歴史の一瞬:9月18日を知っていますか?

 お彼岸の入り? 確かにそうかも知れない。だけど、高校大学に学んだ人なら、覚えて忘れないでほしい日。お終いは知っていて初めは知らないゲーム感覚記憶法は止した方がいい。お終いは、8月15日と言えば、終戦の日と答える人は多い。 じゃ、開戦の日は?と問うと、これが、ゲーム感覚じゃないんだな、12月8日と答える人が多い。これは、中国と戦争してて、途中で米英も戦争の相手に巻き込んだ、第二第三段階なのですよ、切れては思考が繋がらない。ゲームじゃないんだから。確かに、NHK じゃないけど、12月8日にも、歴史は動いた。 然しそれは、動き始めたのではなく動きが深まったのだった。もう抜き差しならない段階に。

この、日本陸軍の大陸侵攻工作派が1931年9月18日スパイ大作戦まがいの然し一寸ちゃちな「事件」を起こして柳条溝の満州鉄道の鉄橋と共に1人の隣国の要人張作霖の乗った列車を爆破し、それを隣国の反動政府か匪賊が謀殺した如く装い、満州鉄道の利権は1895年日清下関条約以来日本にありとして、鉄道守備隊と称して軍隊を送り込み、匪賊討伐と称して、侵略を開始、屁理屈を付けて ドンドン戦線を拡大し、遂に翌1932年満州((現中国、東北地方))全域を占領、、、、先に1912年孫文らの辛亥革命によりラストエムペラーとなって日本に亡命していた、元清朝皇帝溥儀氏を、執政とさせて満州国を建設させ自ら皇帝の座に着かせ、日本の軍国主義の手先となる、傀儡政権付きの属国を作り上げたのでした。世界の諸国は、ドイツも含めて猛烈に反対、国際連盟の決定に従いリットン調査団を派遣、張作霖の爆殺も侵略開始の口実としてのマッチポンプ行為らしいの心証、との公式報告に、1933年3月、国際連盟は、日本の満州撤退勧告を42対1で可決。直ちに日本に勧告。同月27日、松岡洋右代表は、国際連盟脱退演説。こうして少数派の思い上がりから端を発した大陸へのごり押し侵攻が思わぬ大勢を傾けさせてしまって日本は世界の孤児に。

こうして、国際連盟脱退後も僅か数日後に、日本軍は山海関の万里の長城を越えて中国北部に進出するなど世界中の非難囂々の中をも省みず、もうどうにも抜き差しならない戦線の拡大を敢えてしてしまい、、、、この1931年9月18日から15年の長い侵略戦争に突っ込んでしまったのでした。

 一時は、この北部中国の軍隊を満州に引き上げるのですが、ソ連軍のウスリー河越え演習に挑発されてノモンハン事件が起きたりして、空中戦も戦車戦も手ひどい痛手を受けるのですが、国民には知らせず、ただ時を稼いで、体制を立て直すのです。

 次の、中国北部での、マッチポンプ挑発行為、廬溝橋の銃弾1発、事件を口実に、中国内部へと侵略を進めるのが、1936年7月7日。世界中から囂々の非難も聞く耳持たぬとばかり戦線を拡大、、、、アメリカ(A)イギリス(B)中国(C)オランダ(D)((現インドネシア))等の四周囲からの経済封鎖は「ABCD包囲網」と呼ばれ、年と共に加重されて、日本は物資欠乏に追い込まれ、益々牙を剥いて侵略してでも物資調達せざるべけんや!、、、の強硬派が勢いを得てくる始末。

 こうして、遂に、1941年6月、アメリカが最終通告、、、、1ヶ月後までに戦線を縮小せざれば、全ての通商条約及び取引約定を破棄する、、、、に至って、軍部も天皇御前会議を持ち出し、これを繰り返した形にして、遂に開戦を決意したかに見せかけ、同年12月8日、ABDに対し奇襲を以て開戦したのです。15年戦争として見ると、もう最後っ屁の破れかぶれの段階、解決の宛のないまま突っ込んだとしか見えないのです。

 当然の帰結としての敗戦。1945年8月15日。得るモノは無く大きな代償。これが、15年戦争の収支決算表。其の、歴史的突入の一瞬が、9月18日だったことをお忘れ無く。

戦中戦後こぼれ話:森繁久弥と東海林太郎

 「雲の上甚五郎一座」は知らなくても、じゃあ♪・・・知床の岬にハマナスの咲く頃、想い出してお呉れよ、俺達のことを、、、とまあこんなに頼んでいるじゃあありませんか?俺達のって?、、、何か問題でも?、、、其の森繁久弥と切っても切れない、直立不動の赤城の子守唄歌手東海林太郎を想い出してみましょう。森繁氏は、自分で「役者だから馬の骨で結構」と出自を語りませんから戦前満州紡績から新京放送局に入ってアナウンサーをしていた人、としか云えません。東海林太郎氏は本名で、別稿にも書いたように私の父と大学で同級生だったと言いますから、かなり判っています。

 早稲田大学商学部切っての秀才総代で卒業、当時飛ぶ鳥落とす勢いの財閥商事会社三井物産(株)に入社、然し入社試験も失点なしの成績優秀が、人生の岐路、当時三井物産人事部の中にあった「満鉄調査部」に配属された。ここは知る人ぞ知る日本の大陸進出を頭脳的に調査計画実行する、日本のトップエリート頭脳が民間1企業の隠れ蓑の中で飼養されている集団だったのでした。部員の99%が、東京帝大恩賜時計卒業者。(各(7)学部首席(総代)卒業=金時計;2位-10位卒業者=銀時計;蓋の裏に卒業年次と学部氏名が刻印された恩賜(天皇から下賜)の懐中時計を貰う慣行があった。その人達) その中に成績優秀とはいえ、唯一人の私学卒業者。折に触れ事に触、居たたまれなかったらしい。現地満州勤務を希望して満鉄は満鉄でも満州製鉄(鞍山)に出向して悶々の日々。ある日耳にした新京放送局でアナウンサー募集の話。わざわざ新京(現長春)迄私費では行かれず、応募書類も遅れ、やっと出張が叶って行ったとき実は既に補充は出来ていたのに気の毒がって面接してくれた先輩アナが、森繁久弥氏。

 「きみ、お茶汲み出来るかい?」「ハイ出来ます」、、、このやりとりが、決め手だったそうだ、中国人を雇おうとしてさえ、お茶汲みでも放送局なら給料は高かろうと直ぐ先ず「イクラクレルカ?」が先立ったと森繁氏は述懐する。

 臨時雇いで、お茶汲みと稀にアナウンサーのピンチヒッター、給料は「時間給組立払い」と森繁氏が名付けたという。新京での邦人の生活費は高くついたという。正に生き馬の目を抜くというのは東京でなくて新京と言うべきであったと東海林氏。何かの弾みに「深川節」を口ずさんだのが森繁氏の耳に留まり「今度慰問団が来たら、役者にでも唄歌いにでも売り込んでみなよ」が事の起こりと言う。

  • ♪・・・白鷺は 小首傾げて 水の中
    ・・・・私と お前は ホンにそれそれ そ じゃないか
    ・・・・ピイチクパアチク 深いー 仲ー
  •  戦後、高田浩吉(若島津、現部屋持ち松ヶ根親方、の岳父)が「新深川節」として流行らせましたが、戦前、東海林太郎の30歳での歌手としてのデビュー曲も同じ「新深川節」。満州事変も一段落した1932年8年振りに一時帰国した、東海林太郎は、或るレコード会社のオーデイションを受けて即刻合格、日本に留まって歌手デビュウしたのでした。そして、、、、時正に辰巳柳太郎「島田正吾新国劇隆盛期国定忠治」「名月赤城山」の大ヒットに乗っかって「赤城の子守唄」が不朽の名曲に。

     一方の森繁久弥氏、戦後満州から引揚者の苦労人並みに引揚げてきて、しかし放送局の人脈頼りに、NHK(ラジオの時代よ)の放送劇のちょい役などにもこまめに顔を出す。ラジオの娯楽帯番に楠トシ江、三遊亭小金馬の金ちゃんと久(きゅう)ちゃんとして出てくるのが準主役の座のハシリ。まあドタバタ喜劇。元ちゃんとした放送局の制式アナウンサーが、40歳過ぎて剣道6段の若者とドタドタやらされていたわけですから、、、、「お茶汲み出来ますか?」「ハイ出来ます!」の心境だったに違いありません。立場が入れ替わって、お茶汲みもした東海林太郎が、この引揚げ苦労の森繁先輩を放って置いたはずがありません。同じ番組に出ることこそ無かったようですが、黒白テレビの初め頃までは、蔭からそっと力を貸して売り込んでいたようです。こうして森繁久弥氏は、映画の社長シリーズなどで売り出し、淡島千景を恋女房に、好演した桂春団治、、、、で押しも押されもせぬ役者にのし上がったのでした。 あの、恋女房小春に「おばはん、、、たよりにしてまっせえ、、、」と大阪弁で言う終り近いシーンは、何と表現したらいいのか、男の色気たっぷりで、森繁以外の俳優に演じられるとは思われないモノでしたね。

     それぞれの分野で、それぞれ一流の大所となった二人ですが、一人は当時の若者なら誰しも夢見た大陸浪人(当時は支那浪人と言った)に憧れ満州に渡った男、もう一人は優秀な頭脳でありすぎて環境に填り損ねて満州でスピンアウトした字余り的な男、と大違いですが、、、、地獄からでも這い上がるぞ !、、、虐めも安月給も糞喰らえだ !、、、と言う1点では共鳴していたと思われます。

     参考までに申上げますと、満鉄調査部について概要をお知りになりたい方には、何処の文庫本だったか忘れて恐縮ですが、草柳大蔵著「満鉄調査部」(上中下か上下か分冊でした)が読みやすく解りやすい好篇でした。


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