戦中戦後こぼれ話:東京都の「都制」は大政翼賛の産物

 クイズ赤ッ恥、青ッ恥じゃないけど、今街を行くヒト100人に東京都は何時から都になったのかと訊ねたら、どうでしょう?、、、、、若い人は100%明治からと云い、年寄りは100%終戦後と応えるらしいです。正解の昭和17年(新都知事選任は18年)からと応えられる「当時の都民」が殆ど街を歩かなくなったという事。又当時府民から都民になったヒトも、殆どが錯覚して、35区から23区に区制が変わった終戦後に、初めて府から都になったと誤って記憶してしまっているようです。((章末註に35区を思い出しましょう))

今は1道1都2府43県、私の小学校尋常科の頃は、1道3府43県を内地とし、それに千島、樺太、朝鮮、台湾が領土、南洋群島が信託統治領、関東州が租借領、と答えなければなりませんでした。4強、地震、雷、火事、親爺の中の2ヶ渾名のW先生が担任となった、国民学校初等科5年の途中で、1道1都2府43県と覚え直させられましたから間違いありません。

当時は大抵の記憶術が口暗誦ですから、頭で解っていても、口を突いて出るリズムで、一道3府、、、、と言ってしまうのでした、するとすかさず雷親爺先生の雷が落ちるのでした。先生は間違えた者は立たせておいて次々答えさせ、後で間違え者は纏めてバッチョク。この先生が偉かったと思うことは、このバッチョクで、口癖が付いてしまっているのだからそれ以上に1道1都2府、、、、を強く口癖にせねばならぬと云って、男子には自分の椅子を雑巾を良く洗ってすすいで絞ってしっかり拭かせ、背負わせて廊下を歩かせ、女の子には、バケツと雑巾をしっかり洗って絞り拭かせて手に持たせ廊下を歩かせるのですが、作業中も廊下を歩く間中もお経を読むようにひとときも休まず1道1都2府43県、、、、と繰り返し30分は唱えさせるのです。何日かして、又うっかり間違えたかぜっぴきの女の子が一人。雪の降る目茶風の寒い日。廊下の防火用水入りのバケツの水は完全に氷が張っていました。

 みんなが心配になった其の瞬間、女副級長が「先生お願いです」と悲痛な声を発した。「ナナちゃんは腺病質の上に風邪引いてるのです。バッチョクは無理です。ナナちゃんに代って私にバッチョクさせて下さい、お願いします」、、、、雷は鳴らなかった。皆息を詰めていた。暫くして漸く先生が静かに口を開いた。「みんな、お前達も、七には無理で、とみが代わりにバッチョクを代わるべきだと思うか?どうだ?」、、、、「女子には無理です、私がやります。」と級長のW君が云いながら立った時、私も含めてどやどやと口ごもりながら何人かが俺も私もと起立していたのでした。先生が、「、、、、今日は先生の負けだ、そうか、七のことはみんな心から心配してるんだな何時も、、、解った。其の友情って奴を何時までも大切にするんだ何時までも、、、おとなになってもだ、忘れるな、、、、」「風邪引いてる女子はマントやオーバー着て良いぞ、みんな廊下へ静かに出ろ、バッチョクは先生が取る、お前らにはさせん、、、、七は口の中で良いから1道1都2府43県いってろ」先生は口の中で何か唱えながら廊下中の防火用水用の汲み置きバケツの氷を割って捨て、片っ端から水を取り替えて廻ったのでした。

 このことがあってからは、少なくとも私達のクラスではW先生を雷親爺と呼ぶことはなくなった。折角語呂のいい渾名だったのだが、、、。ですから東京を都と呼ぶようになったのはこのことがあった、昭和17年に間違いないのです。

 小学校尋常科が国民学校初等科になったのは昭和16年4月から、、、国語教科書は

  • 「 サイタ サイタ サクラ ガ サイタ 」 から、、、
      「 アカイ アカイ アサヒ アサヒ 」、、、 に。
  • 東條首相は渋い顔をした由。櫻が良かったらしい。そして全ての体制が足早に国家統制のための改変に走る。国家総動員法が改正されて政府権限範囲が大幅に拡大、同時に治安維持法の強化改正により予防拘束可能を図り、反対者異論者「非国民」というレッテルによって投獄できる道を付けたのでした。

     同年(1941)7月、ABCD包囲網と言われた諸国の経済封鎖の最後の口、アメリカとの全ての経済通商約定も遂に破棄され、日本は世界のヤンチャモノ孤児となったのです。全ての資源を手にするには侵略して略奪するしかない道を選んだのでした。大陸戦線を拡大していたのを転進させて南方へ、それしかない開戦が12月。年内に香港占領マニラも手中。明けて昭和17年、勝った勝ったの新旧正月の気分の中に、政治体制も国民生活規制も戦時臨戦態勢に切り替えられていたのでした。旧正月シンガポール陥落。全ての政党、大政翼賛議員連盟も強制解散。全てを「大政翼賛會」に一本化。挙国一致大政翼賛。任意宗教団体も政府主動型宗教会に変身監理。食糧管理法公布、重要物資監理営団法制定配給物資等は全てこの営団が取り仕切ることに。

     4月18日、房総沖の米空母を発進したドウリットル指揮の40機程の双発爆撃機B−25によって日本本土初空襲、東京、横浜、横須賀、御前崎、浜松、名古屋、和歌山、呉 等にも投弾。長崎西方海上に着水、潜水艦が乗員回収。日本戦闘機邀撃出来ず。其の理由が情報取り扱いの煩瑣と指揮系統の複雑さ、((これは直ぐ2ヶ月後のミッドウェー海戦の壊滅と同じパターンなのだが))(ミッドウェーでもこの時でも、もう一つは、米空母が、日本海軍偵察機の拡大捜索法の長所短所を研究していて其の虚を突いているのだが当時は日本側が気付いていないことにもよる)として捉えられ、この対策から府制が都制になって行くのだから日本の政治は当時も今と大して変わりない責任「盥回し」型だったのです。こうして其の年昭和17年10月1日区郡市そのままに取りあえず東京府が東京都と改称したのです。行政区画統合や知事の統率権の拡大、指揮系統の簡素化等諸々が図られなければ、名前を変えてもどうなるモノじゃなかったのですが、、、。今も昔モノ、実体「先送り」の典型だったわけでした。

     この行政区画の統合、はGHQの要望にもかなったモノで、占領下で、35区制から22区制に変更、数年して、北多摩郡練馬村と板橋区の一部を足して練馬区を作り23区となったのです。この後もドンドン新区が出来て行くのかと思ったのですが、何故か練馬区が打ち止めで以降50年余新しい区が出来る気配はありませんね?、、、もう空襲がないからかしらね?

     確か昭和17年の大政翼賛会の素案では、将来郡市部も35区もご破算にして、20ぐらいの行政区割りをして簡素化するというモノでした。官僚主義が相変わらず邪魔してる様で当時の方がまだしもの感があります。


     註) 東京府/都制下の旧35区:
    赤坂区:浅草区:麻布区:足立区:荒川区:板橋区:牛込区:江戸川区:荏原区:王子区:
    大森区:蒲田区:葛飾区:神田区:京橋区:小石川区:麹町区:下谷区:品川区:芝区:
    渋谷区:城東区:杉並区:世田谷区:滝野川区:豊島区:中野区:日本橋区:深川区:
    本郷区:本所区:向島区:目黒区:四谷区:淀橋区:計35区:は昭和7((1932))年制定以来。

     昭和22((1947))年に統廃合して、22区にして、(中12区の名が残る)板橋区の一部と豊多摩郡練馬村を合併して練馬区を創設した。板橋区は23区合併により小さくなった唯一の区となった。

     府から都へ:将来郡市部も統廃合して約20の区へ、、、の根拠となったのは、東京府が確定した明治20年10月には、府知事が管轄する行政区劃の数は23区劃であったことによるという。23区画とは:

  • 赤坂:浅草:麻布:牛込:荏原:神田:京橋:小石川:麹町:下谷:芝:日本橋:深川:本郷:本所:四谷:の16区:と立川:八王子の2市と;東多摩:北豊島:南豊島:南足立:南葛飾の5郡。
  • 計23区劃。


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