一寸一言:「真空管の伝説」*註)に。

 此の本は、1933年生れの著者が真空管時代のラジオにまつわる事どもを後世に残そうとするいわば貴重なメモなのですが、1932年生れのパピイから見て「ホホウ、そうでしたね。」ということが多い反面「チョットマッテ、一寸待って、play back,play back、、、」がいくつか有ります。まあ大抵のことは、見方の問題でもありますので、看過して判定を後世の歴史考証に任せるのも却って良いかと思いますが、此の本の記述自体が、考証に使われると一寸問題だね、、、という部分もあり、一言補足しておくのが親切というモノかも、、、を記しておきます。

 同書 54 ページ「アンテナとアースの話」の章の冒頭、「消えたラジオ用アンテナ」の項。

 昔、大正末期から昭和の初め、ラジオ放送が始まって、放送局の数も限られ出力も弱く、受信側は、鉱石ラジオが主体で、放送電波のエネルギー自体で、レシーバー(当時のヘッドフォンをこう呼び慣わした。パピイ註)を鳴らす仕組みであったため、電波の取り込み通路であるアンテナとアースは、必須で大切であった。竹竿や木柱を建て高く長く銅線を張ってアンテナとし、湿った地面に、なるべく深く穴を掘ってなるべく大きい銅板やアース棒を何本も入れ周りに木炭を目一杯埋めて土を掛け、可能な限り良好な接地を心がけて、ラジオの受信は始まったのでした。

 真空管というモノが普及し始めて、真空管ラジオが自作されたり、セミプロやプロによって作られて売られたりし始めますが、A電池(フィラメント用)・B電池(プレート電圧用)((今もB電源の言葉は残る))・C電池(グリッドバイアス用)の電池ラジオ時代はアンテナとアースは必須でした。ややあって、ヘテロダイン、インフラダイン、オートダイン、など組合せ回路で感度を上げたり、放送局が近くに出来たり、放送局が増力したりすると、屋外の高いアンテナが必要なければ枠型のループアンテナや屋内アンテナで代用されることもある状態でしたが基本的にはアースとそしてアンテナが必要でした。

 此の本の著者が、書き落としている乃至は書き間違っている最大の問題が次です。戦後は、高い、長いラジオ用の受信アンテナを見ることが無くなったのですが、此の理由として著者は、トランジスタラジオになって内蔵のフェライトコアを用いたバーアンテナで受信できるようになったからだと書いているのは、一寸不勉強でないのと言いたい。電気回路だけに、、、それは「短絡」に過ぎるのでないのと言いたい。

 多くの方が未だ覚えていらっしゃる。アンテナが無くてもアースさえ有ればラジオはバンバン鳴った時代があるのですよね。A 電池(鉛蓄電池を多用): B電池(105Vや67.5Vの積層乾電池を使用):C 電池(平角3号だったか、4.5V乾電池使用)の電池管ラジオを高価な消費の激しい電池から脱却させようと工夫がなされたのです。

A:電池管の交流点火、検波管以外はハム・バランサーで克服。
検波は鉱石検波を使用。鉱石と雖もゲルマではない、方鉛鉱(ガレナ)。
何年かして、傍熱型真空管出現で根本解決。
B:始めは「ケミレク」で。アルミ明礬液の中に磨いた純アルミ板を二枚対向し て入れる。
アルミ箔電解コンデンサーのエッチング製造と同じ原理で交流を整流出来る。
3極真空管を二極接続にして整流。やがて、整流用専用2極管出現で根本解決。
C:フィラメント・ハムバランサーのバランス中点とアースの間にバイアス抵抗Rと
バイパスコンデンサーを入れてグリッドバイアス電圧を作ることで解決。
0.060ppm以上大変汚れている

 とA/B/C三種の電池をいずれも省略(エリミネート)して電灯線交流で三電源を賄う様にした。これを世に「エリミネーター」交流ラジオ又は「電灯線ラジオ」と呼んでいる。

 こうした苦労の甲斐有って、ラジオといえば、電灯線に繋いでアースさえ繋げば鳴る時代になったのです。殆どブラックボックス化して、高くて長いアンテナは忘れられたのです。此の受信方法は、「電灯線アンテナ」又は鹿爪らしく、「アース・アンテナ」と呼ばれておりました。交流電源から整流して電灯線と繋がったので、日本の電柱配電が幸いしてラジオ放送波を電灯線が拾い、電源部を高周波的に誘導容量通過してシャーシに落ち、アンテナコイルを逆に流れてアンテナターミナルに繋いだアースへと伝うというわけで、電源の交流化が、ラジオ受信専用の高い長いアンテナをもエリミネートしたのです。何も戦後トランジスタ化してアンテナがバーアンテナ化して姿を消したのではありません。電灯線ラジオ時代から段々姿を消したのです。

 このため、電灯線ラジオでは、アースだけを、アース端子でなく、必ずアンテナ端子に繋ぐのが常識化していました。上記の理由によるモノで、アースアンテナとはよくぞ名付けたモノです。以上一言。

一寸一言:サイパン放送(中波)は1010kc/s

 此の本に何度か出てきますが、著者自身はどうも受信したことがないように思われてなりません。もし本当にラジオ少年であったならば、この時期、たとえ非国民といわれようとも、内容には目を耳をつぶるから、、と念じながらダイヤルを回してみる誘惑には勝てなかったはず。そうすれば、此の本の歯切れの悪さがいくつか消し去れるはず。

 サイパン放送は、NHK*)の放送周波数に合わせた、、、とか、ビートするから50サイクルずらしたとか、甚だ不得要領の、とても放送局のマイク技術者とは思えない記述は拭い去ることが出来た筈。兎に角ズバリ言えば、サイパン放送は中波では、1010Kc/sサイパン放送自身が明朝、明晩又此のテンテンキロサイクルでお会いしましょう、と決まり文句を言っていたのだから一度聞いた人は此の周波数は忘れられないはずです。昼間の放送もあったようですが、中波では、スーパーヘテロダインのヴィクターのエレクトロラでも無理でしたが、夜間は強力で、名古屋の在で、並四(ナミヨンと読む。227-226-201A-112Bいずれもナス管)でも再生を発振直前まで効かせば何とか受信できました。むろん、前項で解説のアースアンテナでです。東海防空情報(名古屋JOCK)は730Kc/s。

 東京ローズの蠱惑的なヂスクジョッキーやジャズ番組は、中波では希で、5メガ、9メガの短波放送では殆ど一日中放送していたようです。短波受信は、戦前はオールウエーブ等短波受信できる装置を作って売る方と買って聞く方のほぼ共同責任の届け出制で、メーカーなど何某が、買い方誰某に売り渡し誰某が何町何番地に設置した旨届ける必要があり、その副本を当該ラジオの箱裏に表示する義務がありました。従って、開戦のの1941年12月8日か9日には、内務省令で、短波封鎖令が厳重指令され、警官と憲兵が帯同で、このところ番地に踏み込んで、短波用のコイルをむしり取って、中波だけ受信できることを確かめていったようです。叔父さんの虎の子のヴィクターのラジオエレクトロラも、ご多分に漏れず、バンドスイッチがペンチでへし曲げられ、短波用のコイルはもぎ取られ、中波用だけがぶらりとなって、それでもチャンと鳴っていました。

 実は、スーパーヘテロダインだと、針金一本で、中波用コイルが付いていれば、短波の一部分は立派に受信できるのでした。ラジオ少年ならこれに気付いて試みたヒトは何人もいたかも。スーパーのグリッドの同調コイルをアンテナコイルで短絡するのです、一本の針金で、アンテナコイルにA1又はA2ターミナルにさして他端を同調バリコンに繋がっているグリッドコイルのターミナルに巻き付ける。これだけ。バリコンを回していくと、周波数は不明だがバンドの何処かでいくつかの短波局が受信できるのです。これがスーパーヘテロダインの長所でもあり同時に短所でもあるのです。ラジオ少年なら、局部発振が、数次の高調波も発振していることを知っている。そのどれかの波と中間周波数だけずれた所にもし強力な放送波があれば、グリッド回路の同調が若干離調していても、充分に受信可能であることが理解できるでしょう。戦前日本に輸入されたヴィクターのラジオロラやラジオエレクトロラなどの電蓄などオールウエーブには、中間周波数が、163Kc/sのモノと、463kc/sのモノとがありました。この463kc/s中間周波数のモノなら軽々と昼間の東京ローズのサイパンの短波放送を中波のコイルだけでも針金一本で受信できたのです。警察や憲兵隊にはラジオ少年がいなかったということでしょう。実際、叔父さんは一度だけやって見せ、理屈は教えてくれませんでしたが私には、うん、うん、なるほど、なるほどと百聞一見に如かずでした。因みにスーパーヘテロダイン方式を考えたのも、同調回路発明のアームストロング教授でした。

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*註)「真空管の伝説」 木村哲人著 筑摩書房 刊 ちくまプリマーブックス145
全194ページ定価(本体価格1200円+税)2001年5月25日発行
* 真空管ラジオ時代のことどもを記した、かなり貴重なメモです
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*:)NHK 戦前戦中NHKといったか?
----- 昭和17年、大政翼賛体制の産物。それまでのJOAK(東京)JOBK(大阪)JOCK(名古屋)のそれぞれの法人を合同せしめ日本放送協会とし、政府所管とし統制し易くした。英字で書く必要ある時は文部省訓令式ローマ字で表記し略号はその頭文字「エヌ・エイチ・ケイ」で表示するも可なり。の但し書きアリという。説明には、「エン・エッチ・ケー」などの不確かな表記はこれを許さずと有るよし。笑い事ではなかったのだ。反すれば非国民の時代。因みに同書には、東京「都」が乱用されるが、殆どが正しい。なぜなら、都政が施行されたのも昭和17年10月1日、但し東京府から引き継いだままの35区制であった。22区更に練馬区を入れて23区になるのは戦後。GHQ占領下。


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