奥州平泉

〜文治5年 奥州征伐〜

 文治5(1189)年、初代藤原清衡以来四代続いた奥州藤原氏は、源頼朝によって滅ぼされた。清衡の父経清は前九年の役で源頼義に滅ぼされており、何やら源氏との因縁を感じさせる。重要な鍵を握るのは源義経であった。三代藤原秀衡は、自分を頼ってきた義経を保護した。源平の争乱の中、一方に組みする動きを見せることは好ましくはなかったが、何かの投資になるだろうという気持ちであったのではないだろうか。表立っての支援はできないため、義経が頼朝の元に駆けつける時も、兵力は授けていない。藤原氏にとっては、背後に平氏がいる限り、源氏が藤原氏を攻めることはできないため、三氏鼎立状態は非常に都合がよかった。しかし義経は平氏を滅ぼし、頼朝が全勢力を奥州攻めに投入できる状況にしてしまった。義経が鎌倉の重鎮として、奥州攻めを食い止めてくれるのであれば、秀衡の投資は生きたことになる。しかし、逆に頼朝と仲違いし、お尋ね者として再び奥州にやって来た。奥州を攻められる状況をつくっただけでなく、奥州攻めの名目までもつくってしまったのだ。秀衡が義経を保護したことは、完全に裏目に出た。唯一の救いは、義経が対鎌倉戦の切り札として使えることである。軍事司令官としての義経の能力は周知の事実である。義経がいる限り、頼朝は手出しできないと考えたのである。だが高齢の秀衡はすぐに死んでしまい、泰衡が四代目となった。


 泰衡は非戦派であった。義経を殺せば、奥州攻めの名目はなくなる。そうなれば頼朝も奥州を攻めることはできなくなる。結局頼朝は院宣を待たずに奥州に出兵し、後白河法皇も追認する形をとるが、これを見て泰衡を責めるのはどうだろう。当時の常識で考えるなら、泰衡の行動は決して愚かではないのではないだろうか。頼朝の方がすごすぎたと考えるべきではないだろうか。戦いを避けるためにその名目をなくすというのは、徳川慶喜の大政奉還に通じるものがあると考えるのは管理人だけだろうか。泰衡にしてみれば、父はトラブルメーカーを背負い込むだけ背負い込んで死んでしまい、そのハンディキャップを背負って頼朝というとてつもない大物を相手にしなければならないという、まさに「冗談じゃない」という状態だったであろう。

 奥州藤原氏を描いたNHK大河ドラマ「炎立つ」では、第一部で藤原経清、第二部で初代清衡、第三部で四代泰衡を主役にしていた。管理人はドラマを見てから数年後に原作を読んだのだが、「なぜこのままドラマにしなかったの?」というのが正直な感想だった。特にそれを感じるのが第三部だ。第一部は経清と源義家の友情があり、第二部ではその延長として清衡と義家の関係がある。そして第三部では、泰衡と義経の友情が投影され、この二人に経清と義家をダブらせるというのが伏線として描かれている。ドラマには、このような伏線がなかった。聞くところによると、このドラマは原作がドラマの製作に間に合わず、第二部の一部と第三部のほとんどは脚本家・中島丈博のオリジナルだったらしい。大河ドラマはまず原作があって、それからドラマ化を決定するとばかり思っていたので、これを知った時は驚いた。原作通りのドラマを見てみたいものだ。



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