関ヶ原

〜三成・家康 天下分け目の決戦〜

 石田三成が本陣を置いた笹尾山から、小早川秀秋が本陣を置いた松尾山を望みました。三成はどんな気持ちで松尾山を見ていたのでしょう。三成は大垣城から家康によって関ヶ原に誘き出されたというのが定説とされていましたが、三成は当初から関ヶ原での決戦を考えており、その重要拠点として松尾山を城塞化していたそうです。この松尾新城に入るにふさわしい西軍の武将といえば、やはり宇喜多秀家でしょうか。これにより、鉄壁の守りで家康との決戦に臨もうとした三成でしたが、意に反して小早川秀秋が松尾山に入ってしまったと聞いた時、どんな心境だったのでしょうか。


 松尾山、小早川秀秋陣屋跡です。秀秋は何を考えてここに陣を構えたのでしょう。以前NHKの「堂々日本史」では、「秀秋は戦いから逃避しようとここに陣取ったが、運命のいたずらでここが決戦場になってしまった。」としていましたが、本当にそうなのでしょうか。単なる逃避で、留守居役を追い出してまで入城するとも思えません。やはり積極的に参戦しようとして、この一等地に陣を構えたのではないでしょうか。どちらにつくかの選択は別にして。


 大谷刑部吉継の墓です。わずか二千の兵で一万五千の小早川勢に立ち向かい、壮絶な死を遂げました。三成との友情に散ったという話でした。最近読んだ説では、関ヶ原での決戦は吉継が企画したものであり、小早川の松尾山入りとその裏切りによって作戦が崩壊したことに対する自責の念からの行動だったのではないかということでした。結構鋭いのではないかと思いました。




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