JAが米軍人局のコールサインだった頃の話 工業界では、?

 読者各位、高層ビルでも家庭でも日本人の体位向上に大きく貢献しているのは、ガラス板で、佳く日が射すせいですが、では一体、日本で板ガラスが連続生産されるようになったのはいつ頃でしょうか、ご存じですか?其れまでは大径の鉄の円筒ドラムに溶融ガラスを流して、ガラスのたれ速度より一寸速い速度で回して、厚みを揃え、放れいして未だ粘りの十分にある頃合いを見計らって、ガラス円筒を裂き1枚ものの切り板にするため平面プレスしてさましたのだそうです。ですからBATCH操業で、或おうきさごとの,きりいた生産だったわけ。戦後の復興が遅れる中で、GHQが調べてみると、板ガラスが払底し、納期遅れが、PERTグラムのクリチカル行程になっていることが解り、アメリカ商工省の肝煎りで、半田浴上フローチング連続法が、技術導入されて工場生産が始まったのが1952年の早春でした。これ以来「ガラス越しの顔」などの形容詞は死語となったのです。

 技術の出しもとは、後に、シンクタンクの名で勇名を馳せた,PPGでその名の如く、ピッツバーグ・板ガラスでして、この技術を世界中に売りからかして、板ガラスからは足を洗いシンクタンクに向かいわずか5年後には、ソニー((東通工))に、銅張り積層板と、積層板に貼り付ける糊の他一般のせっちゃくざいも売りつけています。糊付き銅箔は、プライオ・マスター、接着剤は、ボンド・マスターと商標込みで売りつけて、お金をもいでいったんです。ペニスの上人と言われながら。それでもソニー((未だ東通工))でしたが、トランジスターラジオの商標は始めっからソニーで、5石の完成品と、ラジオ少年・青年用の組立キット4石キットが売り出されましたが、もうそのころは、JAの日本人局が1000局を越えていた頃でしたから・・・とばします。石炭と鉄は、切手も切れない(当時は、)補完関係にあり、戦中濫掘の炭坑は根本的にやり直さねば大事故のおそれがあり、そうかといってその支柱の鉄のほうはと言えば溶鉱炉を半分に仕切って、燃料節約の半炉操業、石炭は配給制度で、鉄にばかり回すわけには行かなかったのです。年々自動車用のプレス用鋼板やフカシボリ用の薄い板で、アメリカの言いなり価格で、買話されていたのでした、今は/も逆の立場で、おかしくなっていますが、言いなり価格でならお愛顧でしょうに。

$1---局と無線従事者とは別物、但しアマチュア無線局は二重人局格、然しこの為に局の操作に従事する無線従事者資格を持つモノを選任して局の免許申請に際して「無線従事者選任届」なる書類を必要とした。が、アマチュア無線局の申請は、アマチュア無線技士にしか許されず、現今の様に他の無線通信士資格者には許されなかった。

かく申す私も、工業規格が、戦前戦中の日本標準規格JESから何時JISになったのか覚えてはいません、会社に入った1954年には既にJISでした。戦争末期、JESは戦時規格として改変され、全ての合格判定の項が、1回以上の使用に耐えるものは合格、代用品でも材質が違おうが、使えるなら皆々合格品だったでした、こんなんに規格って要りますか?臨時規格で、丸の中に臨の字で、臨ジェスと言い粗悪品繰り返し使用に弱いものの代名詞として通用しました。 早く言えば、遅く言ってもですが、私の心体とも臨ジェスですから、もうガッタガタなのです。血液ガッタガタだけでなく、全部です。自動車工業では、乗用車は日産の、箱形ダットサン830ccとトヨタの”観音開き”4ドアのトヨペット。トラックでは、何てったって、五十鈴、日野。日産と日野は戦後、20年の技術の遅れを取り戻すためにそれぞれ、オースチンとヒルマンと技術提携、初めはノックダウン生産、下請け部品が様になってきて初めて国産オースチンや、国産ヒルマンを作った。契約終了するとどちらも消え、日産はダットサンに戻ったが、日野自動車は、コンテッサと言う空冷リヤ・エンジン後輪駆動のセダンを作った。一般庶民には、高嶺の花で、店方の運搬用も「つの」ハンドルのオート三輪が大半で、三菱水島のくろがね号、等が覇を競った。其処え、後の「軽」に繋がる、もう一回り小さい三輪、後のアマチュア無線技士、大村昆(佐々十郎との漫才コンビを解消)のコマーシャル、「見ジェット!」を有名にした、のが、小回りの利く、牛乳配達用などにブームした。東洋工業も戦後長く、小型三輪、四輪トラックで健闘した後「軽」のキャロルで乗用車に参入した。このころ、日産の系列の愛知機械が、飛行機工場だった頃の技術で、コニーと言う名の、2人乗りの「軽」を売り出している。

大阪では、角(つの)ハンドルの三輪や、見ジェッとの後部を客室みたいに改造し他3輪タクシーが流行しバタバ太タクシーはオート三輪のハンドルが、丸ハンドルに進化した後まで、大阪の町をバタバタ走り回った。関西人の見栄を捨て、実質を重んじる、心意気の現れだったろう。

昨年本格的に売れ始めこのところ売り上げ点数では、ダントツ一位のブーマーに、昔の子供用のスケーターを、大人用全金属製空気タイヤにした物がある。これすべらかして学校に行ったり、会社へ出勤したりするのが今流行らしい、60年は遅れてる。何がナウイ物か!昔子供の頃、町内中の子供が、仲良く順に並んで一人づつ、町内一周ずつ滑って廻ったモンダ。戦後直ぐ、我が母校の裏の松林にあった、照空燈陣地の武装解除と破壊に、米海兵隊の工作大隊が、上陸してきた。JeeP,中型jeep、大型幌かけトラックは理の当然、更にjeepは皆、単軸2輪のトレーラーを引っ張っていた。更にどっかで見かけたような、その子供の頃のようなスケーターを二周りほど大きく溶接パイプを曲げてハンドルを作り足を乗せる木の踏み板の筈の後部に丁度腰掛けるに都合いい高さ迄燃料タンクと小型エンジンを積み、後輪は明らかに飛行機の尾輪を流用しエンジンでチェーンドライブする、バタバタよりはブーーーン音の2輪の乗り物、が付いてきた、後まで見ていたが、軍隊行動では、将校と伝令の乗り物で、オフ・デュウチーの買い物などでも許可を貰って乗り回していました。いかにも溶接 だらけ手作り見え見えの、工作艦製らしく無骨な物でしたが、二人乗りは平気、これ本邦初お目見えのスクーターでした。「ウワー、コンナ国と戦争してタンだ、かないっこネーや!」が一致した皆の感想。他にもこの嘆声の対象になった物は、洋モク入りのレイション、すなわち野戦糧食。至れり尽くせりの乾燥野菜から、チョコレートのでかいのや、ちゅういんがむやカステラ迄、銀紙に包んではいっていたのには、驚いた、当時の日本は、アルミニウム大不足で、B-29の編隊が、レーダー波の散 乱反射用に撒きからかす細いテープ状のアルミ箔をせっせせっせと拾い廻って集めて鋳物工場に送り、漸くアルミ鋳物を作っていたのでしたから。

戦後の日本の工業レベルと疲弊は、朝鮮事変がなければどの位おかしくなっていたか想像も付かないほど貧弱そのものでした。更に我々、津島中学の生徒に、強烈な印象をあたえたのが、彼らの無線機、とウオーキートーキー。BC-610送信機とBC-779受信機とBC-611。オフヂュウテイーで中村遊郭までジープで送って行くと、津島の学校から無線でロールコールがあることがあるが、BC-611で、返事して津島にはちゃんと届いているほか、小牧ベースのBC-611ウオーキートーキー同士の電波まで入感する位実用性があったことです。まさにレベルの差をまざまざと見せつけられ、マッつアオと言う感じでした。

 

SWL歴50年:列車の「特2」を覚えていますか?

 終戦までの鉄道で話題と言えば、関門トン寝ルの開通完了の他は、東京下関間っを3時間っで走らそうと言う弾丸列車、の計画の話で、夢の又夢を、軍部は、大和魂で作れると言っておりました。客車や、寝台車には1, 2, 3等があり、庶民は、3等の赤切符、今も大抵のJRや私鉄の普通チケットが赤いのは、55年前までの赤切符の名残ですよ、長持ちしますね。2等はブルー、1等は、白切符。 しかしその白切符が、戦後の貧乏で誰もどうせつかわないとて、占領軍のRTO((Railroad Transportation office))の管理下に移され、更に占領軍輸送の車両が足りないと、青切符の2等まで取り上げられてしまい、庶民は文字通り全員平等の「三等旅行」となってしまったのでした。数年後の朝鮮事変の特需で一気に不平等景気回復,にわか成金が不平等風を吹かしたがり始める迄は、特に政治屋先生達が国鉄総裁を脅かして、「其れでは」と無理無理作られたのが、日本人も乗れる、特別二等でした。切符の色はグリーン今のJRのグリーン車の先駆けです。ふんぞり返って葉巻くわえてプカプカルンルン乗っているのは、「先生と言われる程のバカばかり」と言う川柳の題になりました。しかし占領軍の増加で1, 2等車両が優先製造され、老朽3等車は廃棄一方、またしても3等車は、窓からの乗り降りを強いられる超満員の再現。特二は大いに余裕があり、利用者がぼつぼつ増えたのでした。1949年春には、アメリカ人の設計による案を日本人用にサイズ直しした、リクライニングシート付きの特2車両が試作され、時期尚早論が圧倒的で、使用は1年間凍結されました。恐らく皆さんは切符の色は、過去も未来永劫もこんな物か気無しに眺めてお出ででしょうが、そろそろもう55年、心機一転何かあっていいんでないの?そう言えば地下鉄で黄色いのありますね、鉄道旅客法で規制されてるのかしら?

 高田馬場駅の跨線橋が、当時の国鉄総裁石田禮助氏に堤・西武社長が西武線の国鉄新宿駅への乗り入れ許可を直談判に及んだとき、西武側が作った青写真が、無断で持ち出された国鉄の青写真に赤鉛筆で書き込まれた物であったため、石田禮助氏が堤を「田舎者」呼ばわりした1951年以来なんの改善もされていない奇跡的遺物以外の何物でもないように思います。 皮肉なのは、何十年も経って、西武が示した計画を殆どそっくり戴いて、JRになった新宿にて集うチーム最強の、その名も埼京線が、乗り入れたことは、皆さんもご存じの近年になってのことでした。

 一方、西武は、開かずの踏切解消に極めて消極的で、全国でも有数の、立体交差化の計画実行のない電鉄会社のようです。この石田禮助総裁の発言がある限り西武電車は田舎者でいいのだというのがどうもエックスキューズに使われているようです。たとへ、低利の自転車振興会拠出の立体交差化資金でも、その他の低利融資でも、出す物は舌も出さないと言われても、そりゃ当たり前、利子など払えるか、線路の方が、道路よりずっと前に作ったんだ、後から踏切にさせられただけでも持ち出しだったんだ、国税もしっかり払ってる((因みに彼らは、埼玉県に居住))都なり市なりが道路を下なり上なりすると言うなら協力は惜しまない、と嘯いているのだそうです。執念深さは、むしろ見習うべきかな?

/~世の中、色々あるよ、色々ね、そんなことどうでもーーーイイジャナイカー
((植木等))・・・・ハイ、それまで。


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