妹
僕たちは決して恵まれているとはいえなかった。
でも決して不幸ではなかった。
それどころか、僕は他の人間たちに対して僅かな優越感すら持っていられた。
何故かと自問するまでもなく、それは妹の存在のおかげであった。
あの日が来るまではずっと、母と僕と妹の三人暮らしだった。
といっても実質のところ、僕と妹の二人暮らしといってもよかった。
母は一体どんな仕事をしているのか、僕は詳しくは知らない。
さして興味もなかった。
しょっちゅう見たこともない男を家に連れて来ることから判断するに、おそらくはろくでもない仕事なのだろう。
妙なもめごとを起こして我々に迷惑がかかることさえなければいい。
ただ、あれだけは勘弁してくれ、よそでやってくれと思うが。
僕が物心ついてからは、ほとんど家事炊事は僕がおこなった。
そして、妹の世話も僕が見た。
妹が物心ついてからは、家事炊事は完全に僕と妹だけの仕事だった。
被扶養者の身だし文句もいえずに我慢していたが、きっとどんな立場であったとしても、僕は何もいえなかったのだろうなと思う。
それは妹も同様だったに違いない。
母は、家を留守にすることがとても多かった。
帰って来る時は、たいていが男連れだった。
つまり、家をそういう場所として利用するためだけに帰って来るのだ。
だから、僕らのまだ起きている時間に母が帰宅すると、僕は妹の手を引っ張って二階の部屋へと連れていった。
そして、頭から布団をかぶり、早く寝てしまうように命令した。
そう、この時だけは、僕の妹への願いは命令というかたちを取った。
妹はいつも素直に僕のいうことを聞いてくれた。
しばらくして妹の寝息を聞き、ようやくほっと胸をなでおろす。
僕も寝るために自室に入る。
ベッドに横になるものの、僕自身はなかなか眠ることが出来なかった。
瞼を閉じると、いま一階で行われているだろう行為を想像してしまい、気が高ぶってますます眠れなくなってしまう。
自分では想像力のないほうだと思っているけど、このときばかりは自分でも驚いてしまう。
僕の貧弱な脳細胞が、頭蓋骨の内側にあんなに細密な光景を映し出すことが出来るなんて。
唾棄すべき映像に、思わず高揚してしまっていること、自己嫌悪に陥る。
あんなものは、妹には絶対に見せたくない。
男と女の夜の行為など、妹には知ってほしくない。
気がおさまらず、どうしても眠れない時には、自慰をした。
何の欲望を想像することもない、ただ射精のみを目的とした自慰だ。
男の体と精神の仕組みは簡単だ。
射精さえしてしまえば、心に平静さが戻ってくる。
幾ばくかの虚しさをひき連れて。
なかなか気のおさまらない日は、何度でも自分の分身を苛めた。
平静と虚無の中、再び布団の中に戻る。
脳から最低な獣を追い出した僕には、また妹を思っても良い資格が生まれる。
そして僕は夢の世界へ入る。
父は妹がまだ母の胎内にいる頃に、この世を去った。
だから妹は父のことをまったく知らない。
写真もほとんど残っていない状態だ。
あまり写真撮影自体してなかったというのもあるのだろうが、母が残しておくことに一切執着していなかったからだ。
結婚式の写真を入れても十枚あるかどうか。
父が死んだのはもう十年程も前であり、その頃は僕もまだ小学生だった。
だから僕にもあまり定かな記憶がない。
顔はよく覚えているのだが、どうにも全体的な印象があやふやだ。
すくなくとも有害な存在ではなかったとは思うのだが、しかし、あんな女性と結婚したということ自体、罪悪というものだ。
しかも監督義務を放棄し、とっとと死んでしまったのだからなおさらのことだ。
ただ、あの二人がそれぞれ別の異性と結ばれていた場合、僕と妹の魂は、果たしてどちらの子供として生まれてきたのだろう。
もしかしたらバラバラになっていたかも知れない。
それは、生まれてこなかった以上に辛いことだ。
父が家族に残していったものは、素晴らしい想い出などではなく、単に住まいとお金だった。
だけど思えばこれ以上ない最高の贈り物だ。
もしも家も金もろくにない状態だったら、今頃は古びた木造アパートで、僕と妹のいる隣の部屋、破れたふすまの向こうで母が得体の知れない男と獣のような声をあげていたかも知れないのだ。
それならば、いっそ捨てられて孤児にでもなったほうがよほどましだ。
妹は、父は自分を愛して死んでいったのだろうか、とたまに思うことがあるらしい。
ときおりぼそりともらすことがある。
もちろん愛していたに違いない、と僕は即答する。
もう知るすべのないことだが、でもそれを聞いて妹は安心する。
妹にうそをついたことに僕の胸は痛む。
人間の母親の愛情すら信じられない僕に、ましてや父親の愛情などというものがあるとは、到底信じられないのだ。
子供を生むことにより親となった人間には当然責任というものが発生する。
猿のような顔にへきえきし、たとえ義務としてこなしているだけだとしても、何年も一緒に暮らしてゆく間に何かしらの情というものは生まれるだろう。
しかし、胎内に芽生えた命というのは、ようするに精子と卵子の結合体だ。
愛も何もそこには介在しない。
単なるDNAに基づいた細胞の分裂だ。
そういう結果を生みだす行為も、単なるお互いの欲望処理をお互いの肉体で行った結果だ。
神聖なものでもなんでもない。
どんな子供が生まれてくるのか、どんな子供に育つのか、そんなことを楽しみに時を過ごし、死んで行く際も自分の命よりもそのことが気にかかる、というような、そんな父親がこの世に一人でもいるということが、僕には決して信じることが出来なかった。
だから、妹を深く愛しているのはこの世に僕だけなのだ。
何度か妹とサイクリングをしたことがある。
もう何年も前の話だ。
今は僕は全く自転車に乗っていない。
少年用の自転車がだんだんと恥ずかしくなってきてあまり乗らなくなり、そのうちに完全に錆びてしまい、捨ててしまったのだ。
買い直そうにも、乗る必要性があまりなくなっていた。
サイクリングの目的地は大体が隣町にある川の土手だった。
妹はあまり体が大きくないのだが、この頃からすでに同じ年代の少女よりも一回り小柄だった。
自転車も幼児用の小さいもので、僕のうしろについてくるのがやっとだった。
僕はいつもゆっくりと走らせたが、ときどき意地悪をして先に自転車を走らせてしまうことがあった。
振り返ると泣き叫びながら必死の形相でペダルをこいでいる妹の姿、それがとてもがかわいかった。
流れていく景色。
二人で共有する風景。
記憶。
いつも同じでいい。
別段、変化がなくてもいい。
変化があってもいい。
所詮は景色だ。
この気持ち、感覚が、永遠不変のものであればいい。
土手には桜の木が遙か向こうまでびっしりと植えられている。
桜が満開となる時期にいくと、それは幻想的な光景が待っているらしい。
しかし残念ながら僕たちは一度も見たことがない。
春に行ってみても、いつも時期を少し逃してしまい、桜の花はすっかり散ったあとだ。
裸になった木ではなく、川の水に無数の舞落ちた花びらが形作る模様を眺めながら、全て散ったことを実感するのだ。
そして、模様が少しずつ形を変化していく有り様を、いつまでも眺めているのだ。
悠々たる風景にも思えるが、実際よく見ると川の水はかなり汚れてドブ川のようだ。
飲むわけではないし、嫌な匂いがするわけでもないので、花見宴会の場所としては問題はないのだろうが詩人が眺めを楽しむのには向かない。
まだこれほどまでに花びらが流れているということは、ずっと上流に行けばまだ桜の花が咲き残っているのだろう。
でも、そこまでサイクリングする気も体力もない。
僕らはこの散った桜の木で十分満足なのだ。
ここで別に何をするわけでもない。
二人で一緒に来ること、ただそれだけが目的だ。
妹は小学校高学年になってクラブ活動をはじめてから友達が増えていったが、まだこの頃はまったく仲良しがいなかった。
だからよく、僕に付き合ってくれた。
太陽を浴びながら、用意してきたお弁当を食べる。
川の流れを見ている。
ただ、それだけだ。
確かあれは、とても空の晴れ渡った気持ちのいい日だった。
土手に寝転がりながら妹と話をした。
将来の夢を聞いた。
特にないと即答された。
先生になるとか、ピアニストになるとか、スポーツ選手、いやせめて素敵なお嫁さんになるとか、そういうのすらもないのか。
ちょっと考えこんで、妹は口を開いた。
いま生きていることが夢のようなものだから。
と、小さいくせになんとも考えさせられる、意味深なことを答えていた。
妹はやたらと心肺能力というものが発達している。
小学校高学年になってからスポーツをはじめたこともあるだろう。
しかし小学校のクラブ活動だし、そこまで肉体を鍛えるようなこともないはずだ。
妹の心肺能力はもっとずっと以前から高かった。
短距離ならば、あまりに体格差があるため、僕のほうがずっと速い。
だが、ちょっと距離が長いと、スタートして一分もしないうちに僕は抜かされてしまう。
どんどん引き離されていく。
僕はへばって、足が動かなくなってしまう。
そして僕はすぐに周回遅れにされてしまう。
まだ僕が一周もしていない間に、妹は一周してしまう。
僕がその時点で息も切れ切れだというのに、妹は二周してもまだ元気だ。
比較対照がなにもないので単純に判断が出来ないが、妹が優れているのではなく、単に僕の体力がないだけじゃないか。
そう思い、悲しくなる時がある。
確かに妹は魅力的で、僕などまったく及ぶものではない。
妹は自ら光り輝くが、僕はその光を受けているだけ。
いや、その輝きを受けていても、漆黒の中にその姿を輝かせているという実感がない。
だがそれでも兄妹だ。
少しは類似点があっても良いではないか。
能力的な部分でもいい。
顔の一部が似ているというのでもいい。
話し方に共通した癖があるというのでもいい。
類似点を感じられればこそ、照らされ輝くことが出来るというのに。
僕は果たして、照らされているというのにそれに気付かない愚鈍者なのか。
それとも光をすべて自己の闇に吸収してしまうがために輝けないのか。
それは分からない。
ただともかく、時折、このような悲しい気持ちが訪れる。
それはだいたいが、こうした些細な出来事がきっかけだった。
本当は妹を照らす存在になりたかったのに。
自分が惨めだった。
妹によってささやかな幸福を得れば得るだけ僕は惨めになった。
妹は犬を飼っていた。
長毛のだらりと垂れ下がった、マルチーズ犬だ。
マルチーズというと何だか高級そうなイメージがある。
血統書とか、貴婦人とか、そういった言葉を連想してしまう。
でも、段ボール箱に捨てられていたくらいだから、雑種かも知れない。
ある雨の日、公園でズブ濡れになっているところを妹が発見したのだ。
毛もすべて濡れ、体に張り付いており、やけに小さく見えた。
妹はまだ幼かったし、妹は飼っていたではなく、家で飼っていたというのが言葉の使い方として正解かも知れない。
でも、拾ってきたのは妹で、実際に世話をしているのも妹だった。
食事も、実質的には妹の分から出ている。
公園で拾って家に帰ってきた時、たまたま、めったに家にいない母がいた。
母の第一声は反対表明だった。
間髪入れずに妹がもう一度頼むと、今度はあっさり承諾した。
別に我が娘の強い決意を確かめるためとか、立派な理由があったわけでもないだろう。
犬を飼うことへの理解があった訳でもないだろう。
どうせ自分はほとんど家にいないし、とただ単にどうでもいいだけなのだろう。
母が唯一出してきたのは、餌代はいっさい別途家計からは出さないという条件だけだった。
妹は承諾した。
そうして、我が家に、一応のペットと呼べるところの存在が棲息するようになった。
妹は自分のご飯の残りを、米のご飯で薄めて与えていた。
僕も協力して、おかずを一品分けてあげた。
何日か過ぎ、要領が飲み込めてくると、最初から犬に分け与えることを考えた塩分の少ない食事を作るようになった。
どうせ実際に食品の買い出しに行って実際に食事を作るのは僕たちなのだから、特に文句を言われることもなく好きに出来た。
小型犬だし、甲高いく、うるさく吠えるだろう、あまりにうるさいと母も癇癪を起こして追い出してしまうかも知れない。
妹はそういう心配をしていたが、鳴き声が問題になることはなかった。
ほとんど吠えなかったからだ。
まったく奇妙な話だけど、妹は犬に名前をつけなかった。
ワンちゃんとか、イヌ君、マルチーズのマルちゃん、などなど好きな時に好きなように呼んでいた。
どうでもいいけれども、一番多かったのがイヌ君であったように思う。
どんな呼ばれ方をされても、犬は鳴き声を出さずに黙って笑い、尻尾を激しく左右に振った。
犬が笑うわけないけども、あの、舌を出して息を切らせている顔が、僕には笑っているように見えて仕方がない。
犬は、僕にとってはちっとも可愛いとは思えない動物だけど、走りよる犬を抱き上げ、抱きしめる妹の笑顔は本当に可愛かった。
僕が犬の散歩につれていってやろうとしても、犬は頑に拒み、決してついてこない。
鎖を無理に引っ張ろうとしても、生意気に激しく抵抗する。
だから散歩はいつも妹の仕事だった。
僕はたまに妹についていくだけだ。
もう完全に妹の犬だった。
僕だっておかずをあげたりしているというのに。
だから犬は嫌いだ。
動物は人の気持ちを分かるなどというが、所詮は畜生だ。
分かるはずがない。
妹の得意料理は目玉焼きだった。
ベーコンも何も使わない、単なる目玉焼きだ。
二つ目玉などという小賢しいこと一切抜きの、シンプルな目玉焼きだ。
たまに焦がしてしまうときもあったけど、それでも十分に美味しかったし、上手に出来た時のは本当に何と表現をすればいいのか分からないほどだ。
自分の舌で料理の良し悪しを判断することも出来ない自称グルメが、高い金を払ったことに満足して、庶民に虚しいアピールをしているが、ああいうのこそ可愛そうな連中だ。
一度妹の目玉焼きを食べてみるといい。
今までに費やした時間と金が馬鹿馬鹿しくなるから。
といっても、他の誰にも教えるつもりも食べさせるつもりもなかったけど。
これは、僕だけが独占する権利を持っているのだ。
黄身の半熟具合が実に絶妙だった。
ほんの軽めに塩胡椒か、目玉にプスリと小さな穴を開けて醤油を一滴垂らす、この二つが、妹の目玉焼きで幸せな気分を味わうための食べ方なのだ。
でも、どちらかというと僕が料理を作ることの方が多かった。
炒め物や煮物などは僕もよく焦がして失敗させてしまったりしてしまうけど、妹は美味しい美味しいといいながら笑顔で平らげてくれた。
いま思えば舌の感覚がちょっと鈍いだけだったのか、それとも気持ちがとっても優しかったからかなのか、どうにも悩むところだ。
ただし、どちらであったとしても、僕には嬉しかっただろう。
だから、僕は嬉しかったのだ。
妹は、小学校のクラブではソフトボール部に入っていた。
ポジションはピッチャーだ。
ピッチャーのレギュラーは二人いて、そのうちの一人だ。
それほど人数の多くないクラブとはいえ、これはたいしたものだ。
野球にしてもそうだけど、小さな頃というのは、選手の経験度にあまり差がなくて、故にピッチャーも他のポジションとさほど遜色ない程度には打つものだ。
ところが妹はバッティングに関してはからきし駄目だった。
バットにそこそこミートはするのだが、何故だかフライばっかり。
理由は分かっている。
バットがボールの下を叩いてしまうからだ。
単純にいえば、ただそれだけのことだ。
だからボールは高く上がってしまう。
分かっているから、克服するために練習もする。
相手ピッチャーの研究もする。
他の人の打ち方を必死に勉強する。
などと妹なりに真剣に頑張っているというのに、運命の神は気まぐれすら起こさない。
相変わらずフライばっかり打ち上げてしまう。
悪魔に呪われているんじゃないだろうか。
何かソフトボールの神様に嫌われることをやらかして、完全に見放されているんじゃないだろうか。
僕はそんな努力する妹の姿を黙って応援していた。
ソフトボールそのものについては、一切の口をはさまなかった。
黙っているべきだと思ったからであるし、それに僕のようなスポーツの才能というものが、細胞内のどこにも片鱗すらない人間があれこれいってもしょうがない。
バッティングの才能というか、運の悪さというか、本当にどうしようもなく酷いものがあったけれど、そのかわりに、ピッチャーとしての能力は非常に優れたものがあった。
あんなに大きなソフトボールの球だというのに、投げる球の大半は相手の振るバットにかすりもせずにキャッチャーミットに収まってしまう。
打たれても、球がずっしりと重く、ほとんど長打にならないのだ。
単純な腕力は、チームの中では一番貧弱らしいのだが、顧問の先生の話によると投げる球に変わった回転がかかって、重く打たれにくいボールになるらしい。
他校との試合は土曜日や日曜日。
大抵は、市の小さな野球場を利用する。
河原にある野球用のスペースを利用したりもする。
試合をしているところを何度か見にいった。
三振の山を築くところは圧巻という以外に咄嗟に言葉を思いつかないほどのものだった。
ズバンと音をたててボールがミットに収まる。
素人が見ても見事な空振り三振だ。
そしてゲームセット。
二対〇。
妹のいるチームの勝利。
少得点の、無失点勝利。
それはまさに、ピッチャーの勝利といって過言でない。
妹はたまらず、思わず両腕でガッツポーズ。
走りよる仲間に取り囲まれて、笑顔で喜びを分かち合う。
そして試合を見に来ていた僕に気づいて、右腕を前に突き出し勝利のブイサイン。
試合故の高揚感というものもあるのだろうが、家で見せる以上に躍動的な妹の姿についつい圧倒されて、おとなしい性格の僕は小さくブイサインを返すのがやっとだった。
しかし、エースの悲哀というものか、ごく稀にホームランを打たれてしまった時の落胆ぶりといったらない。
家に戻ってもいつまでもいじけている妹を僕は優しく慰めてやる。
クラスで貰う父兄へのお知らせが記された配布物、妹はいつもリビングのテーブルの上に置いた。
母はこういう学校からのお知らせというものをまったく読まない。
妹もそれは十分に分かっている。
分かってはいるけども、毎回のように、読まれない父兄への配布物を置き続けた。
いつも翌々日くらいに、自分で回収して処分する。
たまに、母の連れ込んだ男が帰ったあと、鼻紙替わりに使われて丸められ、なおかつ床に投げ捨てられていたこともあった。
結果を考えれば妹の行為は虚しいばかりである。
生徒の義務として行っている部分もあるだろう。
だが。
僕は思う。
妹は気付いて欲しかったのではないか。
自分という存在に。
親の愛というものを、少しでも感じたかったのではないか。
ある日、授業参観のお知らせが置かれていたとき、僕の心臓と、脳味噌の僅かばかりの無意識のある部分がキューッと締め付けられる音を聞いた。
普段以上に妹の気持ちが伝わってきたからだ。
来て欲しいのだ。
自分のために、学校に来て欲しいのだ。
いや。
来てくれなくてもいい。
せめて、この配布物に対し、何か反応して欲しい。
仕事が忙しいというのならば、それでもいいのだ、
ごめん、の一言があればいい。
忙しいから、のいいわけをしてくれればいい。
だけど結局、このときも母はいっさい読むことすらなかったのである。
鼻紙に使われなかったことが一番喜ぶべきことだったというのは、あまに虚しく、悲しい。
キューッと音がする。
僕の狭い脳味噌の意識下においても、無意識の領分においても、ますます妹が愛おしくなり、ますます母そして人間、いや生物そのものが嫌いになっていく。
生活レベルが豊かとはいえなかったし、親の愛にも恵まれていなかったけれども、僕らは幸せだった。
もっと正確に、そしてあえて複雑にいうならば、僕は決して幸せとはいえず、妹も決して幸せではない、ただ妹は幸せを感じよう、生きてきたことを楽しもうと頑張っている、明日を信じようと努力している、そんな妹を見ていられることが、少なくとも僕には幸せだったし、僕が幸せなのならば妹もきっと幸せなのだろう。
そんなある日、妹にとってワンちゃんであり、イヌ君である犬が死んだ。
あの犬だ。
あの犬に違いない。
少なくとも、僕は確かにそう思った。
駅前のまっすぐな道路だった。
散歩の時以外は外の出さない座敷犬のはずなのに、何故か外で車に轢かれて死んでいたのだ。
死体は、片目が飛び出しており、舌が地面に付きそうなほどに限界まで伸びきっていた。
こんなところにいるわけがない、見間違いだろう、とも考えた。
しかし、僕の直感は、あれは妹の犬に間違いないと告げていた。
それほどまでに確信があるのならば、弔うために死体を連れて帰るべきだろう。
だが僕はそうしなかった。
確信を持っていたくせに、もし違っていたらどうするんだ、勘違いだったらどうするんだ、関係ない死体なんか家に連れ込んだり出来るか、という常識をひっぱり出して盾にし、直感と戦わせたのである。
何ヶ月かを一緒に暮らした犬である。
僕だって少なからず妹の犬に情を感じていたはずなのに、その時僕は無性にこの死体が汚らわしくてたまらなかったのだ。
僕は、置いていかないでくれ、連れていってくれ、と哀願する死体に背をむけ帰路を急いだ。
家に辿り着いた。
家の周囲を回ってみた。
ドアも窓も、鍵は完全に閉まっていたし、割れている窓ガラスもなかった。
けれども、家に入ると、やはり犬はいなかった。
一応、部屋という部屋をくまなく探してみたけど、どこにもいる様子はなかった。
しばらくすると、妹が学校から帰ってきた。
クラブ活動のある日は、僕より帰りが遅いのだ。
犬が家からいなくなったことを話した。
僕たちのどちらかが、外に出る時に一緒に出てしまったのかも知れない。
妹も家の中を確認し、いないことを確かめると、二人で外に出て、犬を探して近所を歩き回ることになった。
必死にイヌ君、マルちゃんと叫ぶ妹。
なんとも虚しい努力をしているのだ。
もう犬は帰ってこないのだから。
妹の涙目に、僕の心は少しだけ興奮を覚えた。
あの犬の死体が脳裏に浮かぶ。
やはり間違いなかったのだ。
あれは、妹の犬だったのだ。
妹には黙っていようと思った。
僕はもうあんなモノは見たくもなかったから。
しかし、僕は自問する。
僕は先ほど、妹の犬だという証拠がないから、弔うために連れて帰ることもしなかったのだ、と自分の心に言い訳をしていたはずだ。
ところが、これは一体どうしたことだ。
犬は家にいなかった。
つまり、直感が告げていた通りだったのだ。
なのに何故、妹に話さないのか。
そもそも、あんな姿になっておいて、家に帰ろう、妹の目の前に現れようなどというのが間違っているのだ。僕はそんな自分でも訳の分からない自答をした。
結局、そんな自分への言い訳どころか、秘密にしておこうと考えていたこと自体が全くの無駄に終わる。
僕は内心を見透かされないよう、冷静な態度を取っていたつもりだった。
でもさすがは兄妹というべきか、彼女は僕の表情や口ぶりから、何かを感じ取ったのだろう。
詰め寄られた。
二言、三言とかわそうと努力はしたが、逃げられそうもないとあっさり観念して、駅前の通りで見たままを全て白状してしまった。
妹の表情がさっと曇り、同時に走り出していた。
姿が見えなくなった後も、僕はしばらく呆然と立っていた。
告げてよかったのだ。
いつまでも行方不明となった犬を心配している妹を見ているのは辛いから。
だから、死んだことがはっきり分かって良かったのだ。
と、僕は自分の心に嘘を吐いた。
しばらくして、妹が泣きながら帰って来た。
あれを、抱いていた。
あれは、妹の両腕の中で、飛び出した片目をぶらぶらと揺らし、舌をだらしなく伸ばし、残った片方の目で僕の顔をじっと見ていた。
白目のない、真っ黒なまん丸い目だったのに、今や白濁としていた。
もう永遠にどこを見ることもないはずの目。
なのに、僕は、しっかりとその視線を感じていた。
僕らはその日のうちに、ワンちゃんであり、イヌ君であった動物の死骸を、庭に穴を掘って埋めた。
妹は決して僕を責めたりはしなかった。
ほんの少しもそんな視線を僕に向けたりはしなかった。
逆だった。
どうやら、妹は逆に捉えていたのだ。
自分のために気を遣って、この件を隠そうとしていたのだろう、ごまかそうとしたのだろう。
全ては兄の優しさからなのだ。
妹はそう思っていたのだ。
有り難うと礼をいわれた衝撃に僕の心は耐えきれなかった。
脳味噌の中の、意識下の領域の一部が悲鳴をあげて崩れた。
僕は一人、部屋で泣いた。
違うのだ。
妹よ。
僕は単に、あれを二度と見たくなかったのだ。
あんな世にもおぞましいモノを家に近づけたくなかったのだ。
腐臭と、なにかもっと魂のレベルに近い部分での何とも名状し難い薄気味悪い感覚に妹の魂が浸食されていくのが嫌でたまらなかったのだ。
僕のそんな気持ちを知っていたならば妹は僕をどう思っただろうか。
それは分からないが、事実としては、妹が勘違いをして僕の行為を良いほうに捉えたために、僕の妹への立場はかえって気まずいものとなった。
照らしてあげたいのに、引け目ばかりを感じる結果となってしまう。
とはいうものの、その一件で妹のことがさらに愛おしく思え、かけがえのない存在となった。
この天使のような純粋さは誰にも汚されてはならないものだ。
そう、妹は疑いようもないほどに本当に魂が純粋だった。
時は魂の傷を埋めて行く。
それはあくまで見た目を隠すだけで、決してその傷が癒えることはない。
だけど人は、癒えたと自己を欺瞞することで、明日を生きていこうとする。
僕らもやっと普通の生活へと戻り、月日が過ぎていく。
ある中、妹が天国の犬に手紙を出すといい出した。
なんでも友達のペットが先日死に、火葬にする際に手紙をいれたらしく、それに聞いて、自分も書いてみたくなったのだそうだ。
動物など死ねばすぐに記憶から去っていくものだと思っていたが、妹の心の中には去っていったものも、現在いるものと存在価値が等価のようだ。
僕も死んだらなら、妹の脳細胞の意識、無意識、どちらかには残るだろうか。
手紙を書いて、それを燃やすつもりらしい。
相手はなんといっても、天国(だか地獄だか)の犬だ。まさか本当に読んでくれるとは思っていないだろう。
自分の気持ちを整理させているのだろう。
死骸を埋めた近くにまた穴でもほるつもりなのだろう。
僕はふと思いつき、ひとつの提案をした。
半分冗談ではあったが、提案により、妹の無垢な儀式に参加したのだ。
参加により、妹の魂と僕の魂の一部が触れ合うことになるのだ。
それはぞくぞくする、至高の喜びというものだった。
僕の提案とは、手紙を火にくべるのではなく、郵便ポストに投函するというものだ。
彼らは僕らと違って配達のプロだ、きっと天国にだって届けてくれる。
戻ってきちゃうに決まってるのに、と妹は笑いながらいう。
天国の犬に読ませようと考えているくせに、現実的な台詞をいうものだ。
自分の住所なんか書かなければいいんだ、そうすればもう、必死になって宛先を探して届けてくれるさ。
明日、一緒に出しに行こう。
しかし翌日、妹が体調を壊した。
微熱がある程度だが、僕は寝かしつけ、手紙は僕一人で出しに行くことにした。
僕はふとある考えが閃き、ペンを取った。
郵便屋さんが必死で届けてくれなくなってしまうが、こっそりと、自宅の住所を書いたのだ。
手紙という形をとったこの純粋な魂の放射する光を、ずっと感じていたかったから。
ならば、投函せずに持っていればいいだけの話だが、それも駄目だ、妹の純粋な気持ちを否定する事になる。
郵便屋さんが妹のために少しでも努力をすることで、手紙のリアリティは向上し、より妹の魂の価値を高めるのだ。
妹は一日学校を休んだだけで、翌日にはすっかり熱も下がった。
元気に朝ご飯を食べる姿に一安心した僕は、いつもの通りに妹より一足先に家を出た。
先に出たものの、ずっと、電柱の影に隠れて妹が出かけるのを待った。
妹が走って出かけていくのを見届けると、僕は家に戻り、入り込んだ。
郵便屋が妹の手紙を配達してくるのを待つためだ。
宛先不明で戻ってくるのを待ったのだ。
妹が心を込めて書いた手紙を。
だけど手紙は戻ってこなかった。
何日たっても、戻ってこなかった。
ある日、僕と妹は一階で話をしていた。
何気ない、でも楽しい会話のはずだった。
でも僕は何か楽しめない気分だった。
何といっていいのか分からない。
なんとも緊迫した空気を感じていた。
何かの起こることを肌が感じていたのだろうか。
いや、まさにその通りだったのだ。
どこかでガラスの砕ける音がした。
妹は驚いて、素っ頓狂な顔で飛び上がった。
二階だ。
僕は何だか嫌な予感がした。
防犯上、という意味でなく、何かもっと脳味噌の無意識下における原初的な不快感。
ねっとりとした手で魂の一番触れられたくないところを撫でられているようだった。
僕らは手を握って進んでいく。
おそるおそる、ゆっくりと階段を上った。
僕の部屋のドアを開けたが、とくにガラスの割れている様子もなかった。
僕と妹は同時に溜め息をついた。
続いて、妹の部屋のドアをゆっくりと開けた。
すべて開けるまでもなかった。
あの、独特の匂いがした。
風が吹いてきた。
それが嗅覚を刺激する粒子を運んでくるのだ。
完全にドアを開けた。
窓ガラスが大きく割れて穴が開いていた。
ベッドの上には、犬がいた。
小型犬だ。
毛のふさふさした、マルチーズ犬のようだ。
それは、子犬というわけではないのに、まるで今生まれてきたばかりのように、力なくふるえていた。
犬の匂い。
そう、単なる犬の匂いのはずなのに、なんだか腐肉の匂いをかいでいるような気になり、思わず僕は顔をしかめていた。
つとめて冷静に、いろいろなことを考えようとしていたのに、次第に襲ってくる体のふるえが、僕の魂をがんじがらめに縛っていった。
ずっと、その一点だけを凝視させられた。
そう。
あれに、そっくりなのだ。
こいつは、あれにそっくりなのだ。
今ここにいてはいけないもの。
ここにいる資格のないもの。
何故、いるのだ。
何故、戻ってきたのだ。
ここはお前などのいられる世界ではない。
僕の心臓が激しく脈打つ。
妹よ。
いまこの場では、お前の純粋さを示すことは、天の理に背いた邪悪な行為に他ならないことを知れ。
妹よ。
泣き、恐怖し、こいつを叩き出せ。
妹よ。
だが、妹はベッドに歩みより、純粋さを示したのだ。
犬を抱きしめた。
そしてこういったのだ。
イヌ君、天国から帰って来てくれたんだね。
この小さな畜生が!!
呪われろ!!!
犬は妹に抱かれながら、僕のほうを見ている。
口から少し舌を出している。
それはなんだか笑っているようだった。
それからまた、犬を飼うことになった。
こまかな仕草が、驚くほど、あれとそっくりだった。
以前に事故で死んだ犬。
あれは姿形が似ているだけで、全く別の犬だったのではないか。
こっちの犬こそが本物で、迷子になっていたのを自力で帰還したのではないか。
そういった常識を持ち出して自分を納得させようとしたが、無理だった。
何故二階の窓ガラスをぶち破ってきたのかという単純な疑問が残るし、何よりも僕は僕の直感を信じていた。
いや、直感が優れているわけではない。
漂ってくる空気があまりに強烈すぎるのである。
その空気を察したのだろうか、悪い人間ほど長生きするというが、母がほとんど帰ってこなくなった。
たまに帰ってきても、服を着替えるためだけであったり、判子を取りにくるだけであったり、数十分といることなく、また出ていってしまう。
僕は気にならないどころか、むしろ嬉しかった。
男と泊まられても迷惑だからだ。
最低限の金だけ、銀行に振り込んでおいてくれればいい。
妹は本当に犬が戻ってきたと思っているのかは分からない。
ただやはり、動物がいるということが慰めになっているようで、また快活さを取り戻してきていた。
よく勉強し、運動し、よく笑った。
妹の魂が眩しく輝けば輝くほど、僕の魂はどんよりと濁っていった。
僕は妹という太陽に照らされて輝く月だと思っていた。
ところが今は、どんなに照らされても輝くことなく、あくまでどんよりと暗く沈み続けていた。
まだ妹が幼かった頃、遊びでお互いの顔を紙に描いてみたことがある。
僕はそこそこ美術の成績も良かったので、それなりに似ていると自負できる絵が描けた。
妹はまだ幼いため、ちっとも上手に描けない。
色鉛筆の持ち方からして間違っている。
握り拳の中につかんでいるのだから。
上手に描けるわけがない。
それでいい。
指摘して、ちょっとからかってあげるつもりだった。
上手に描くコツを教えてあげるつもりだった。
次に描いた絵がどんなに下手でも、褒めてあげるつもりだった。
だが僕はその絵をみて、理由もいわず、即座に書き直しをお願いした。
もっとそっくりに描けるんじゃないか、と。
次に出来上がった絵をみて、また書き直すよう要求した。
次に出来上がった絵をみて、それを妹の顔に突きつけ、ちゃんと描くように命令した。
これがお兄ちゃんか。
この顔がお兄ちゃんなのか。
違うだろう。
これは僕ではない。
もっとそっくりに描けるはずだ。
頑張ればもっと上手に描けるはずだ。
さあ、もう一度。
もう一度、描くんだ。
お兄ちゃんの顔を、もう一度。
しっかりと。
出鱈目を描いちゃ駄目だ。
別に下手でもいいんだ。
ただ、嘘はだめだ。
嘘をつくことはゆるさない。
だから、書き直すんだ。
早く。
さあ。
早く。
早く。
早く。
僕に迫られ、妹は泣き出してしまった。
絵を描こうといった時から、僕はずっと笑っていたはずだ。
モデルとなって、妹に顔を見られている間、ずっと笑っていたはずだ。
まったく絶やすことなく、笑顔のみを向けていたはずだ。
だから、笑い顔以外を描けるはずがないのだ。
仮に、何かの脳味噌の中の無意識がはたらいたとしよう。
それでも、僕は普段から、妹と向きあっている時、ほとんど、笑みを絶やさないようにしているはずだ。
だから、何がどうであろうと、笑い顔以外が紙に描かれるはずがないのだ。
それなのに、なんだ、この絵は。
僕の顔を描け。
誰だ。
どんよりとした、この、明日への希望も何もないすさんだ顔は。
まったくの空想画ならば、まだいい。
しかし、ポーズや服が、いま僕がとっていたものであり、いま僕が着ているものであった。
だから、この絵は、いまの僕を描いたものだ。
でも僕はこんな顔をしていない。
これは他の人間の顔だ。
だから、妹は嘘をついているのだ。
しかし決して糾弾し、処罰することは出来ない。
だから、穏やかに書き直しを要求していたのだ。
そうしたら、妹は泣き出してしまったのだ。
慌てたのは僕のほうだ。
お絵かき会は中止になった。
夜、母が帰ってきた時に、どんな話の流れだったかは忘れたが、妹の描いた絵を見せることになった。
そっくりね、とぼそりと感想を述べた。
その瞬間、僕の全身の血液が逆流した。
なんだかわけの分からない言葉を叫びながら自分の部屋に駆け込むと、妹の描いた絵を全て破り捨ててしまった。
家では、いつも犬が妹のあとをついて回っていた。
犬は体が小さいくせに、階段を上り下りし、一階と二階とを行き来する。
床の上は不気味なほど機敏に移動するくせに、階段だとやはり時間がかかるようだ。
だがそのとろとろしたうごきが、なんだか犬のゾンビーのようで腹立たしい。
犬にしてみれば、ならどうしろといったところだろう。
どうにもならない。
お前がゾンビーなのが悪いんだ。
うっとうしい存在だ。
早く無に帰れ。
あんな犬のどこがいいのか僕には分からない。
分かることで魂の共有化という喜びを味わえるはずなのに、どうしても駄目だった。
僕はこの犬が嫌いなのだ。
同じ家にいるというだけで、妹がどんどん汚れていくような気がした。
はやく離れなければならない。
こんなのと一緒にいては駄目だ。
魂が浸食されていく。
妹が妹でなくなってしまう。
このままだと、きっと恐ろしいことになるぞ。
そう強く思うものの、結局は、ただ黙って妹をみていることしか僕には出来なかった。
そして、僕の予感は、非常に残酷な形で現実のものとなったのである。
ある夏の日。
何年前だったかは、よく覚えていない。
涼しい日が続いていたが、その日は久々の猛暑だった。
思考しても、それがすべて湯気となって空気に溶けていきそうなほどだ。
子供は元気である。
妹が近所の子に誘われて、虫取りに出かけた。
同い年の男の子だ。
思い出した、確か妹が小学校に入ったばかりの年だ。
男の子の顔と同時に、いつのことだったかの記憶まで戻ってしまうのだから、記憶の連鎖というものは面白いものだ。
さて、僕は二人のことが気になり、こっそりとあとをつけた。
網とカゴを手に、黙々と歩いているだけなのだが、僕にはなんだか、必要以上に楽しげに思えてならなかった。
場所は近所の森。
子供の足でも徒歩二十分かからない。
蝶や蛾やスズメバチ、カブト虫、カナブン、などを見かけるなんの変哲もない森だ。
僕は小さい頃この森でよく大きなゴキブリを見た。
二人は普通に虫取りに興じていただけだ。
しかし、僕の中で、名のない獣が頭をもたげた。
そいつの鼻先が、僕の脳味噌の無意識の領分を少しだけ刺激した。
おい。
お前。
何をやっているんだ。
僕の妹と、こんなところで、二人きりで、何をやっているんだ。
そのとき僕はいったいどんな表情であったことだろう。
ふと気がつくと、僕は地面に転がっていた石を拾っていた。
気がつくと、僕は石を持った手を振り上げていた。
冷静に狙いを定めている自分に驚いた。
驚きながらも、手は容赦なく振り下ろされた。
あとは石次第だ。
完全に僕の管理下からは離れた。
石に当たる気がなければ、当たらないだろう。
悲鳴が聞こえた。
数秒の沈黙の後、男の子の激しい泣き声。
僕は妹を守る騎士なのだ。
勝手に近づくな。
男の子を心配する妹。
男の子は狂ったように泣き叫び、ついには妹もつられて泣き出してしまった。
こいつ。
妹を泣かしやがって。
僕は飛び出して、男の子を殴ってやりたい衝動にかられた。
しかし、それは出来なかった。
心配でこっそりとここまでついてきたことがばれてしまったら、妹に余計な心配をかけてしまう。
相手の親にどう思われようと知ったことではないけれども、妹を悲しませることは出来ない。
だから、出るわけにはいかなかった。
二人はなかなか泣きやまない。
早く泣きやんでくれ。
黙ってくれ。
頼む。
僕は両手で頭をかかえた。
僕の脳味噌の意識の支配領域にも無意識の支配領域にも、すでに獣はおらず、ただその転々としている足跡が、僕の脳組織の神経細胞にいいようのない不快極まりない電流を送り続けていた。
ある晩、妹が帰って来なかった。
ソフトボールの練習もなかったはずだ。
買い物に行ったきり、ついに戻ってこなかったのだ。
実に不本意だが、あの犬と一晩を過ごすこととなった。
そして僕は、翌日に捜索届けを出した。
警察というのは意外としっかりしているものだと思わされた。
妹の死骸は、その日のうちに発見されたのである。
近所の児童公園。
最近はほとんど遊ぶ子供を見ない。
錆びたブランコの向こうの、奥の小さな茂み。
妹はそこで、無惨にも服を引きちぎられて陵辱された姿で発見された。
直接の死因は細い紐での絞殺だった。
何故、僕の可愛い妹が、こんな目に遭わなければならないのか。
僕は運命を、何の役にも立たない神を呪った。
警官には必ず犯人を見つけて下さい、と強くお願いをした。
だけど、犯人はけっして捕まらないだろう、何故だかそんな気がした。
エプロン姿で得意な目玉焼きを作る妹。
持久走大会の二等賞状を自慢げに見せる妹。
流行のメロドラマの感想を熱く語る妹。
ソフトボールの勝利に仲間と喜び合う妹。
もう、二度と見ることは出来ない。
妹はもう永遠に太陽を見ることはないのだ。
妹はもう永遠に喋ることはないのだ。
妹はもう永遠に僕の声を聞くことはないのだ。
何故、妹が。
どうして僕の妹だけが。
そう考えて答えの出るはずもなかった。
いつまでも頭の中を虚しく回るだけだ。
妹の葬儀には、親族、友達、教員、たくさんの参列者がいた。
友達はみんな涙を流して悲しんでいる。
当然だろう。
無垢な天使の純粋さ故の魅力は防御不可能な脳の無意識という聖域に語りかける。
同性であれ、小学生であれ、魅了されていくのは当然だ。
感化されないのは僕の母のような、どうしようもない人間だけだ。
僕は妹に友達が増えていくのが少し悲しかった。
僕に友達はまったくいない。
妹にも友達はいないと思っていたのに、スポーツをはじめてから大勢の友達が出来るようになって、少し悲しかった。
だから、友達には悪いし自分自身の心にも反吐が出るのだが、みんなから妹を奪いとったようで少し嬉しかったのだ。
妹の葬儀の喪主は母だった。
僕は全てを母に任せ、口もほとんど聞かなかった。
少しくらいは親の役目を果たせ。
母は、ぐうたらのくせに、意外にてきぱきと事を進めた。
まるで、初めての男に接近をはかる時のごときまめまめしさだ。
母の表情にはまったく悲しみの色はうかがえなかった。
少し荷が降りた、と喜んでいるのだろう。
一人へった、と喜んでいるのだろう。
僕が死んだら、もっと喜ぶのだろう。
これで自由になれると、喜ぶのだろう。
完全に荷が降りたと、喜ぶのだろう。
そもそもいつあなたが荷を背負ったのか。
思うところあらば答えて欲しい。
母よ、あなたはどうして現在も堂々と恥じることもなく生きているのか。
あなたや、僕のような、死んでも誰も悲しまないゴミ捨て場のクズのような人間が今なおこうして生きており、妹のような純真な優しい娘が死ななければならないのは何故だ。
どうして妹は死んだ。
妹を失った僕は完全に抜け殻になった。
体は若く元気で肌にも張りがあっただろう。
しかし心は完全にミイラのようにひからびていた。
僕の魂は脳内にある意識下の海と無意識下の海を、ゆらゆらとたゆたう。
心は出口をもとめることもなく、あてもなく、ただ虚しく存在しているのみだった。
それからは僕の隣にはいつも、あの生き物がいた。
生意気に、鼻をならしながら僕にすり寄ってくる。
お前は本当は、こんなところにいられる身分ではないんだ。
分かっているのか。
あまりにうっとうしいので、餌をあげると、こいつは喜んでそれを食べた。
本当は地下で腐乱が進み、おおかたバクテリアによって分解されてなければならない存在のくせに、生意気にまるで飼い犬であるかのように餌を食べている。
食べ終わるとまた僕のもとへ来た。
もしかしたら、いま地面を掘り返したら、そこには犬の死骸などはないのではないか。
そんなことを考えたりもしたが、スコップで掘り返してみようなどという気にはなれなかった。
どうでもよかった。
僕の脳味噌の意識と無意識、どちらの領域も埋めつくしていたのはただひたすらの虚無だったから。
僕はほとんどの日を家に閉じこもって過ごすようになった。
僕と、犬と。
母は家の場所を忘れたのか、どこかで男と会っているところを別の男に刺されでもしたのか、まったく帰宅しないどころか連絡すらなかった。
家族が一人死んだというのに、自分が悲しまないだけならいざしらず、残った子もほったらかしとは恐れ入った。
大切な人間に死なれた者同士の故か、ひたすらにおぞましいおぞましいと思っていただけのこの小汚い犬に、少しだけ親近感を覚えていた。
この、妹の手紙がこの世に引き戻した犬に。
そうだ。
僕はふと思いついた。
これは良い考えだ。
僕の心は激しく高鳴った。
妹に手紙を書いて出してみよう。
あの時、妹が犬に宛てた手紙のように。
僕は、すり寄ってくる畜生の頭を思い切りなでまわした。
封筒と便箋は部屋にあった。
切手だけないので出す際に買おう。
手紙には妹だけが知っている事実や、その時その時の僕の気持ちを正直に書いた。
あまり恥ずかしくて、いまここでとても述べられないような思いも書いた。
許してほしいことも数々と書いた。
僕もまた、自分の住所を書いて出した。
別に戻ってきてもこなくてもいい。
妹が天国の犬に宛てて手紙を書いていた時、一体全体どういうつもりで筆を取っているのか、いくつかの想像をしてみるだけで、まったく分からなかった。
それは当然だった。
何故ならば僕も、今回の妹への手紙、どういうつもりで書こうと思ったのか、僕自身まったく分からなかったのだから。
久しぶりに家を出るにあたり、どうでもいいことだが久しぶりに鏡を見てみた。
鏡の中にいる若い男は、髪はみっともなく伸び、頬はげっそりとこけていた。
一人で家を出ようと思ったが、ドアを開けた時に犬が飛び出してしまった。
もうこの家には妹はいないのだ。
だから、どこかに行ってしまいたければ、行ってしまうがいい、相棒。
初めて鎖もせず、しかも僕とだけで外に出たというのに、逃げるどころか、ふらふら匂いををかいで回ることすらしなかった。
ただひたすら、僕のあとをついてきた。
あの短い足を、細かに激しく動かしながら。
脚の数こそ少ないが、まるでムカデのように思えた。
恐ろしく長い胴体のムカデが、ぞわぞわと、僕の体に巻き付いてきていた。
なんだ。
この顔は。
この造形。
下手くそが適当に粘土をこねて、なにかをごてごてくっつけて、どろどろ溶かして、腐敗させたもの。
小さな犬などというのはえてしてそういうものだと思うが、この犬はあまりに酷い。
こんな異形の物体が尻尾を振りながら近寄ってくるのだ。
おぞましいことこのうえない。
僕の脳味噌の意識の支配領域と無意識の支配領域とに、四本足の汚い土足でずけずけと入り込んでくる。
いつも舌を出しているのが、笑っているように見えてしかたない。
長毛が人の髪の毛のようで、見ていてしゃくにさわる。
バリカンで三歩にかってやりたくなるが、そんなことのために触るのも汚らわしい。
同じような立場に少しだけ親近感を覚えたとはいえ、やはりこいつは嫌いだ。
僕は脳味噌からこの犬をつとめて追い出そうとし、手紙のことに集中した。
近くの売店で切手を買い、外にあるポストに投函した。
ささやかな使命をまっとうした充実感があった。
帰りのついでに銀行に寄ってみた。
口座には一昨日の日付で金が振り込まれていた。
どうやら母は、まだ死んではいないらしい。
親の義務を完全放棄したわけではないらしい。
見上げると防犯カメラの捉えた映像がモノクロのモニターに映っていた。
案外と僕しか映っていないのではとも思ったが、しっかり犬の姿も映っていた。
犬はぴったり僕のあとをついてくる。
気持ち悪いくらいに。
止まるとこいつも止まる、歩くとこいつも歩き出す。
顔は無表情のくせに、尻尾だけやたら嬉しそうに左右に細かく振っている。
冷蔵庫の中に卵があった。
賞味期限を遙かに過ぎてしまっている。
目玉焼き作りに挑戦してみた。
油の量が多すぎ、失敗した。
それを捨ててしまうと、もう一つの卵をとった。
今度は焦がしてしまった。
失敗。
捨てた。
今度は卵の割り方をしくじって黄身がぐちゃぐちゃで、目玉でもなんでもないものになってしまった。
今度は焦がしはしなかったものの、全体的に形状がいびつで、単に卵を焼いただけというものだった。
などとやっている間に、卵が切れてしまった。
一口も口に入れてみることなく、全部捨ててしまった。
まったく妹に近づくことができなかった。
妹の魂と重なり合うことができなかった。
激しい虚無感に襲われた僕はフライパンを洗いもせず、自室に行き、寝てしまった。
まだ妹が生きていた頃のことだ。
前年の模様替えのどさくさで入り込んだのだろうか。
一階の押入から、妹が美術の授業で描いたと思われる絵が出てきた。
クラスメイトの絵だ。
よく描けている。
クラスの仲良しを描いたのだろうか。
妹の性格が分かる、なんとも微笑ましい絵だ。
彼女らは、妹に対しこういう表情を見せるのだ。
天使のように、誰しもを魅了するのだ。
僕はなんだか嬉しくなった。
だがその至福の時間は、なんとなく裏側を見てしまったことで終わりを遂げた。
タイトルから、一番大切なものを描くことがテーマであったことを知る。
僕が一番大切ではないのか。
人生でなにが大切だ。
こいつらか。
違うだろう。
僕のはずだ。
僕でなければならないはずだ。
僕たちはお互いに一番大切だったはずだ。
破り捨てた。
僕はその絵を破りすてた。
こまかくなってもまだ、破片を拾っては千切っていた。
僕は必要とされなくなる恐怖にただおびえていた。
今、妹の魂はどこにいるのだろう。
狭いところにいやしないか。
暗いところにいやしないか。
冷たいところにいやしないか。
光はあたっているか。
寂しくはないか。
一人きりか。
なにを見ているのか。
なにを考えているのか。
誰を思っているのか。
僕が知っている、白い、白い魂。
白く、それなのにどこまでも透き通っている魂。
透き通って、どこまでも照らすほどに光り輝く魂。
一点の傷もない水晶の球。
清い。
悲しいまでに無垢。
折れてしまった背中の翼。
それすら魂を究極的に輝かせる。
神域にまで昇華させる。
魂の無限の記憶領域。
意識の触手。
意識の支配外領域でも構わない。
果たしてそこに僕はいるか。
それは夢であることは分かっている。
だがリアルな触感のともなう夢だった。
妹が苦しみに顔を歪めている。
手袋をはめた手が、妹の首に食い込んでぎりぎりと締め上げている。
この手の主が、夢のなかではなんと僕なのだ。
助けたい。
そんな気持ちとは関係なく、手はどんどん食い込んでいく。
僕はなんという夢を見てしまっているのか。
早くさめてくれ。
しかし夢は終わらない。
妹はもがき、そして僕をにらみつけ、必死に脱出しようとしている。
顔はうつっていないが、夢の中の犯人は、妹の心の中に、勝手に恍惚とした感情を想像していた。
妹の顔と、犯人の手が映っているだけだが、僕には犯人の全身の触感があった。
その触感は恐ろしい事実を告げていた。
恐ろしい。
やめろ。
やめてくれ。
夢の中の自分である犯人に、夢を見ているほうの自分が懇願し、叫んでいる。
下半身の動きが止まらない。
顔は見えないがきっと犯人は恍惚としているに違いないのだ。
さめろ。
さめろ。
さめろ。
事が終わり、冷静になった犯人は妹の肉体が汚されたことに気付く。
そのことに悲しみ、咆哮した。
しかし汚れたのは肉体だけだ。
ならば脱ぎ捨ててしまえばいい。
魂はあいかわらず燦然と光り輝いているのだから。
夢の中の僕である犯人は紐を取り出し妹の首に巻き付けると、ためらいもなく、己の筋力を最大限に使い手にしたものを左右に引いた。
やめてくれ。
たのむ。
やめてくれ。
目覚めろ。
夢から覚めたのは全てが終わってからだった。
全身汗びっしょりだ。
呼吸も乱れ、肩で大きく息をしている。
ようやく夢から覚めても、まだ現実の悪夢が待っていた。
夢精してしまっていたのだ。
僕は夢の中で犯人となり、妹を苦しめていた。
そんな光景に嫌悪を覚えながらも、脳と神経細胞は反応し、快感に精液をほとばしらせてしまったのである。
恥ずかしさ、怒り、虚無、なんともいえない様々な感情が許容量の少ない脳味噌に痛いほどにどっとなだれ込んでくる。
耐えきれず、僕は泣いた。
唐突に、なにか得体の知れない一種のオカルト的恐怖に襲われた僕は、また久しぶりに外へ出た。
足は駅前の書店へと向かっていた。
犬も当然のようについてきた。
僕を好きでもないくせに、本当に嫌なやつだ。
本屋の中に平気で入り込んでくるかと思いきや、予想に反し、おとなしく入り口の前で座っている。
ありがたい。
マニアックなものを扱うコーナーに行き、西洋の黒魔術、日本の陰陽道、かたっぱしから手に取ってみた。
なかなか探しているものが見つからず、気がつくともうここに入ってから二時間ほどが経過していた。
ガラスの向こうに見える外の景色も随分暗くなっていた。
諦めて、もうそろそろ帰ろうと思い、最後に手にした中国呪術の本。
それに、それは載っていた。
反魂法。
強く念じ、決まった手順で儀式を施すことにより、死者の魂を呼び戻す呪法。
これだ。
僕は思った。
きっと、妹の強い思いが一種の呪術的効果を起こしたのだ。
所定の手順もなにも知らないはずだが、もともとそんなものは自己暗示であり、思いの強さこそが唯一必須なのだ。
冷静に自己分析してみると、どうも僕は、あの汚らわしい犬が、死者の世界から戻ってきたのだと、思いたくてしかたがないようだ。
何故だかは分からない。
妹の、そんな奇跡を起こす純粋な力を感じたかったからかも知れない。
だが、その本の内容には補足があった。
西洋でいう黒魔術、一種の呪法ではあるが、強く、なおかつ純粋、誠実な思いで行わなければならない。
そうでなければ、魂は歪んでしまう。
永遠不変である魂を、黒く、邪悪に歪めてしまうのは罪業以外のなにものでもない。
未来永劫、もう色は戻らないのだから。
僕は思わず激昂し、本を破り捨てたくなった。
妹の気持ちが歪んでいるとケチをつけられた気がしたのだ。
妹は、強く、純粋な、誠実な気持ちで念じたのだ。
もし、あの生き物の魂が汚れているというのならば、それは最初からだ。
汚れた生き物が、妹の純粋さにつけ込んで、家に入り込んだのだ。
事故で死んだのも神の裁きというものだ。
ところがまた、甦り、ぬけぬけと姿をあらわしたのだ。
なんという邪悪な生き物だ。
対して妹の思いのなんと強く、清らかで慈悲深いことか。
妹のことを考えているうちに、次第と僕の心に平安がもどってきた。
手にした本を棚に戻し、外へ出る。
ちょうど、閉店時間ぎりぎりだった。
すっかり日が暮れて、真っ暗だ。
ドアの前に犬が座って待っていた。
僕は歩き出す。
犬は僕のあとをついてくる。
葬儀が済んでからというもの、一度も妹の部屋に入ったことはない。
妖気を感じるとか、誰かがいる気配がするとか、そういうものではない。
あくまで僕の心の問題なのだ。
いや、僕の気持ちは入りたいのに、体が拒絶してしまうのだ。
何故入れない。
僕の脳内の無意識は、いったいこの部屋になにを感じているのだ。
分からない。
分かるのは、入った瞬間に僕の中の僕と僕の中の妹が音をたてて崩れていくだろうということだった。
何があるのか。
果たして犬を甦らせた反魂法の呪具か。
それとも、秘密の日記か。
いや、そんなのでなくともよい。
ソフトボール。
ランドセル。
写真。
ぬいぐるみ。
カレンダー。
ドアを開け、網膜でロドプシンが作り出した神経情報を脳味噌が捉えた瞬間、僕は崩れてしまうだろう。
いままで訪問者といえば、母が連れてくる男くらいだった。
最近、その母自身が自分の家に寄りつかない。
だから、今回のこの家への来訪者は、母の連れてくる男を合わせても、実に久しぶりだった。
家に背広姿の中年二人が訪ねてきたのである。
刑事とのことだ。
僕のアリバイを確かめるため、根掘り葉掘りとたずねていった。
アリバイ、なんだか嫌な響きの言葉だ。
家族が亡くなってまだそれほどたってもいないのに、傷を掘り起こすような真似をしてしまって、とすまなさそうな顔をしていた。
僕は別段、気分を悪くすることもなかった。
しかし、彼等にあまり話すこともなかった。
誰とも会っておらず、ずっと一人で家にいたからだ。
だから僕には特にアリバイといえるアリバイもなかった。
あまり自己弁護するつもりもなかった。
面倒くさい。
犬にでも聞いてくれ。
こいつならばきっと僕の行動の全てを知っているだろう。
でも僕は別に冷めていたわけではない。
刑事が来たことに、ちょっとした感動すら覚えていたのである。
妹のために、妹を殺した犯人を捕まえるために、公務員がこういう肉体労働で地味に努力してくれているのだから。
いいぞ。
その調子だ。
僕の意識は刑事を応援した。
きっと無意識も同じ気持ちに違いない
頑張ってくれ。
頑張ってしっかり捜査をしてくれ。
必ず、犯人を捕まえてくれ。
犯人を裁いてくれ。
八つ裂きにしてやってくれ。
結局犯人が捕まることはないのではないかという根拠のない、でも強烈な予感を覚えながらも、僕は全身で警察の捜査を応援していた。
刑事が帰った後、ふと気づく。
足下に視線を落とす。
ソフトボールが落ちていた。
僕は屈み、それを拾った。
あまり日常的に慣れ、溶け込んでしまっていたからすっかり忘れていた。
これは玄関に飾っておいたものだ。
妹は恥ずかしいからと断ろうとしたが僕が強引に飾ってしまったのだ。
初めて先発として出場し、何失点かしながらも味方の打線に助けられ、勝利した。
その時の一球だ。
妹にとって一番嬉しい試合だっただろう。
だから、僕にとっても記念にしておきたかったのだ。
だから、妹のためを思うような口振りで、内心自分のためにボールを飾ったのだ。
それが何故落ちているのだろう。
地震でもないのに。
手にしたボールを両手でぎゅっと握った。
妹の必死な思いがたくさん詰まっている。
僕は目を閉じた。
感触を確かめた。
妹が見ていた光景が浮かんできた。
結局は想像という名のムービーなのだが、それがあまり感動的であるほど、なんだか無性に悲しくなってきて、泣いた。
最近、じっと見られている気がする。
空気がつねに、ぴいんと張りつめている。
犬に見られているのとは違う。
それは相変わらず続いていて、嫌で汚らしくてたまらないけども、こんな小さな畜生の一匹、と観念もしていた。
そうではない。
また別のもの、別の視線だ。
どこから、というわけではない。
この部屋、この家自体とでもいえばいいのだろうか。
なにか確固とした意思のようなものを感じる。
よくは分からない。
分からないが、それはなんだか強い力だった。
よくは分からない。
分からないが、果たして良いか悪いかということに関して僕の意見を述べてよいのならばきっぱりと即答出来る。
それは限りなくおぞましく、そして邪悪なものだった。
闇そのもの。
僕らが、自らの細胞の働き、神経の働きを意識していないのと同じくらいに、この闇もまた、自らに気付くことなく、ただ自然に闇として存在していた。
僕はじっと見られている。
どこから、ではない。
それは、ここにいるのだ。
空気がぴいんと張りつめる。
電球で照らしてもなお、なんともいいようのない、淀んだ暗闇が漂う。
それは濃密で、手でつつくとある一定の弾力を示した後、激しくはじけてしまうだろう。
そしてあらたな仲間を部屋中にふりそそぐ。
この単に闇とも呼びにくい、名状しがたきおぞましい空気の名はなんだろう。
それはじっと見ている。
黙って。
凍えるほどの静寂さで。
プリンのような感触の暗闇。
白色灯を二つともつけて、部屋の隅々まで灯りは届いているはずなのに。
闇。
数日が経ったが、妹へ宛てた手紙が宛先不在で戻ってくることはなかった。
この不思議な現象に、なんだか体がむずむずとした。
きっと天国の妹が手紙を受け取って読んでくれているのだ。
決してテレビはつけない。
郵便局不祥事のニュースでも見た日には、一気に現実的科学的可能性でしか考えられないという俗に、脳味噌の無意識までが影響を受けてしまうかも知れないから。
それは間違いなく僕の心をぼろぼろに砕き、打ちのめし、希望をすべて奪い去るだろう。
だから妹は、きっと天国で僕の手紙を読んでくれたのだ。
僕の気持ちをすべて分かってくれたことだろう。
応えてくれるかも知れない。
天国の階段を降り、今そばで尻尾を振っているこいつのように、僕のもとに戻ってきてくれるかも知れない。
そして、僕に微笑んでくれる。
僕のためだけに、いつまでも、いつまでも笑っている。
想像ではなく、なんだか現実としてそうなりそうな予感がしてきた。
僕の予感は結構的中するのだ。
妹が天から降りてくる日。
待ち遠しかった。
肉体は汚されてしまったけれど、そんなものは単なる肉の衣だ。
魂はそんなもの脱ぎ捨て、あらたな衣をまとい、僕のもとに降りてくるのだ。
そのとき、じっと見つめられている感覚に気付いた。
犬の目があった。
やはりこいつは同士なんかではない。
何もかも見透かしたような真っ黒な目で、無表情にじっと見ている。
馬鹿の妄想はもう終わったか。
目は、そう語りかけてきた。
お前がどんな奴か知らないとでも思っているのか、と語りかけてきた。
呑気そうに尻尾を振りながらも、悪鬼のような無表情で僕を見ている。
白目のまったくない、まん丸の目玉で。
その目は何を見ているのだ。
その目の奥には何がうつっているのだ。
笑い声が聞こえた。
高く響きわたる、いやらしい笑い声だ。
鼓膜を震わせることもなく頭蓋骨の内側をびりびりと振るわせて脳に直接響いてくるような、そんな吐き気のするような笑い声だった。
やめろ。
誰だ。
決まっている。
こいつだ。
この犬だ。
畜生め。
そんな思いと裏腹に、僕は微笑み、近寄った。
震える手を伸ばし、頭をなでようとした。
そして僕は、手を噛み付かれた。
威嚇も何もなく、いきなり、まったく変わらぬ表情のまま、噛み付いてきたのだ。
犬が僕の脳味噌の記憶領域におけるどの部分に存在しているか、もやもやとした認識はあったがそれが確信に変わった。
僕の認識の問題だけではない。
こいつ自身、あきらかに変わってきていた、おかしくなってきていた。
鏡を見ているように僕の心が反映しているというのではない。
僕が部屋にいると、廊下との境でいつまでもじっとしている。
僕からまったく視線を外さない。
僕を妹のもとに行かせないつもりか。
ケルベロスのように、死者のいる国への門を守っているつもりか。
小さい犬のくせに。
妹を僕のようなものから守っているつもりか。
いや。
違う。
こいつに好きな者などないのだ。
きっと、誰もが憎しみの対象なのだ。
誰もが嘲笑の材料なのだ
死者の国に行ってしまった者になどもう興味はないのだ。
今の興味はただ一つ、生きている人間、僕の精神を地獄に叩き落とすことだ。
そう、こいつはなにかのために僕を監視しているのではなく、僕を監視するために僕を監視しているのだ。
なんともいえないむかつきが襲ってきて、僕は激しくドアを閉めた。
犬の姿が見えなくなる。
一生そこで見張っていろ。
僕は部屋の反対側のドアを開けた。
部屋の間取りを考えると、そこに奴が存在することは物理上、絶対に出来なはずだ。
しかし、奴はそこにいた。
走った形跡もなにもない。
はじめからそこにいたのだ。
直感は矛盾を矛盾とも思わずそう告げていた。
もう一度同じことをして試してみるつもりはなかった。
こいつという存在が分かってきたから。
そう。
僕を逃がさないようにしているのだ。
だがそれは無駄な努力というものだった。
何故ならば犬がどうであろうと関係なく、別の理由で外に出られなくなっていたからだ。
気付かない間に、何か得体のしれない空気に、家がすっかり取り囲まれていたのだ。
この、肌をぞわりぞわりと襲うただならぬ感触に、僕の本能は恐怖した。
押入にあった様々な物の入った段ボール箱を引っぱり出した。
中身を取り出し、箱を潰して窓に張り付けた。
全ての部屋に行っていった。
途中、段ボールが足りなくなったが、押入の中の使わないカーテンを張った。
隙間はノートを破って埋めた。
でもやはり、妹の部屋にだけは入ることが出来なかった。
ノブをつかんだ瞬間に襲い来るびりびりとする衝撃に手を引いてしまう。
ノブをつかんだ瞬間に、部屋の中にあるはずのないもの、いるはずのないなにかを感じてしまい、ドアを開けようとする意思を脳味噌の無意識が全力で阻止しようとする。
僕のこの作業を、犬が無表情に見ている。
無駄なことを。
とあざ笑っているかのようにも思える。
畜生にどうこういわれなくても分かっている。
でもこうせずにいられなかった。
でないと、外から何かが入ってくる気がして。
なにが入ってくるのかは分からない。
どんな存在なのかもまったく分からない。
形があるものなのかどうか。
なんとも名状のしようのない、まだ見たこともないものが脳の無意識の領域を激しく揺さぶっていた。
細胞レベルで、肉体がこのムードに嫌悪感を覚えていた。
どうしようもない。
僕の心の中に雨が降る。
黒い雨だった。
容赦なく周囲の空気を汚染していく。
おそらくこの状況は急激に発生したものではなく、ゆっくりと進行していたのだろう。
きっと母はそれを感じたから、戻ってこなかったのかも知れない。
邪気の塊のようなものが気流となり、僕の頭蓋骨の内側に渦巻いていた。
外に行ってはいけない。
直感が告げていた。
その直感にあえて逆らう勇気はなかった。
犬がまたこっちを見ている。
邪悪な目で僕の顔を見ている。
天国から降りてきたのではない。
こいつは地の底からやってきたのだ。
僕の運命を笑うだめに。
そして妹を笑うために。
僕たちの人生を笑うために。
きっと妹の手紙が引き寄せたのだ。
思いがあまりに純粋であったために。
純粋な妹の気持ちをあざ笑うために、地獄の魂がこの汚らわしい形をとって、僕らの前に恥ずかしげもなく姿を現したのだ。
しかし。
だとしたら妹は。
手紙は。
妹は。
僕の手紙は。
妹に宛てた手紙は。
純粋な、正直な僕の気持ちは。
妹の魂は。
また、僕の脳裏に笑い声が反響していた。
犬が笑い声をあげていた。
そうだ、お前の予想している通りだ。
と、犬が笑っていた。
原子とか分子とかそういうのではない、どう表現していいのか分からないものだが、なんだか嫌なものをたっぷりと含んだ空気が僕の回りを取り囲んでいた。
時が経過するごとに、その得体の知れないものの密度はどんどん高まり、僕の体をねっとりと包み込んできていた。
運命の時の訪れを感じていた。
僕と犬はしばらくの間、見つめ合った。
空気が次第に膨張していく。
果たしてどの程度の時がたっただろうか。
僕は犬に近づいていった。
犬はくりくりとした黒目を僕に向けていた。
突然、犬が鳴いた。
まるで犬みたいな、甲高い声で。
僕はこの目の前の汚い物体を渾身の力を込めて蹴飛ばしていた。
空気をつんざく悲鳴。
物体は壁に激しくぶつかり、床に落ちた。
僕は今度はそれを上から踏みつけた。
全く躊躇はなかった。
体重を乗せ、思い切り踏みつけた。
頭を。
胴体を。
胸部を。
脚を。
尻尾を。
容赦なく脚を降りおろす。
なかなか癇癪玉を割れない子供が向きになっているように、思い切り足を上げ、激しく踏み下ろす。
こいつは笑っている。
血を流し、灰色とピンクの混じった脳漿を汚らしくまき散らしながらも笑っているのだ。
目玉が飛び出し、顎がまっぷたつに別れ、臓器が飛び出し、背骨がへし折れているのに、なおも僕を笑い続けている。
何がおかしいのだ。
僕らをからかって、何が楽しいんだ。
この地獄の悪鬼め。
戻れ。
戻れ。
戻れ。
戻れ。
お前のいるべき場所に戻れ。
ようやく笑い声が僕の耳から消えた時には、すでにそれは原型をまったくとどめていなかった。
完全に潰れていた。
辺り一面、血の海と化していた。
薄暗い空間を静寂が支配していた。
精神的に漆黒な中、深海のような静寂が支配していた。
僕の呼吸の音、心臓の音がこだまのように反響している。
僕は踵を返し、また部屋に戻った。
振り返り、廊下の汚い物を一瞥した。
ドアを閉めた。
踏み下ろした足がしびれている。
奴の骨が刺さったらしく、鈍い痛みがあった。
靴下は真っ赤だ。
僕自身の血も混じっているようだ。
僕は部屋の中央に立っていた。
静寂が強まるほど、別の何かがどんどん騒がしくなっていった。
それは、この場を包む空気であり、僕の心だった。
狂うほどに、静寂の中、狂うほどに、空気が荒れだした。
今やここは、悪魔が支配する家だった。
風が吹いて来た。
血の匂い。
魑魅魍魎が風に乗り、どんどん部屋の中に入って来る。
触感は電気信号となり神経を通過し、僕の脳味噌に入り、意識と無意識のそれぞれの支配領域に対して情報を送っていく。
ドアも窓も完全に閉まっているはずのこの部屋に、風が吹き、どんどん空気が流れ込んで来る。
空気が膨れ上がっていく。
空気の中に紛れ込んでいる中かがどんどん増えていく。
僕の精神はすでに壊れきっていた。
まといつく風、まといつく気持ち悪さ。
脳にどんどん入り込んでくる。
意識を支配する者と無意識を支配する者とが憎み合い戦う滅裂とした状態。
やめろ。
入ってくるな。
部屋に入ってくるな。
脳から出ていけ。
消えろ。
黙れ。
笑うな。
僕を笑うな。
出ていけ。
うるさい。
畜生。
畜生。
ついに心が耐えきれず、僕はかつてないほどに大きな声で絶叫した。
僕の魂の響きが宇宙を激しく振動させた。
ガラスが割れる音!
二階だ。
今、二階の部屋のガラスが割れる音が聞こえた。
一瞬にしてまた部屋と僕の脳味噌内の意識の支配する領域と無意識の支配する領域とに静寂が戻った。
だが、その静寂もまた、一瞬のことだった。
ぎい。
その音に、どくん、と心臓が爆発した。
額から汗が噴き出した。
時が来たのだ。
ついに。
この時が。
そうだ。
僕の手紙に応えて、やってきたのだ。
真上、天井がみしみしと軋んでいる。
間違いない。
あれが、現れたのだ。
あれが、二階の部屋を歩いているのだ。
妹の部屋を歩いているのだ。
僕はもうすぐ、あれを見ることになるのだろう。
僕の魂は一瞬にして抗う力を失い、僕の魂は一瞬にしてあの場所へと連れていかれるのだろう。
なんとなく、そんな予感があった。
僕の予感はあまり外れたことがない。
また別のきしむ音。
二階の、ドアを開ける音だ。
ずる。
ずる。
ずる。
と、地べたを這いずるような音。
続いて、階段がきしむ音。
ゆっくりと、ゆっくりと、それは階段を降りているのだ。
だんだんと、空気が濃くなってきた。
呼吸も苦しいほどに。
ゆっくりと、それは近づいてきている。
何のために。
勿論、僕に会うためにだ。
僕はこのあと、罰を受けるのだろう。
人間がかつて体験したことのないような。
自らが分子レベルですべて消失してしまったほうがずっとましと思えるような。
これから僕の精神は永遠の地獄へ堕ちる。
もう分かっている。
いや、分かっていたのだ。
こうなることは。
妹を陵辱し、笑いながら殺した、あの時から。
僕の脳裏にその時のシーンがよみがえる。
何度も何度も夢を見た、あの光景が。
静寂。
音がやんだ。
それは、辿り着いたのだ。
この部屋に。
今それは、このドアの向こうに立っているのだ。
僕の体は凍り付き、目をそむけることが出来なかった。
そしてドアが