JA局が駐留米軍人局だった頃:社会情勢は(其の7)

 1951年はマカーサー司令長官の「集団保障体制の中での日本の役割」と、「講和」を強調、つまり共産主義の防波堤と講和は引き替えとする意味の年頭教書で年が明けました。早速1月末ダレス長官の来日、2月11日、講和方針として、米軍の駐留は最大の要件の旨声明。「従って」とばかり、 共産党は、2月23日の4全協で「武力革命方式」決定、益々左傾。一方、半島の南北朝鮮戦争は、前年秋、寒くならない中に・・とばかり中国共産軍が、鴨緑江を渡河南下して軍事介入し北が一挙に勢を得て暮にソウルを席巻し更に速度を速めてテエグウを陥れ、洛東江北岸に迫った。この大河には橋が1橋しか無い、季節は冬避難民も国連軍も川に追落されて凍死するしかないと知ったマカーサーは、怒り心頭に発してペンタゴンの同意を待たず、直ちに海兵隊と陸軍の予備兵力を仁川に上陸させた。いわゆる「マカーサーの仁川逆上陸」という起死回生の妙策でありました。然しこのこともあって、大統領を狙う、一方の雄アイゼンハウアーの懺訴にあって、間もなくの朝鮮の停戦交渉に先立って、マカーサーは極東軍事最高司令官を罷免されてしまうのでした。4月後を襲ったのは当時も今も余り名前を覚えられていないリッジウエイ中将でした。マカーサーは、引退でも交替でもない「罷免」という事で極東を去ったのでした。「老兵は死なず、消えゆくのみ」のセリフを残して。

 4月23日国鉄桜木町事件、木造電車モハ63型車両炎上満員乗客逃げられず、焼死百余人。6月民間放送次々予備免許。試験電波発射JOOR((大阪、新日本放送「NJB」1210Kc/s))JOAR((名古屋、中部日本放送「CBC」1090Kc/s))が同日一番乗り。続いてJONR((大阪、朝日放送「ABC」1010kc/s))以上は9月1日から本放送開始、以後JOFR((福岡、ラジオ九州「RKB」 1230Kc/s))と続くが9月8日の、対日平和条約・日米安全保障条約調印を当日のニュースとしてコマーシャル入りで流すことを得た、本免許民間放送局は以上4社のみ。JOKR((東京、ラジオ東京「TBS」960Kc/s))以下の局は、未だ試験放送を始めたばかりでした。文化放送は数ヶ月遅れ、ニッポン放送は半年以上遅れ、ラジ関に至ってはもう何年も経過してから新規に作られた放送局でした。

  南北朝鮮休戦開城調印7月。日米講和条約が日米安全保障条約とセット調印だったこともあってか、開城交渉は直ぐには決裂を繰り返し、漸く10月に入って両者が板門店の席に着く有様。翌11月14日、天野文部大臣が、主権が天皇→GHQ→日本国民に帰ったことから、教育勅語に代わる「国民実践要領」を発表、茲に教育勅語は一切廃棄と宣言した。12月大山郁夫スターリン平和賞受賞。こうして、アメリカのひも付きながら念願の講和条約は成って日本の主権は昭和26年(1951年)漸く日本国民の手に帰ったのでした。


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