえる話し方というのは、音声調節が大変巧みになされているのです。音声調節とは、音量とピッチをだんだんあげていって、それから徐々にさげていくということですが、これを用いることによって、おおかたの言葉によるコミュニケーションは成り立っています。しかも、人間の言葉にはもともと備わっている音声調節の働きというものがあって、多くの場合、私たちはそこからその言葉の意味を引き出してくるのです。同様に、一つ一つの音のふくらみというものは、音楽の意味を伝達する手助けとなるもので、これがないと、楽器は、ピッチを製造するためだけに作られた、ただの機械になってしまいます。
(4) 先に述べたクラヴィコードという楽器の場合ですが、これは、楽器がよければよいほど、調律の狂った状態で演奏するということはできなくなります。しかし、そういう良い楽器にかぎって、逆に、小さい音でそっと弾いたときに、音が割れたり、よく鳴らなかったり、あるいはカタカタ言ったりしやすいのです。これは、クラヴィコードという楽器の欠点であると思われていますが、それを克服するためには演奏者が正しい奏法を見つけざるを得ないという意味で、実際には、一つの強みともいえるでしょう。また、演奏者はどんな音に対しても、それを実際に鳴らす前に心の準備をして、ある明確な意図をもつことを要求されます。これは、ピアノやチェンバロ、あるいはオルガンしか弾かない他の鍵盤楽器奏者のように、無作為に自然に弾くのがふつうだとされる人たちと、クラヴィコード奏者が一線を画す大きな連いです。このような心構えをもつことは、魂のこもった音楽における大きな特色であり、それゆえに、クラヴィコードは即興演奏の技法を習得するのに理想的な楽器といえるでしょう。
(5) 最後に申し上げておきたいのは、最良の楽器こそが豊かな楽想のひらめきという喜びを与えてくれるということです。くり返しになりますが、最良のクラヴィコードは、他のいかなるすぐれた鍵盤楽器に比べても、全面的にぬきんでています。つまり、この楽器はひじょうに多様な音楽的素材を提供してくれるので、即興演奏に際してより豊かな表現をすることができるというわけです。音楽は「魂をこめて」演奏ざれねばならない、とするC.P.E.バッハの言葉を信奉する音楽家たちがとり得る遣は、ただ2つしかありません。ひとつは、あなた自身が音楽はこういうふうに演奏されるべきだと感じるままに演奏し、その結果としてあなたの演奏が聴衆とうまくコミュニケートできればよい、という弾き方です。私の観察では、こういったいき方をとる人たちは、とかく、自分たちが考えている音楽のあるべき姿のほうが、聴衆の感じることよりも重要だ、と考えることによって自分をごまかす傾向があります。さて、もうひとつの道、それこそまさに私がこのエッセイの中で言わんとしてきたところです。つまり私はコミュニケーションの芸術について学ぶ最小限3つの方法について述べてきたのです。まず最初に、適切なモデルをさがし、そこで効果のあるやり方を自身の演奏スタイルにとりいれること。それから、レトリックと知覚について研究します。これは、昔楽が頭の中でどんなプロ七スを経て認識されていくかを学ぶためであり、また、そうやって得た知識をどのように使って聴衆をより巧みにひきつけるかを学ぶためです。そして最後に、良い楽器といわれるものすべてに共通する基準をもとに、あなたが手に入れられる限り最良の楽器を獲得し、研究の助けとしてください。
@1996Keith Hill(1996.3.23日本クラヴィコード協会配布資料)