JA局が駐留米軍人局だった頃:社会情勢は(其の8:最終回)

 ひも付き日米講和条約が成立、併し、電波審議委員会も、電波管理委員会もさしたる動きはないまま昭和26年は暮れた。それも其の筈、行政権は未だGHQに握られたままだったのです。統率権以外の具体行政権は、明けて昭和27年1月下旬の「日米行政協定」によって漸く日本側が手を着けて良い項目が示されたというわけです。軍用電波を除く電波行政は委員会形式のまま日本側に渡されました。米連邦通信委員会FCCに倣っての、電波行政が戦後は取り入れられたのでした。これが僅か7年後には、官僚の手によって、又官僚共の手のだしやすい、官僚制度に、制度も組織も法規も大改正されてしまうのです。ここから「命のやりとりに関係ない」電波利権の金権化が始まったと云えるでしょう。

兎に角この行政協定締結以降、日本人アマチュア無線家の電波監理局通いが始まったようです。早速2月に第1回の国家試験(一次2次)が行われ、全国で50名余が受験できた由。このうちの30名余が、アマチュア無線局の申請手続きを行って、7月29日に免許が下りることになるのでした。

何も、日米行政協定は無線に限ってのことでなくむしろ無線は、目くそ鼻くその類でして、今思えば、例えば「公職追放令」の廃止(S27.4月)を急いだ第3次吉田内閣の「反動」など、官僚政治への帰り道を急ぐ動きにもっと国民やマスコミが強い関心を払うべきではなかっただろうかと思われます。

 其の一つの突出行動として、5月1日、皇居前の広場で行われたメーデー大会は、右翼の挑発に引っかかった過激派の、お堀端の外人車両焼き討ち事件に警官隊が殴り込み、鉛入り警棒で無差別に兎に角学生の頭を殴る、と言う「血のメーデー」事件が起こりました。

 現在の、交番のお巡りさんの警棒には鉛なんぞは入っていません。この頃、警察機動隊の他に警察予備隊と言うのがあって、、、、、これが後に自衛隊に化けて行くのですが、、、、、、彼らは、はっきり「武器」として、「鉛入りの警棒」を持たされていたわけです。この血のメーデー直後からカービン銃を持たされることになりましたが。ここら辺りから化けの皮が、、、、、5月9日早稲田大学構内の抗議集会に、武器警棒警官隊突入乱闘。7月1日、戸籍制度とは全く別に、住民登録制度施行実施。現在に至る。これは、戦前戦中までは、交番のお回りさんが俗称「人別帳」を小脇に、各戸を毎日回って、変わったことはないかと、昔の「ご用聞き」((岡っ引きの手先の下役))よろしく、警察側でヒトの動きを把握して、俗称「人別帳」を作っていたモノを、登録制に改めたモノ。昔は、町中でも田舎でも、お回りは、何処の家にでも3日にあげず顔を突き出して「元気にしてますか、何か変わったことは?」と声を掛けたモノです。これが犯罪予防にどれだけ役立っていたか、計り知れないと思います。

 住民登録制以降、お巡りさんと住民が顔を合わせる機会は、殆どなくなってしまいましたね。住民はお巡りさんと顔見知りでしたし、お巡りさんは顔をと名前と覚えてくれていたし。それだけで、鍵も掛けず家を空けて一寸外出しても平気だったですね。信頼感がありました。

 住民登録になって、無味乾燥度100%になってしまった、田無市が合併して西東京市になると平将門時代からの地名が消えて、これ又無味乾燥度100%だが。これは脱線。失敬失敬、、、、、

 こうして、GHQ行政の戦後が一段落して、船底帽駐留軍が余り目に付かなくなって、、、、、それまで、ジッゲエボウ(JA)だった、駐留米軍人局のプレフィックスが、キンゲエボウ(KA)になって、漸くこの歳7月29日、30人の日本人にアマチュア無線局(昭和34年の法改正で現在は「アマチュア局」と改称)のJA1AA始めJA1WA、JA2WA等を含む30局の予備免許が下りたのでした。(( このシリーズ 了))


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