戦前戦後アマチュア無線史(1):日本の戦前の「アマチュア」(?)無線(1)

 表題に「戦前」としたのは問題。世界的共通認識でのアマチュアラジオとしての無線が、戦中は無理として戦前の日本にあっただろうか、やって居られた方の中には、胸を張られるお方と、うーっ、あれはなあ、、?と唸られる方とがおありのようです。

 電波通信に関する法律とそれを開局していた局との関係から言っても、戦前のそれは、アメリカのアマチュアラジオをのぞいては、各国ともかなり戦後のモノとはギャップがあったようです。日本も例外ではなく、アメリカのアマチュアラジオと交信しようとするなれば、法律上「私設無線電信電話実験局」なる基準を満たし、資金源まで明記し、且つ、誰某を通信士に選任するかの届けを添えて免許申請し、書類審査の後仮免許、落成検査に官憲が来て、通信士の技両(CWの送受は勿論技術的法律的知識の程度などを含む)テスト、電波の技術基準点検検査、高圧絶縁処理検査、空中線の位置の確認並びに避雷装置の検査、接地の確認検査等の厳しい審査検査をパスして始めて1x2のコールサインを指定されて、本免許された。戦後と大きく異なるのは、アマチュア無線に係わる通信士資格はなく、落成検査の際、CW送受試験と、技術・法律に関する口頭試問があった。又資金源、背景について詳しく報告義務が課されていた。スパイ予防令である。特高警察が付いての検査もあったと聞く。戦前のアメリカも含むアマチュアの動作を許された波長帯は、40m/20m/10m/5m(56-60メガ)であった。後にアメリカがノビス級のために開いたバンドが、80m, 15m等であり、主に戦後本格的に使われるようになった。戦後5mが、6mにシフトされたのは全く別の理由*による。又戦前アメリカでは、5mの、Tri-Tet発振(3倍-4倍を発振させる回路)周波数(160メガ及び230メガ付近)を研究用に解放していた。

 勿論この私設実験局免許制度を使えば、世界のアマチュアラジオ局と交信することは可能だったので、アマチュア無線と言えば言えないことはないのだが、運用時間を始め、法的制約の厳しさは戦後の比ではなく、他の無線局並で且つ実験義務報告事項が免許の条件でもあったようです。

 昭和の初めこの実験局が制度として出来る前から、草間貫吉氏以下、十数名が関西そして関東に現れ、野放し自己規制時代の電波を発射して楽しんでいたらしい。Jで始まる横文字4個の呼出符号を用いていたらしいが、世界の電波を聞きつけるに至って、次第に自己規制的彼等のルールに習って第1文字は、6大陸を表し日本はA(asia)、続いて国符号J、エリアナンバー草間氏は独断で関東を1,関西を3とした。

 最後のいわゆるサフィックス2文字はイニシャルなどを使ったようです。草間さんが暫定的に国際的に使ったのは、AJ3KKだったようです。現在アメリカにお住まいの三浦さんがAJ3Mと言うコールサインをお使いですが、猛烈にレトロな昔に日本関西でお使いだったらそのまま有効な、、、だったわけ。但しサフィックス1文字というアイデアが当時受け入れられたかは疑問。

 40mの電波が、大西洋を越えて、欧米間を結んだ最初の仏米の両局のコールサフィックスは忘れましたが、プレフィックスは、仏側がEF5、米側がNA3だったと記憶します。この自主規制時代のコールサインです。

 日本のこのコールエリアは官許による免許のJプリフィックスに続くエリアナンバーとして引き継がれました。然し、1932年の万国無線通信連合アトランチックシテイー会議で、フランスの主張により、1と0ゼロは、官免許局用として確保し民間局には使わないことに決まり、日本のJ1関東局も官関係の局をのぞいて、民間局はJ2に再割になったのでした、昭和8年以降は、私設局は関東&東海とくくられてJ2,となりました。戦前の関東でJ1コールをお持ちの方は、昭和7年以前の免許で、殆どの方は、J2コールもお持ちです。このアトランチックシチーのこのフランスの代表の発言の「官製局」は、アメリカ代表団の失笑の的となったそうです。当時アメリカの平時組織では、官が無線局を経営するという考えはあり得なかったのでした。通信を取り扱うのさえ、民間委託の委員会形式だったのです。日本やフランスが戦前も今も官僚跋扈の社会であると言うことを示す良い例ナノでした。

 アメリカはこの決定に従わず、W1,とK0を使い続けたのでした。WとKの使い分けはご存じですね?ミシシッピイ河を挟んで、東がW西がKの時代。


 *)註:戦争直前ドイツで開発され唯一の超短波用高圧絶縁物として重宝された、ステアタイト磁器が、戦中の実用経験から、工業規格的には、52メガが限界であろうと結論付けられていたことを理由に、アマチュアに好意的にこの周波数前後の50メガからの4メガ帯にシフトされたモノ。因みに日本の戦時中の猿真似ステアタイトの粗悪品には28メガもおぼつかないモノが散見された。

戦前戦後アマチュア無線史(2):戦前 日本アマチュア無線連盟の発足と活動

 何年の何月に、は、それなりの根拠ある資料に従って下さい。兎に角法律より先に、電波が出され、自主コールが叩かれ、海外交信がなされ、そしてある日、関東ハムと関西ハムが合意して、日本アマチュア無線連盟なるモノを作って、海外に対抗していこうじゃないか、詳しくは、段々話し合って決めていこうじゃないかと言うことで、前述の関西の草間さん辺りが音頭をとって、兎に角出来田のが昭和2年の暮れ近くだったと伝え聞いています。6-7人がそれぞれ手分けして、キイを叩いてJARLが出来たぞう、日本の局達もグループを持ったんだ、と言うことを世界中に報せたのでした。それで各自元気は出てきたという、然し、日本にも法律が出来、逓信省が短波受信機を何台か設置して、日本の空を聞き耳を立てるに及んで、それまでの法律でカヴァーされていない、いわゆるアンダーカヴァー局、略してアンカバ局は次々呼び出しを喰うことになった。そして法律が出来たことを知らされたのでした。「仔薯より親薯が後から出来るのは八つ頭ばかりだ」と言う喩えがありますが、後から法律が出来て急に官員様に取り締まられる、そんな目に遭ったわけです。戦後もサンザッパラ、アンカバは取り締まられたようですが、随分その立場を異にしてい

 「官員様」である政府役所の決めることには、天皇のはんこがあり、これに逆らうことは、天子様に逆らうようなモノとされた。決まりの中での活動である。日本的には、毎時15分からと毎時45分から3分間ずつの沈黙時間があり、国際的には、毎時30分から33分までが沈黙時間で、この間は、通信を止めて、聴取に入らなければならなかったし、もし少しでも沈黙時間にキイを叩いてしまったならその事実を、毎3ヶ月に提出する運用日誌抄録に間違いなく記載せねばならなかった。戦後のアマチュア無線局には、沈黙時間遵守義務は課されず、日誌抄録の提出義務は課されたが、合計運用時間と長期の運用休止(月に跨るほどの)の場合の記入と記述で良かった。34年法改正で、アマチュア無線局が、アマチュア局と改制されて、運用日誌抄録の提出義務はなくなったが。事ほど左様に、戦前の法的取締りは四角四面で官員様風を吹かされたモノらしい。

 そんな中にあっても、コンテストを試みるなど、結構イベントも企画していたらしい。そして昭和5年名古屋の人たちの発案で、会員名簿を纏めてみようじゃないかという声が出、翌6年から、J3DE和歌山の本屋さんで篤志家(現代語=ヴォランテイア)宮井宗一郎さんがガリ版で刷って会員に無料で配ったのが、日本に於けるコールブックの嚆矢とされる。宮井さんは毎年名古屋の会員諸氏の協力でデーターを更新しながら昭和15年まで、10年間この名簿の発行に渾身の力を注がれたのでした。後半の6年間は活版刷りのパンフレットだったとも言われています。この間1936年にはベルリンオリンピックでナチス・ドイツが国威発揚を狙って、序でにあらゆる分野で、世界のイニシャチヴを取ろうとし、無線通信、超短波の伝搬研究を世界的に集中して行おうと提案し、翌1937年夏に14メガの高調波を28メガ及び42メガで、又、28メガの電波の高調波を56メガ及び84メガで送信及び受信するマラソンコンテストを行い、これにJARLも友邦国として積極参加している。この「高調波の受信」で超短波域の電波伝搬を調べるのが、戦前の超短波の研究手段の大きな特徴であったのでした、このためCQを発するときには必ず基本波の波長をCQにくっつけて発する、ハムバンド特有のCQコールが定着を見たのです。これがないと、基本波を聞いているか、高調波を聞いているか、の区別が出来ないわけでしたから。昭和12-13年がサンスポットサイクル17のピークだったのでした。未だに何故か「CQ 40メートル」、、などと分かり切った波長を呼称する、風習の原因がこんな所にあるのです。ベルリンオリンピックは、、、「、、勝った勝った、前畑勝った勝った、、、」だけでなく、「CQン0m」にも深く係わっているのでした。

 戦前、CW特に和文を叩く職業婦人が結構居ました。郵便局の電報係の電信技手です。然し、戦前アマチュアとして第1号YL局となられた、杉田千代乃嬢は普通のお嬢さんで、局免許申請されたお兄さんが急逝されて、急遽遺志を継ごうと一念発起されて、半年の勉強で見事に落成検査に合格された方でした、惜しいことに21世紀を待たず、昨年お正月に、サイレントキーされたようでした。日中事変下では、アマチュアは、報国無線隊、と改称されて、今言う社団局的に軍や民間の大演習などにかり出されたようでした。「皇紀2600年記念」陸軍合同大演習が富士の裾野で、紅白対抗で行われ、昭和天皇が大元帥陛下で行幸されて、そのおそば近くで、報国無線隊が、電報を送受するのをつぶさに御覧になる(当時天覧と言った)と言うので、当時の職業CW婦人(電信技手技能大会婦人之部優勝)日本一が選ばれて報国無線隊に急遽参加しました。尾台妙子さんでした。これが、戦前のYL第二号。

 この翌年1941年12月8日英米との開戦の日、日本のアマチュアは、官憲によって、コイルをむしり取られ、全てを封印されて、戦前の巻に終止符を打ったのでした。

戦前戦後のアマチュア無線史(3):戦前戦中の著名・猛者ハムラジオ列伝。

 それほど多くの話は聞く暇がなく、多くの先輩がドンドンサイレントキイされた。知っているだけを掻い摘んで纏めておきます。

 J5CC:鹿児島、堀口文雄氏。戦前世界第3番でWAZ完成。DXCCオナーロール入り。東京帝大医学部学生時代に免許取得、卒業後軍医として南支派遣軍に従軍、XU8HHで、中国奥地からQRV、戦争末期、インパール作戦の高木「捷」挺団の軍医長として作戦参加、戦死、不帰。世界的にもその死を惜しまれた高名DXer。現在、JARLのアウオードに、J5CCカップがあり、One-day-WACの最短時間完成者がこのカップを保持する。堀口氏のコールを記念する。氏のCWのQRVのエピソードとしては、XU8HHから叩いて来られた[black band]事件が有名。彼は当時軍医。従軍看護婦さんの中に縫い物仕立て上手が居て軍医さんのために中国麻布地で浴衣を縫ってくれたので着たいが、black band が欲しい、我が家に電話なり速達なりして至急、軍事速達便で、送るように伝えて欲しい。とCW。ところが受けた方が「black band」って何だ?と言うことになって、何局か盥回しになった。電文を初めから読めば簡単にとける問題だが、「black band」だけが一人歩きしては何のこと?浴衣に締める黒い帯を送ってくれと言うことだったのでした。こんなのが存外難しい問題と有名になった。

 AC4TF:戦後のJA1ATFもこのコールのもじり:田母上不二男(AC4TF当時ペンネームと本名と取り混ぜ4つの名前を使用)氏:上海特務機関の通信長時代に、チベットでの正式QRVを敢行。当時の貴重なゾーン23を全世界にサービス。戦前世界で、3名のみがWAZを完成したが、全て、ゾーン23は氏とのQSOだった。戦後制定された5バンドDXCCを世界で第1番にミニマルチとトップロードのヴァーチカルで完成。戦時中、MX3(満州),MX9(外蒙古)などのprefixでもQRVされたが、戦後はチベット以外のコールは決して明かされなかった。大いなる反省を込めて居られたのだろう。

 MIT洋行組:茨木悟、梶井謙一(戦後JA1FG)、齋藤健J2PU(戦後JA1AD)の三氏。この順でマサチュウセッツ工科大学に留学され、帰国後それぞれに日本の無線界に貢献され、戦後も更にリーダーシップを発揮された。齋藤健さんの時代に、アサダアメ本舗の御曹司もMITに留学したが、音楽の都ボストンで、レコードに凝ってしまって工科大は出ず、、、、音楽評論家になった仁がいる、戦後ラジオ番組「話の泉」で蘊蓄を傾けた有名人、堀内敬三氏。その時代。

 J2KS:(戦後JA1KS)栗山晴二氏:郵便局長をする傍ら、早くから56メガの電波伝搬に特別の興味を持ってワッチされ、戦前既に無線雑誌にその成果を発表された。5mの電波が、気圧配置の不連続面に出来るダクトを伝わって伝搬する可能性を指摘した仮説を立てられ、自分のコールサインをもじって「キング・ソロモンの法則」と名付けられ一躍有名となった。戦後も6mで多くの人々によってこの仮説はかなりの確率で成立することが確認され学界の通説化している。戦前アマチュアの5mでの実験からこの「法則」が生まれたことに大きな意義を感ずるのは私一人ではあるまい。何しろ回路図や真空管が見える無線機やラジオの写真は見慣れたラジオ雑誌に、見慣れぬ低気圧と不連続線が書き込まれた気象図が何枚も何枚も示されたページが掲載されたことは古今東西を通じてこのキングソロモンの法則の発表を措いて他にはあるまい。今を去る60年前のことであったのです。

戦前戦後のアマチュア無線史(4):戦前の無線雑誌、書籍など

 これらの検証が結構難しい。その時代を生きたわけではないから。ただ、私たちの子供時代、親爺殿の書棚にそれらしきモノは見ている。そのそばの縁側の袋戸棚の下には、隠すように、ケミレクに使った上半があばたにブチャムクレ太アルミ板が入った、蓄電池のガラスケースが置いて有った。書棚で見た記憶を辿れば、無線やラジオ雑誌の名前は、「ラジオの日本」「無線と実験」などであり、分厚い塩基色の厚い表紙で紐綴じの講義録は、大井修三著「ラヂオ受信機故障修理講義録」だったと思う。これは終戦後、内容を国民型1号から4号A/B型迄に一新して「放送受信機故障修理読本」として、発売された。これ等は、戦前いつの頃からか戦後まで、放送協会認定の「放送受信機故障修理技術者」を受ける人のための講義録であったようです。

 このほか、昭和30年代JA4HLを開局した玉野市の勤務先の先輩が「私が持っているより貴方が持つ方が意義が深いかも知れない」と渡された書籍がありました。戦争末期、東京大空襲で東京で勤労学徒として働いていた工専の先輩が、学校も、勤務先も灰燼に帰してしまい、喰うモノもないから、船で海岸伝いに逃げてきた大事な本だが、食糧に変えたい、買い戻すまで、君に売っておく、、、、、。と売りつけて自分は又四国へ行ってしまってそれっきりだが、珍しい本なのだ。と。東工大教授、森田清著「超短波」奥付に拠ると、確か、昭和18年何月かの出版許可済みなのだが、当時は印刷用紙が統制払底。印刷順待ちで、印刷が昭和20年2月12日付、東京大空襲の日。印刷製本所にこの学徒は動員されていたのでした。僅かに製本を終わっていた何冊かの本を後生大事に炎の中から風呂敷で背負って逃げたのだそうです。ですから此の本はこの世に数冊しか存在しない実に貴重な本だったわけです。その学徒は焼き玉エンジンの船の操作を知っていた。それで本を出しに船と石油を調達残り3冊の本を抱えて金を払うから乗せろと言う人を乗せて何とか岡山まで逃げて来たらしい。ここで油が尽きたらしい。金さえ出せば和歌山の海岸なら油が隠されてはいるが、、、と言っていたという。

 兎に角こうして私はこの「超短波」という本を長いこと暖めていた。当時はコピーマシンなどはなかったからただ読むだけである。写して摺りモノにするには、こんにゃく版か、謄写版で、自分で鉄筆かスタンプインクで字を書かない限り刷りモノにする手法はなかったから。此の本には、戦前どんな方法で、外国でも日本でも超短波の研究が進められどんな成果が得られたか、沢山の写真入り説明図入りで、記述されていた。ドーバー海峡を渡った超短波、筑波山頂と東工大の屋上を結んだ超短波、そのパラボラ、、、。そして、別項に記した、高調波を利用して、世界的な超短波域の伝搬を調査する方法が行われた事、昭和12年にはJARLもその調査に積極参加したことも記載してあったのでした。

 この手の本が、昭和20年に印刷されたことがまさに奇跡に近く、但し用紙は統制配給の粗悪な酸性紙なので、60年経過した今は多分ページを開くこともかなわない可能性がありますが、残念な事に、度重なる引っ越しで、どこかに紛れ行方不明です。もし出て来たらどなたかスキャナーで、デジタル化していただきたい貴重な資料です。

戦前戦後のアマチュア無線史(5): 敗戦、占領下のJARLの復活とCQ誌創刊

 どっこいいきている、と言う常套句はもう少し後で、流行りますが、焼け野が原の東京では、関東大震災後になぞらえて大正末震災から立ち上がった江戸っ子達が歌った、江戸っ子節が流行りました。♪、、家は焼けても江戸っ子の、、、意気は焼けない見ておくれ、、、、

 「天佑を保有し萬世一系の皇祖を踏める天皇は、明らかに忠誠勇武なる爾臣民に、、、」開戦の詔勅の日、官憲の踏み込みにより、私設無線電信電話実験局も、短波長放送受信許可者の受信機も残らず、短波用のコイルは毟り取られ、機器、電源は封印され、電波は封止され、戦争に突入していったのでした。「進め一億火の玉だ。行くぞ行こうぞぐわんとやるぞ、大和魂伊達じゃない、見たか知ったかこの心,,,」こんな唄にだまされて、、、、蟷螂の斧の大和騙され、が、物量を頼むアメリカの前に完膚無きまでにやられるのに4年までは掛からなかったのでした。

 「朕茲に世界の大勢と、、、、あまつさえ敵は新たに新型爆弾を使用し、、、、」ポツダム宣言受諾・無条件降伏。終戦の詔勅にある、「、、、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、、、」事となった。喰うモノも着るモノも住む家も、、、、何にもない!時間だけがある。何かしようにも腹が減るのが生きている唯一の証拠。そんな毎日。先ず喰うモノを探す。そこからみんな動き始めたのだった。闇市には喰うモノも着るモノもある、金さえあれば、、、。道義は地に落ちる、百鬼夜行。進駐軍は、パン助姉ちゃんを抱えて、チュウインガム噛み噛み颯爽とジープで走りまくる。♪ 船底帽子の駐留軍、、とか進駐軍とか言ったけど、テイのいいまやかし。サンフランシスコ講和条約までは、英語で書けば、日本製は、made in occupied Japan に違いなかったのです。占領軍と言うべきだったのです。しかもこの占領下はスーパーコマンダーは陸軍元帥、マッカーサーでしたから、チャキチャキの軍政だった訳で疑いの余地はありません。A級戦犯の軍事裁判は小菅で、C級戦犯の裁判は横浜でそれぞれ開かれ、A級は気の触れた数人をのぞいて全員death by hanging まあ西部劇のリンチ並の断罪だね。然し横浜は違った。サンフランシスコの講和条約が発効した1951年12月有罪で刑に服していた全員が釈放された。C級でも既に断罪されていた数名には名誉回復措置が執られた。A級の絞首刑以外も翌年1月に釈放、然し断罪された人の名誉回復はなかった。

 この占領期間中、日本の空には、初めJ2xxx-J0xxxの1x3タイプのコールサインのアマチュア局が、そして、戦後初の世界無線会議で*1、ドイツと日本のDとJの1文字プリフィックスが取り消され、ドイツはDA-DMの2文字、日本はJA-JSの2文字のプリフィックスに格下げ決まると、JA2xx-JA0xxの2x2コールサイン:*2の局が現れていた。戦後日本のアマチュア局の再開は実に占領下で既に立派に始まっていたのです。これら占領下の日本の正式ライセンス局は占領軍の軍人軍属であったのでした。

 自由をはき違えた、日本人の中に、J1UXなど、戦前のコールに似せた1x2タイプのコールで電波を出す人があり、スパイ容疑で目を光らせている、米軍や、日本警察に見つかって、刑事処分された人もある。正式局でないこれらは、アンカバー、不法局であったのです。

 これより前の1946年、前年預かりモノの戦前のJARLの関係書類を東京大空襲で我が家もろとも全部灰にしてしまって失意のJ2OV香取氏が皆に詫びねば、、、と歩き回り始められて、JARLの復興と、GHQへのアマチュアの復活請願の話が始まり、JARLの戦後が始まった由。その動きの中で、戦前紆余曲折しながらも第96号まで続いたJARLの機関誌の復活を急ごうじゃないかの話が、J2JJの肝煎りで具体化しして来たため逆にJARLの全ての体裁を整えるのを急ぐこととなり、茲にJARLは復興し、且つ科学新興社という出版社の協力を得て、JARL機関誌の形で、CQ ham radio誌が創刊されることになったのでした。このご尽力に負んぶに抱っこ、JARLの事務局は当分の間、東工大のJ2JJ大河内研究室に居候を決め込むことに落ち着いた。戦後もこの時代は任意団体。戦後初代会長は、ナンってったっての著名人、アンテナの八木秀次阪大学長。実質会長たる副会長に同音姓の矢木太郎氏、事務局長専務理事大河内正陽氏であったようです。


*1)戦後解放され自治国や独立国となった国に割り当てるプリフィックスがないことから、敗戦国の制限の他に戦後建国したイスラエルの 4Xのように数字アルファベットタイプのプリフィックスが編み出された。1949年の4Xがこのタイププリフィックスの第1号。
*2)何故かJA1は使われていなかった。戦前からKA1は米領フィリピンに用いられていた。JA2以降が用いられたのは、日本に日本人局が出来たとき、米軍人局はKAプリフィックスに移行する伏線だったのだろうか?その時KA1を使わなくて済むようにか。


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