JA局が米軍人局だった頃:流行歌と、「うたごえ」:

 此の2極を1絡げにするのは容易ではない?しかしどちらも歌1つ1つにとっては麻疹のようなもんだ。

 流行歌の方は、戦前レコード歌手として何とか千夜子が可成り東北direct日本語を引きずり回して歌って以来、此のカテゴリーは定まってました。

 戦後もその手のつずきとして、「リンゴの唄」「泣くな小鳩よ」「悲しき竹笛」ややおくれて、ブルースの女王淡谷のり子が、戦前の復活曲も取り混ぜ、ブルースを次々披露するが、「港が見える丘」「並木の雨」「小雨の丘」などがその間で善戦する。そこえ、唄通り殴り込むように、駐留米軍の酒保、PXで唄って評判を取った笠置シヅ子の登場、 世の中1ペンにブギウギ、うきうきとなる。「東京ブギ」に始まって「買い物ブギ」「セコハン娘」などから、・・・・此の唄の題何てった?

いやー何というか、型破りで、kansai-direct日本語で「エネルギッシュ」で、文字通り、和製英語「エネルギッシュ」を外来語かと思ったくらいだった。此の笠置ブギウギの真似して5-6歳で素人のど自慢の鐘を連打させた魚屋の4頭身のこましゃくれ娘が、み空に雲雀が揚がるが如く上がってくる、「私は町の子」「東京シュウシャンボーイ」「リンゴの独り言」・・・枚挙に暇がない。「リンゴ追分」はずっと後。

 一方、労働組合再建が成って組合の青年婦人部などを中心とした活動の一環として、民音やうたごえ運動が起こる。ロシヤ民謡を中心に適宜反戦歌や労働歌を交えて洗脳を図るのだが青年婦人部に入った、ミーチャンハーチャンは、何故かこれら日本の流行歌の「ヨナ抜き」旋律にはない何かに麻疹に掛かったようになり、熱を上げ、遂に、「原爆許すマジ」も「ああインターナショナル」もロシヤ民謡の中に呑み込んでしまう。労働歌の中には、物騒なのもあり、ろしや民謡と言っても好戦的な唄もあったりする仕掛けだった。暫くして、全国的に「うたごえ喫茶」なるカテゴリの「サテン」が登場するが、何処の都会でも町でも先ずうたごえ喫茶の店名は判で押したように「ともしび」だった。

どう歌ってみても「かっこよく戦場へ行こうでないの?」って感じは覆い難かったが商業主義としての「うたごえ喫茶」の店名は、「ともしび」でなければならなかった様である。

 そしてやがて「豊かなるザ・バイカル」の登場へ繋がる。歌声登場の1年程してロシヤ映画「シベリヤ物語」をみて初めて「・・・ザ・バイカル」の歌詞を理解し得た。

ナーンデわざわざ脱走したようなんうたわすんやろか、ようわからへんかってん。ところが、此の映画をみたら、アグファカラーで、よけい夕日は派手にもの悲しいわな。そのシーンでこの聞き馴染んだ「ザ・バイカル」が流れるのです。

 ロシヤ帝政ロマノフ朝の最後の宮廷楽師の書生だった、作曲家を志す若者が、楽師に用を頼まれて宮廷に行った途端革命が起こり、理不尽にも拘束され人民裁判の末、シベリヤ流刑となる。これら政治犯は生かさず殺さず極寒のラーゲルにおいとけば、一冬で半減する勘定だという。冬食料と燃料がつきるのだ。夏の使役の際に彼はオンぼろピアノを町で見つけ、ラーゲルに持ち込み調律して作曲に取りかかる、冬の厳しさを交響曲に表現するために情熱を燃やして自らを暖め一冬は漸く耐え抜く。シベリヤ交響曲が完成するというのに次の冬は予告無くやってきて食料と燃料が十分無いことが解ると仲間と脱走する、行くも死、留まるも死。

 楽譜の紙十数枚を腹と背に縫い込んだ暖かさが彼を救う。こうしてバイカル湖にたどり着き、生を実感するシーンが、「豊かなるザ・バイカル」なのだ。「うたごえ」にはこのストーリー無しで、唄だけ一人歩きして来たから、何のコッチャだったのだ。

 序でに書いておくと、戦後、ロシア映画輸入の第一本目は「石の花」そして2本目が「シベリア物語」でした。


(C) Copyright 2000-2004 JA2RM and JA9IFF All right reserved.