戦中戦後こぼれ話:三越のライオン

 東京、日本橋三越の正面入口に、獅子像が2基向かい合って置かれています。戦時中諸金属資源が払底し、兵器さえ作れないことになって「供出」と称して遊休金属製品は言うに及ばず、平生使う最小の必要数以外の鍋釜薬缶に至るまで金属製品は供出させられ、代わりに土釜や土鍋を高い値段で買わされました。公園の銅像などは青銅でしたから砲金と言う様々な兵器の部品や弾丸の薬夾に必需の資源で真っ先に取り外され二宮金次郎も陶器製に置換えられたりしました。何々君の像等の類は碑銘版まで凝った青銅版でしたから貴重な金属資源でひっぺがされたまま誰の像か解らない状態でした。

この取り外されたり切り倒されたり、引き剥がされたりした金属製がらくたは女学校の低学年女学生や、小学校高学年生徒らによって、町内のリヤカーを借り出して引っ張れる重さ単位ずつ積み込んで最寄りの汽車電車駅特に貨物駅まで子供達の人力で何日掛けてでもいいからと言われて運ばされ ました。当時他に運搬の手段はありませんでしたから、三越のライオン像はこの金属供出の割と早い時期に取り外されたという事です。と言うのは、とても目立つ目抜き通りの、ちんちん電車の乗客の視線の高さの辺りに鎮座していて目立つ存在で金属供出運動の昂揚のためにはいち早く供出したことにしなければ又軍部から横槍が入りかねない存在だったから。

ですからこの大きな2匹の獅子像は誰もが、戦時中にとっくに溶鉱炉に放り込まれて融かされて大砲の弾か何かに化けて戦争で敵艦に当たって砕け散ったとばかり思っていたのです。運命のいたずらとはよく言ったモノでこの2匹のライオンは、草むらに隠れて戦争の終わるのをじっと息を凝らして待ち続けていたのでした。何と日本橋三越から直線距離でも約8km離れた原宿駅東250mの東郷神社の裏の草むらの中で、見かけよりもウントコサ重かったのでしょう。付近には潰れたリヤカーと壊れた大八車が散乱していたと言いますから、青銅の比重は約8.0ですから1匹で殆ど1トンはあったでしょう。リヤカーや大八車で運べる重さではなかったのが幸いしたようです。

 敗戦の歳の秋、草が枯れて秋雨に濡れてライオンが顔を出しているのを通りかかった日本橋の老舗「にんべん」の番頭さんが見つけたのだそうです。鋸で切ろうとした痕や、まさかりで斬りつけた痕は幾つかあったようですが修復するのにそれほどの手間ではなかったとかで、翌昭和21年の春には、もとの三越の玄関の元の位置に戻ったのでした。

 軍部、特に帝国陸軍は無謀にも、何もなくても大和魂さえあれば戦争に勝てると誇大妄想して開戦に突っ込んでいったのですがその実、三越のライオンを大砲の弾に変えることさえ出来なかったのです。大和魂だけでは、いかに無意味な、そして無謀な戦争を仕掛けたモノではありませんか。

戦中戦後こぼれ話:板ガラスの話

 江戸時代、ギヤマン、そして浮世絵ではビードロを吹く女、硝子、硝子戸が登場するのは鹿鳴館時代。夏目漱石の小説には好んで硝子戸や硝子障子が登場する。硝子戸の中、と言う中短編小説もある。時代の花形とも言うべきで庶民生活に明るさが導入できたしるしでもあったのでしょう。併し,,,,

 この時代から戦後に掛けての板ガラスやこれから作る鏡はそれに映る姿や顔が所々妙に伸びたり縮んだりするモノでした。勿論透明のガラスではその硝子を通して見ると矢張り姿形が妙に歪んで見えると言ったモノで、これを嫌って明かり取りは擦りガラスや曇り硝子を使ったモノでした。

 現在の板ガラスや鏡では、この昔のようにガラスに映る自分の顔が妙に歪んで見えることは皆無になりましたね。一体どうしてこうなったのでしょう?いつ頃からか意識していましたか?

 戦前戦中までの板ガラスの製造法は、いわば手作りの延長線上の技術で、板の厚みをほぼ均一に保つ原理はシャボン玉の膜厚さがほぼ全面で均一を保ちながら膨れる表面張力の原理に頼って1つ1つづつ溶融硝子玉に空気を吹き込んで丸太い円筒形に近い形に膨らまし、熱い中に切り開いてフグや イカ宜敷ロールに掛けて真っ平らに延ばして板ガラスにしたモノでした。いわゆるバッチ生産、切り板ガラス法でした。

 鏡用や高級硝子板用にはこの中から出来の良いモノを抜き取って、水平研磨機で両面を平行に磨き出し研磨仕上げして作る「磨き硝子」なるモノがありました。芸術品並みの手が掛かった手作り製品ですね。

 戦争直前、アメリカの中規模板ガラス会社で原理的に全く紛れのない均等板厚みの全く水平な平行面を持つ板ガラスのしかも連続製造法が発明されていました。

 皆さんは、箱であろうがバケツであろうが、丼であろうが水を入れれば容れ物が傾いていようといまいと水面はどれも必ず一様に水平面を保つ事に何の疑問も感じないでしょう?これは、地球が丸いとか、地球に引力があるとか知られていない人間が文字を持つより少し早くから知られていて、建造物の水平や垂直を確かめる手段として少なくとも2000年の歴史がある手段だったのですね。

 一方、半田という合金をご存じですか?260度前後の比較的低い温度で融ける金属ですね。この半田、錫と鉛の合金なのですが、これ又、2000年以上前の地中海文明時代から金属加工や金属溶接や装飾の分野で広く使われていたのですが、その配合比は現在使われている物と殆どぴたり同じで200年以上変わっていないのです。見いだされた頃から「究極の」配合だったのですね。

 この半田と、硝子を何れもの溶融温度以上に保って溶融状態にしたらどうなりますか?半田の熔湯の上に硝子の熔湯が浮きますね。それぞれの熔湯の表面はどうなるでしょう?水と同じ事で入れ物が傾いていようといまいと熔湯面は何れも必ず水平水準面を保ちますから硝子溶融層は厚さに無関 係に必ず理想的平行面になります。これが「究極の」連続板ガラス製造法の原理です。解ってしまえばコロンブスの卵ですが原理自体は単純明快、それぞれには2000年のノウハウの蓄積があるはずだが、その組み合わせには何と余り応用の利くノウハウの実績はない。鉛と硝子をキイワードにして漸くステンドグラスという技術分野が浮き出す程度、併し溶融硝子をキイワードにすると何もないのでした。これを一つ一つの技術をクリヤーして一つの生産ラインにまとめ上げたからこそ、このノウハウは戦後世界中に売れに売れたしこのノウハウを纏めた集団は「シンクタンク」と呼ばれてその後プリント配線技法に関する多くのパテントやノウハウを積み上げて世界中の金銀財宝をかき集めたのでした。

 会社の名前はもうお判りですね。そうPPGです。ピッツバーグプレートグラス会社。板ガラスですね。日本も、GHQの肝いりで戦後昭和27年に日本板硝子(株)設立、技術導入しこの連続板ガラス製造が行われたのでした。以来窓硝子を通しても、ガラス窓に映っても私達の顔が歪まなくなったのでした。


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