西東京の話(4):田無と保谷の合併話。

 これは一般的な市町村の合併話とは言えないかも知れない。日本が明治維新を成し遂げ、幕藩時代に諸外国と勝手に結ばれたかなりの不平等条約を近代的な借款に置換え、且つ平等条約に書き換えて、名実共に近代独立国家の形と対面を整えることが出来たのは、明治23年10月5日のこと。このことのなる日を待ちわびて明治政府はさらなる日本国の行政の合理化を模索していた。一方では、道徳国家、教育普及国家への指向でありこれは急がれて同月30日の明治天皇の詔勅教育勅語の渙発となってスタートした。行政の合理化つまり地方の市町村の細かい区割りを外して今言う郡単位の郷組織化も検討された様で明治23年東京府下の殆どの村に、隣村との合併の都合如何かとの下問がなされている。納税分限者の税の一部によって各村の経済が運営されていた時代でしたから各村の利害対立は覆うべくもなく殆どがにべもなく謝絶されこの企ては時期尚早としてお蔵にはいる。戦前は、貴族院・衆議院の2院制というモノの、勅撰議員と多額納税者による選挙制で、納税しない低所得労働者層に選挙権はなかったのです。

 敗戦によってGHQの勧告により先ず普通選挙次いで女性参政権を認め、社会党内閣誕生で農地解放が実現して小作制度が廃止され小作者は、不在地主から国が只で没収した農地を坪1円44銭で購入することを得た。これによって始めて明治政府が模索した行政の合理化に向かう足場が出来るはずだったのです。日米行政協定に基づいて昭和29年「町村合併促進法」成立、これに基づく「東京都町村合併計画」の策定についての都知事の諮問に対しこの地区は「1市3町合併」(武蔵野市、保谷町、田無町、小金井町)を要望する旨の答申を行ったのが最初でしたが、しかし都側も自治体側も動かず終わり、その後昭和38年ヒバリが丘団地の2町に跨る巨大団地問題から、合併問題が議論されましたが団地外は冷淡冷静。更に昭和40年団地外も巻き込んでの議論成功、いざ準備まで行ったとき妙な横やり「その名前待った !」田無町、保谷町の合併市名が、「ヒバリが丘市」しかし耳から聞けば「ひばりが可笑し」と変わらなく聞こえおかしいと、美空ひばり後援会東京西支部から抗議有り頓挫。それぞれの町から市に昭和42年1月1日昇格と言うことで治まったのでした。

 少子化、高齢社会などの社会環境の変化から合併の議論が始まり平成10年2月、任意の合併推進協議会設立、議論は一歩前に出、平成11年10月法定合併協議会に移行設置、本格合併計画策定、平成12年7月18歳以上の市民を対象に合併の賛否決める市民意向調査を投票形式で行い、両市とも、合併賛成過半数を占めたことを受け両市議会で合併を可決し同年8月の合併申請書の調印、都への申請書の提出を経て平成13年1月21日合併が実現しました。

 尚、1月21日という日にちは、合併が21世紀の第1年に出来たことの記念の意味を持たせたモノだそうです。念のために書き添えます。


西東京の話(5):第二次大戦下の田無

 昭和に入って、土地改良と共に電鉄会社の沿線開発が流行した。又この副業が始まらなかったら、私鉄の路線敷設開業が戦前ここまで進んだで有りましょうか。関東では、千葉で京成電鉄が、北関東では東武、秩父地域で秩父鉄道、東京南部から横浜に掛けては東京急行電鉄が、神奈川で京浜急行と相模鉄道、小田原箱根で小田急と箱根登山鉄道が、そして三多摩地区から埼玉西部に掛けて、西武鉄道がこの時期路線を延ばし、沿線の住宅地開発をしたからこそ今日の町と、そしてそれを繋ぐ鉄道が存在すると行って過言でない。戦後に出来た鉄道は地下鉄が主体で、高架化・複線化などはされたが田園都市線をのぞいてさしたる鉄道路線の敷設がなかったのも特徴的です。

 私鉄路線と土地開発の中で西武は若干立ち後れ、小くぶんじから川越までの間は縦横に路線を張りましたが、後は、これらとそれぞれ高田の馬場、池袋の間をつなぐのがやっとでした。これが戦後も電車で南北に繋ぐ路線がないことが恨めしい原因になりました。と言うのが、西東京の話(3)に書いたように明治ご一新後間もなくの頃からこの保谷や田無の荒れ地は広大な地筆のまま日本橋の某不動産屋が落札したまま手放さず、西武もわずかに線路用地を確保するのが精一杯だった経緯があるようです。小作農が細々と麦や芋や野菜を作っていて春にはヒバリの囀りが松林や櫟林に木霊するそんな長閑な風景だったのです。

 昭和6年9月満州事変が始まっても何も変わらず昭和11年7月戦争が中国北部に広がっても未だここにはさしたる変化は無かったのですが、翌12年ついに軍用品の工場の拡大がこの地の芋畑を突如工場に変え始めたのです。軍用飛行機の設計レベルが世界的に達し、漸く軍も国産機の大量生産をはかる方針を打ち出したのですが、エンジンの製造精度がいまいち職人芸に頼っていたのが、中島飛行機のエンジンが小型ながらどうにか量産レベルに達したのです。三菱の機体にも中島のエンジンが採用されるにいたって、荻窪工場だけでは間に合わず武蔵野工場がこれに当てられ、エンジンの試運転兼仕上げ整備工場が田無の北部の松林と櫟林の中に作られ、翌13年にはその隣接地にエンジンや潤滑、燃料ポンプなどの鋳物や鍛造工場が造られました。14年にはチュウタンコウバ、と言う呼称を嫌って「中島航空金属」と言う一丁前の会社名になったそうです。850馬力の空冷発動機が殆ど不合格無しでここで最終組立整備されて、各飛行機会社に毎日百台以上出荷されるようになる頃、町ではアメリカと戦争になるとの噂が流れ、買い溜買い占めの監視に警察が目を光らせ、非国民呼ばわりが始まったそうです。暑い夏、それが昭和16年だった由。そして軍事教練場が出来、診療所が出来た頃米英と開戦、新聞やニュース映画に出てくる飛行機のエンジンが殆ど中島のチュウタンコウバやエンジン工場で作ったモノなので、田無の人たちも鼻をうごめかしたモノだったそうです。そのころ中島航空金属の診療所長だったのが、戦後ラジオのクイズ番組で有名になった、医学博士で画家の宮田重雄氏だったそうです。チュウタンコウバの人たちは、食糧の配給に異常な不満を持っていて、軍の監督官に毎日文句を言っていたそうです、我々は人の何十倍も重いモノを朝から晩まで運ばされているのに人並みの2合3勺の5割り増ししか配給がないのはおかしいと。これには軍が答えたそうです。配給を増やすのではなくて、軍が土地を借り上げ、東久留米駅からチュウタンコウバまで引き込み線を敷設し、西武池袋線に貨車が投入され重量物運搬の仕事の半分以上が貨車に置き換わったそうです。貨車の数が増えることになり、エンジン工場までレールは延長されたが電気が足らず、エンジン工場の人たちは手で貨車を押して、チュウタンコウバまで押していたと言うことです。いかにも当時の日本の国力の限界を知る話で笑うに笑えません。この貨車押しのために昭和19-20年には、谷戸と保谷国民学校の5年生と6年生が動員されたこともあるとのことです。

 戦後引き込み線は西武が架線を外しましたが線路は赤さびて残っていて、東久留米、保谷、田無3個町にわたる日本最初のマンモス都営団地の建設に際して十分運搬役としての2度目の御用に立ったようでした。チュウタンコウバは2転して今日本重機、宮田画伯の診療所は今の田無病院、エンジン工場と軍事教練場は小学校としてかすかに偲ぶよすがを残しています。


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