JA局が駐留米軍局だった頃: 唄は世に連れ世は唄に連れ

 この戦後の混乱期を知らない人たちが知らないながらに歴史を繙いて語ると、なんだか唄は、リンゴの唄一つばっかり「ばかの一つ覚え」だったようになってしまう。これは、全く片腹痛い。昔のマス・メデイアは新聞と、ラジオの第1放送と、町方では第二放送、それだけ、唄は新聞には流れない。映画も戦時中や戦後はニュウス映画と文化映画の都合のいいところだけでしたから、唄なんぞは、2の次3の次。こうして物資欠乏の果て戦いに敗れたのでした。

 唄が帰ってきました。1923年の関東大震災の後も、復興の槌音と共に、

 と言う囃子言葉付きで、誰歌うとなく、東京を中心に唄われたのだそうですが、この唄も当然復活して、戦後の焼け跡の個人個人の整理、物資欠乏の中での焼けボックイと焼けトタンでのバラック建設の惨めさから奮い立つ、人生応援歌として、歌い継がれたのでした。

 もう一つの大きな社会大問題は、海外に負け残った軍人他家族達の引き揚げ問題。「どうせ、日本の船は沈められてしまって、200万余の日本人は当分現地に留まらざるを得ず」でしょうと、捕虜収容所に収容されたわけですが、引揚者を待ちわびる家族の気持ちの唄や、異国の収容所、特に極寒oシベリヤ奥地で帝政ロシヤ時代の政治犯並の、重ノルマを課されて働かされても、何とか故国の土にたどり着くまでその日までと互いに励まし合った「異国の丘」は、GHQの差し止めを受けることなく、採譜されてラヂオの「ラヂオ歌謡」にも上り、折から始まった今もつずく不朽の名番組「日曜素人のど自慢」のトップソングをつずけました。「岸壁の母」が出てくるのは全ての引き揚げが終わってからです、「悲願10年今日も尚・・・」なのでした。

 お父さんの帰りを待ちわびる名曲の一つが、童謡的な「里の秋」、世界的歌姫テレサ・テンも一度だけラジオ本番で歌ったがレコードにはせず2度と歌うことがなかったのは、この唄が一見戦後引き揚げの唄に見えるのにその実、敗戦の2年前に作詞作曲されたが軍部検閲で「何と女々しい唄か」と抹殺された経歴が知れたからでした。

 耄碌扱いて1部分歌詞が出ない、80歳カムバックした時の故渡辺ハマ子さんのような!

 異国の丘や、リンゴの唄に混じって、素人のど自慢にはいくつかのラジオ歌謡が、次々登場しました。戦後のラジオ歌謡第1作は「たそがれの夢」・・・

なかなか鐘3つを鳴らす人は居ない歌曲調だった。こののど自慢のお陰で、戦後大いに復古した歌曲に「「平城山」」がある、各々方、読めますカナ?

歌い方も難解な唄だった。

 そう、のど自慢が始まってしばらくして、ラジオ歌謡に、名曲ヒット曲が相次いだ。3曲目だったかが近江俊郎レコード会社取締役が歌った「山小屋の灯火」。歌い出しは

なのに、のど自慢に騰がってしまった人は、何故か皆、
と唄って鐘1つ。.更に一つおいて「あざみの歌」「山の煙」「桜貝の歌」と3連続ヒット。余り長くなるので桜貝だけ紹介しておこう、これも八洲秀章作曲の1939年頃の戦前歌曲のリバイバルだった由。
ナツメロ「空桶」の名曲だが第一興商のリストにしかないのが残念、画面も空虚だ。一方、歌謡曲も復興の一路をたどり、戦前復活に、上の、近江俊郎の映画出演で、一躍売り出しの、ハーフがかったマスクと、藤原義江((イギリス人、日本に帰化、テノール歌手、近江の伯父に当たる、昭和初年電気吹き込みレコード第1号発売))譲りの甘いテノールで売った重役歌手で俳優が、吉屋信子作「月よりの使者」を主演。主題歌も歌ってヒット。
結核大流行のご時世、結核療養所、いわゆるサナトリウムでの、患者と白衣の天使看護婦との悲恋は婦人雑誌の連載小説の常道。天下の紅涙を絞るに十分であったのでした。
と悲劇かと思わせて、そこへ・・・
と大団円、目出度し目出度し。

JA局が駐留米軍人局だった頃:そのころの童謡には、結構リバイバルものがあった。

 って歌御存知でしょう?・・・これ戦後生まれじゃないんだそうです。1950年夏都内某所CIE図書館で偶々、戦後のアメリカ流教育に関する問題のセッションで、私はこの童謡を軸に、当時の日本の児童のしつけを若干批判しました。丁度今流行りの、パネル・デイスカッション形式で、パネラーの一人に明るいポーラーの背広に蝶ネク、靴は白とグレイのコンビと言うダンデイースタイルが又不思議に似合っているハイカラなお兄さんが座ってました。見るとパネラーの名前は、横文字で、どうやら、Tshiro Oomi と書いて有る。まさかにこんなハイカラなのが、「山小屋の灯」でデビュウした近江俊郎とは思えなかった。

他のパネラーに促されて、先生が「どうしようか?」と自問しながら立ち上がり「今の学生さん、ほら、あなた、今の歌、戦後の歌という前提で、意見を述べられましたが、この歌ね、昭和8-9年、ともかくずっと前の戦前の歌ですよ、調べてご覧なさい。」と困った顔されたのでした。これでアッ!いケネエ、敵は本物の近江俊郎だ!と思うまもなく、会場は嘲笑に包まれてしまい、大変失礼したと全部を取り消しましたが、近江先生は「歌がどうであれ、歌の心、歌心を今様と思えば今の世相を反映しますから、仰言ったことの意味はよくわかりますよ。心配しないで下さい」と取りなして戴きましたが、どえらい赤っ恥で!参ったことがありました。これ以来歌の作られた時代・背景には、特に気を使うようになったのでした。そして、私にとっては、道を教えていただいた人詰まり先生です。

 は、童謡歌手川田正子、孝子、も一人何子ちゃんだっけか3姉妹が次々歌い継いだ息の長い歌だったが、これに纏わる作詞作曲話は、語り継がれていまして、作詞家((米山正夫だっけ?))がNHKに頼まれて、子供大会に発表する歌を作詞して候補作品を持って根府川近くの山間に疎開して晴耕雨読していた、海沼実に作曲して貰おうと手弁当で、出掛けたが、山の中で、疎開児童らしい一人の女の子が、遥かに見える海をじっと眺めているのを見て、持ってった歌はどうでも良くなって、即興で感動を綴り、海沼氏に見せたところ、これがよろしい、と2時間程で曲を付けてくれて、この名曲が、半日も掛からずして出来上がったのだと書いていました。終戦後も、住む家を失った家族は離ればなれに疎開したままの生活を送っていた時代の歌詞に御留意あれ。明らかに戦後の歌。

川田3姉妹がよく歌った、特に2人目孝子の声と歌い方にフィットして一世を風靡した歌に、「月の砂漠」がある。

 これは、一般カラオケナンバーにはありません。「三日月娘」と同じ、「大陸侵攻」のお先棒を担いだ前歴がばれ、ブラックリスト入りしてしまったのです。この歌は、1923年頃当時、「大陸浪人吟遊詩人」を夢見ていた加藤まさをが、急に結核で喀血し、療養のため千葉御宿に転地療養したのでしたが、ここには当時鳥取には叶わないが、砂丘があり加藤はこの砂丘に王子様とお姫様のラクダを夢見て作詞し、当時大陸介入の突破口、「満蒙開拓義勇青年隊」隊員教育用に作られた満蒙教育委員会の募集した歌に応募し唯一、入選を果たしたのでした。戦後の歌ではなかったのでした。


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