JA局が駐留米軍人局だった頃:社会情勢は?(其の1)

 平和が訪れていたモノの、殆どのことは鵜匠GHQに手綱をたぐられている鵜と同然だったのでした。鈴木陸軍大将が首相の終戦内閣は直ちに東久邇「宮様」内閣となりGHQの解放宣言を受けて直ぐ又「民間」内閣として幣原内閣が作られた。終戦の年の秋だった。マカーサー元帥は、直ちに幣原首相をGHQに呼びつけ「人権確保の5大改革」 の実行を迫った。当時の色々な試験問題に良く出たので御存知の方も多い筈。すなはち、

でした。

 近年のこの国の政府はこのマカーサーの気持ちにも庶民の気持ちにも逆行して、3)と4)ナドを相当怪しくしていて、マカーサーが生きていたら大いに嘆いたことだろう。5)も大いにしたら、不況からの立ち上がりも別のスタイルが見られたかも。情けない。この問題や正解を知らない人たちの時代で民主政府と言えますかネー?

 これにより労働基準法と共に労働組合法が作られ、一挙に全国的に労働組合が結成された。共産党の徳田球一、野坂参三らも帰国復帰したが、まもなく戦中の行動批判を海外から浴びて失脚する。古い物は「序でに」打破せねばやまぬ盛り上がりでした。

 1946年1月1日昭和天皇の人間宣言「神格否定の詔書」、又GHQから「公娼を容認する全ての法律の撤廃」要求、市川房枝女史が敢然と立つが公娼街の灯を消すには何と干支一回り12年の歳月。2月人間天皇神奈川被災地へ初の巡幸、日の丸・土下座は不要と謝絶声明。3月、物価統制令公布するもインフレ加速、米教育使節団来日、31日学制改革必要と報告内容発表。4月10日戦後初の男女同権普通選挙。22日から「サザエさん」の漫画連載始まったのですが当時の絵は、かなり素人っぽく堅く、丁度ポーパイ漫画のオリーブの角張ったギスギスイメージを思い出させるに十分でした。選挙の結果第1次吉田内閣、物価食糧問題めども付けきらず5月「飯米獲得人民大会」がメーデーに遅れること20日ぐらいして開かれ約60万人の市民と労働者が都内を練り歩き「米寄越せ」「吉田内閣打倒」を叫ぶ。吉田が女々しくもGHQに泣きついたとかで、同日夕GHQはこの大会行動は「暴動」と認定、自動小銃装備のMP/SPが出動、発砲はなく鎮静したがこの辺りから「吉田のしげちゃんの白足袋」((ラジオ「二十の扉」で、サトウハチローが、ノーヒントでズバリ当てて有名))がバターで汚れ始める。ラジオ序でに言うならやがてNHK第一放送で日曜昼12時15分からの日曜娯楽版三木鶏郎グループの「冗談音楽」で吉田内閣は散々揶揄されるようになる。今のNHK役所にこのようなセンスはない。今に石原都知事が、東京都から出て行って呉れと言うかも知れない。因みに吉田しげちゃんは、大磯に住んでいた、後の藤沢バイパスは、当時ワンマン道路と呼ばれた。銀行も大型課税がイヤなら、コンピューターと電話線持って、本店を大磯でも筑波でも岡崎でも持ってきゃいいのだ!地方振興に最適だわ。コンピュウターは何も東京でなきゃ動かないってモノじゃないことを忘れてんでないの?

 まあ余計な脱線だが、君の名は?以前の聴取率のダントツ番組は、日曜娯楽版を措いてなかっただったろう。吉田内閣は不評を尻目に「GHQ」の威を借りてワンマン振りを通した。

 8月初めての労働組合総同盟の大会も「打倒吉田内閣、米寄越せ」で結束堅く盛り上がる。米はないことはないのだという批判が高まる。アメリカからのララ物資としてもカリフォルニア産米が10万トンとか、シアトルとサクラメントの米政府倉庫に集積されているのに吉田政府が引き取りを躊躇していて、脱脂粉乳と玉ネギジャガイモばかり受け入れている、との山積み米袋の写真(説明は新聞活字の英文)入り怪文書が流れたが、うやむやにもみ消された。後のジャーナリストの調査では、集積までは本当で、ララ側が日本人の米食に対する執念が異常なモノだと知って暴動の種にならないか心配してGHQに問い合わせたところ、日本政府も無策なので暴動に繋がらないとの保証はないと伝えられてしまったらしい。とすれば、矢張りしげちゃんの白足袋が問題だったことになる。しげちゃん自身が知ってたかどうかは問題なのだが。・・・

 ララ物資と救恤食糧、そして「喰うモノ寄越せ」の2.1ゼネスト中止は次回に書きましょう。そして更にこの「食い物の恨み」は遠因として1952年の皇居前血のメーデーの暴動として火を噴く。1947年は大変な年だったのです。

JA局が駐留米軍人局だった頃:社会情勢は?(其の2)

 1947年は波乱含みに明けた。正月早々、公職追放令が厳しく改正され、中央を逃げて地方に居座ろうとした財界や地方役職から多くの追放者が待ったなしで指名追放された。極東軍事裁判も小菅のA級から始まり、直ぐ横浜でのC級裁判も始まった。「 食う米寄越せ」のシュプレッヒコールが全国的に高まり、遂に総同盟は傘下組合には勿論のこと任意団体組合にも、2月1日に全国一斉ストライキを呼びかけた。確か1月18日。風雲急を告げる思いであったが、10日余政府GHQともさしたる動きなく嵐の前の静けさだった。明日はゼネストと迫った31日午後四時、GHQ名でこのゼネストを強行すれば暴徒と見なす旨のゼネスト解散命令がでた。2月に入って、東京都の焼け跡著しい地区の小学校から、ララ物資による学校給食が始まった。これが恐らく2.1ゼネストを構えて、全国民が勝ち取た、ささやかな食糧施策の全てだった。逆に3月には内務大臣が警察に指令して米の買い出しを厳重に取り締まるよう指示、捕まれば買いだししててきたなけなしの米は、なさけ容赦なく警官に没収された。又主食供米を渋る農家も警察権により強制供出させられることになった。この悪法により、国民の飢餓状態は更に進み裁判官一家や、法学博士夫婦が、配給だけの生活で、餓死すると言う痛ましい事件が相次いだ。

 一方、前年春日本国憲法草案起案を託して出来た橋本案は拒否しGHQ案を示していて1年、この年5月3日に自動発効、詰まり憲法発布となった。「天皇は象徴」「主権在民」「戦争放棄」「人権擁護」「教育・信仰の自由」などは、日本側案起草に際しGHQが求めた時の文そのものだったという。

第一回の通常国会開催中の衆参両院は、5月23日、首班に社会党片山哲を指名、社会・民主・国協三党連立政府が出来上がった。戦後の新しい法規の大半がこの半年余りで殆ど成立を見ている。おまけの締めくくりの12月には買出し食糧召し上げ法を履行した内務省を廃止に追い込んでいる。翌1948年明けて直ぐの帝銀事件、動機不明の不可解事件。政界も同様。片山内閣急に火が消え、芦田均内閣に。首班交替。この交替時期に、今腐敗が問われる、地方警察本部制と新警察法が実施された。50年ほっときゃ腐ってもしゃーないか?民間特に生産会社では、「制度と評価法は5年立ったら見直せ、10年経ったら良くても悪くても捨てろ、5年10年前の評価基準で今の現実を見て明日は語れない」が鉄則。

 民主社会は、男女平等の学校制度からと4月からマーカット少佐のアドヴァイスの6.3.3.4制の新学制度全面施行され、義務教育が6+3年なので俗に六三制と呼ばれることになった。「6.3制野球ばかりが強くなり」 は強烈な風刺川柳だった。具体的には地域の高等女学校と中学校が合併して男女共学の新制高校となり、3年生以下は、併設中学として臨時存続、新しく義務教育に就く生徒のためには校舎ごと新制中学を新設した。50年余以前のこと 第一回卒業生も還暦を超える。

 7月、マカーサー書簡により、公務員の争議禁止勧告を受け同月直ちに政令201号で、国家及び地方公務員の団体交渉権と罷業権を否認。芦田内閣1年持たず、10月解散。吉田「しげちゃんの白足袋」再び登場第二次吉田内閣。

JA局が駐留米軍人局だった頃:社会情勢は?(其の3)

 芦田内閣が、片山内閣から引き継いだ学制改革でチョイとした不公平により、世情に関係する問題を惹起している。即ち1948年6月文部省が、国立大学設置11原則を発表、戦前戦中の帝国大学生の国立大学への吸収は決めたものの((従って、台湾帝大在籍生は国内国立大学に編入))、満州朝鮮及び国内の国策学校生については敗戦時限りとした。これら学生の受け皿は閉じられたのでした。職はなく所在もなく飯も食えず投げ出された例えば、国策学校武道専門学校俗称「武専」生などは、腹立ち紛れに右翼結社の行動隊等に参加高禄と屋根と飯にありついたのでした。一挙に右翼に行動力が付いてしまった。1948年10月、再び内閣は、第二次吉田内閣。11月、文部省は各学校に「父兄と教師の緊密連携の会」 PTAの設立を奨励。(今この精神いずこ?)同月、極東軍事裁判所25被告に判決、東条以下7名絞首刑。12月執行。11月政令201号より国家公務員については除外し国家公務員法を改正交付、こちらで、争議権を禁止、人事院を設け裁定勧告可能とした。クリスマスイブに突如、絞首刑されなかった岸信介等A級戦犯19名釈放。明けて1949年1月、法隆寺金堂壁画、模写中に12面焼失。3月ドッジ公使の経済安定施策ドッジラインが示され、次いで政府経済白書「経済自立化への課題」公表、更に四月ドッジ公使の「超均衡予算;補給金全廃」強調更に、スミソニアン勧告為替レート1ドル360円に固定発表が相次いだ。

 5月、我々の生活に関係深い数え年を満年齢に呼び変えることになる法律が出来、翌1950年1月から、もう1年一寸同じ年を続けることになっちゃった。人生1年分損したのか得したのか、井戸端も浮世床も侃々諤々した。それとは関係ないのにこの後、妙にオドロオドロシイ魔可不思議な事件が続発する、事の起こりは、前年逓信省管理から国有鉄道公社に格が変わった国鉄が、余剰労働力リストラを発表したことから。7月4日国鉄第1次人員整理3万7千人発表。翌5日下山国鉄総裁 常磐線北千住 綾瀬間線路上で轢死体で発見。更に、7月12日第2次人員整理6万3千人発表翌翌々日の15日中央線三鷹駅で無人電車が突然暴走。更にエスカレート、8月17日東北本線松川・金谷川駅間で旅客列車転覆3名の犠牲者。全部迷宮入りほぼ無解決、又は有耶無耶。

 それより一寸前5月だったか関東にまっすぐ北上してくる大型台風の中、プロペラ輸送機で羽田空港に強行着陸した外人があった、シャウプ氏と言った。日本のこの後の税金制度を決定的にしたシャウプ勧告が8月半ばに出され、9:6:4(クロヨンと呼んだ)と言う不公平税制が50年以上続く事になるとは、神様も台風女神も見抜けなかったらしい。因みに当時台風にはABC順に女の名前を付けていた。見抜いていれば羽田への強行着陸の際、ヒト吹きで東京湾の藻屑に出来たはず。強運の男だったのでしょう。(訃報2000 Mar.28朝刊)竹下「散逸経済」内閣が奇しくも消費税という奇税を思いつくまで堅忍不抜の税制の芯であった。プロフェッサーの冥福を祈っておこう。


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