戦後のアマチュア無線史(6):日本人ハム再開への請願とJARLの動き

 終戦の年1945年9月閣議決定で短波聴取禁止の解除。然しこの後の電波行政をどうするかは白紙。12月、戦前の利害関係者、知識人に対して、放送、無線に対する意見を求める旨の書類が出る。JARLは直ちにアマチュア無線に対する規則案を添えて建議書を提出。政府側の狙いは、アマチュアなどにはなく、放送を官営1本とするか民放併用かの悩みであった。(アメリカは民放1本指向だから、、、)然しJARLはチャンスを前髪で掴んだのだった。翌1946年3月提出書類に対する聴聞が行われ、JARL側から、J2JJ大河内氏他が説明。然し逓信側は、アマチュア無線はGHQが所管とそらしたので、JARLはGHQに請願することにする。3月28日、GHQが請願を聴取することになり、JARLは会長八木秀次氏、大河内氏他が直接説明。担当官の手応えを感じて皆興奮したという。然し後年、反省したのは、この時GHQの担当が反応したのは、請願に対する応答でなく、アマチュア無線を既に占領米軍人に許可(例J2AAAタイプ)していることが今後にどう係わるかに気付いて俄に動揺を来したのだったらしいと判明。喜びは若干仙気だったのだ。(このころのJARL機関誌CQ誌のコールすハード欄に多くの1x3タイプのJコールが見える。)

 1947年10月戦後2回目のJARL総会東工大で開催、漸く正式の規則と定款を議題にして制定、体裁が整い始めた。

 1948年8月、戦後第3回JARL総会、東工大で開催、戦後始めて、選挙で理事長を選出する事とし投票の結果大河内正陽氏が選出された。JARL盟員にJ2-J8+3桁ナンバーのSWL番号(例:J2-222タイプ)の割り当て開始。然しタイミングが悪かった。

 この年、ドイツ、日本、傀儡国満州、降伏国(ドイツに)ハンガリー、リトワニア、ポーランド(いずれもドイツへ割譲国)スペイン(フランス属国化)の諸国が國主体不明の故を持ってIARUから確認除名されていたのだった。イタリアは除名反対を申し立て確認されたと言う。他は反対の申し立てもなく公告(exposure)期間を過ぎたので確認され除名されたモノ。日本のプリフィックスを折角J2からとしたが、事茲にいたって、事が起こった。世界無線会議で、戦後、新たに建国されたイズラエル*)が「i」の付くプリフィクスの部分割譲をイタリーに迫ったらしい。イタリヤはIARUにも確認存在を果たしたばかりであったので、Iのプリフィクス全部に既得権を主張して譲ろうとはしなかった。第2次大戦は、植民地独立戦争とも位置づけされていたか ら、今後も植民地が宗主国からの独立を果たした場合のidentificationたる、プリフィックスの取扱いが俄然話題となった。当然アルファベッ1文字又は2文字だけのプリフィクスは既に満杯既割当て済み、DとJを部分分割しても知れたこと。前向きに兎に角増やさねば所詮奪い合い。第1文字又は第2文字にそれぞれ1個だけ数字を混用することが提案され、イスラエルがトランプカードを引いたところ、4Xを引き当て、この手プフィックス第1号がスタートしたのでした。以後順序だてた割当基準が整備されたのです。この決定により日本のプリフィックスはjひと文字は放棄させられJA−JSが分割割り当てとなっていたのでした。国内でのアマチュアへの割り当てをにらんで、JARLがSWL番号J@-xxx3桁タイプの発給を停止したのが1950年5月、新しくJA@-1001からの4桁番号による新規発給を受け付けたのが6月、発給は10月1日からであった。駐留米軍のアマチュア局もいつの間にか、1x3タイプのコールから、JA2HQ等、JA2-JA0のプリフィクスで、2x2タイプに変わった。(例JA2HP;JA6AH(沖縄))遡って3月、東工大事務局から大河内研究室を含む全研究室にお触れが廻り、戦後復興もこのところ進んだことだし,終戦時は戦災で、本来学外にあるべき事務所がやむを得ず学内に居を構えた研究室もあるが、大学本来の関係学界連絡事務を除き、そろそろ学外退去を求めることとしたい、旨の通達があり、JARL事務所も大河内研究室に居候が出来なくなった。

 これより先、JARL機関誌として創刊したCQハムラジオ誌も、打ち続くインフレで値上げしても値上げしても会員数は伸びないため、立ち行かず1948年、10号を出すのに青息吐息、遂に休刊中であった。科学新興社に変わって肩代わりしてくれそうな出版社を、鵜の目鷹の目で捜していた。同社を呑み込んでビルから建てて出版業に参入しようと言う人が現れ先ず神田小川町のビルを借りて、CQハムラジオの効率的復刊の時期を狙っていた。1948年CQ出版社を興した鈴木氏である。氏は文京区西丸町に4階建てのビルを建てる計画を持っていた。JARLはこの計画も急いで貰うことにしながらCQ誌の建て直しを図ることになったのである。CQ社側の考えは復員者の中から有能な編集スタッフを探し出して起用する事で、技術内容の優れた無線誌としてJARLにとらわれず発行部数を延ばせば必ず成功する、JARLの会報に縛られ発行部数が限られては前車の轍を繰り返す、この枷を外して戴けば協力も吝かでない、で背に腹代えられぬJARLはこのの考えに従うことになって、JARLとCQ出版の長い道行き二人三脚が始まったのでした。

 他の無線雑誌を凌駕する魅力的な雑誌を目指して再生することを条件として、大河内研究室にある、JARL連絡所を将来も同居させて貰うことを前提に、先ず小川町に連絡所を移している。紆余曲折はあったが、小沢編集長を得て、漸く雑誌の芯が一本決まることになるのだが。折角通販代理店に起用した高槻無線kkが廻し手形で足元を掬われたりで、評判が今一上がらない。

 当時、無線雑誌の値打ち目玉は製作記事/通販で、全国何処に住んでいても、翌月号の発売日までには、製作記事のモノが注文して届いて作れてガンガン鳴らなければ翌月号が売れないのだった。CQ誌はこの点で先ず名が折れた。通販代理店側に強力な企画力が必要だったのだ。受身ではこの機能は出来ないのだった。雑誌が書店に並ぶ日には、製作記事のキットセットが見込み注文数揃っていて、注文受注と同時に宛名書きしてチッキでその日の内に汽車に乗せなければならないのだ。手回し良く茲までを内段取りで行って始めて「生き残れる」通販代理店といえるのだった。注文を受けてから一つ一つセット、キットを外段取りで揃えていては、何日も掛かった上に、欠品だらけのキット、セットで、評判失墜注文者はじれてしまって二度と註文する気になれぬ。他誌に取って代わられる。高槻がこの道を歩いた末に倒産に至った。(JARLはこの監修まではしていないだろう。現在の民間企業では、茲までソフトウエアが行き届かなければ生き残れない。明白了。)それは5年も後の話。然しこの出だし5年、随分多くの無線誌、ラジオ誌が、後発し部数でCQ誌を追い抜いていったのだからナンとかならなかったモノか。

戦後のアマチュア無線史(7):委員会形式の電波行政と、国家試験への対応

 戦後の電波行政の建て直しに、この委員会形式でのスタートは、大いに貢献したのではなかったか、それでも未だ、官僚根性がチラホラどころかピラピラはしたであろうけれども。占領下で、アメチャンは、通信電波行政は委員会形式でヤルモンだと思いこんでいたに違いない。米国ではFCC連邦通信委員会が取り仕切る。官が取りしきるモノとは思っても見なかったのじゃないか?兎に角、電波審議委員会が先ず出来て先ず立法から。放送も通信もからげた電波法それに放送法、そして放送事業法、アメチャンは驚いたロウねえ。英国皇室にBBC、日本皇室を残したので、NHK、、、と言われて、トチメンボ交わしたのではないか?FCC連邦通信委員会に国営の影も姿もない。勝手が違ってしまったに違いない。NHKはネグラレル寸前、BBCの存在屁理屈ロジックによって生き返ったらしい。当然民放をアメリカは持ち出す。日本側が驚いた。アメリカ占領下で、民放解放はやってしまう、日本に任せられないと言うわけだ。デモクラシーの橋頭堡と言うわけだ。NHKが既に存在する以上、アメリカは、民放も1日も早く対等に存在すべきだと考える、これが日本人には合点が行かぬ、NHKが毎日放送しているのに何でその上に民間放送が必要なの?今以て判ってない人が居るかも知れない。官尊民卑の日本はいつまで続く。

 兎に角こうして、昭和26年6月のJOAR中部日本放送の本免許を皮切りに講和条約以前に多くの民放が誕生した。アメリカはこの時以来日本デモクラシーを信用していない。NHKを一旦潰せば信用したと思う。デモクラシーの基本。「官」って一体何?デモクラシーに要らないモノ。リンカーンのゲチスバーグアドレスに出て来ます?ガヴァメントオブざかん、フォーざかん、バイざかん。ってね。中国的なら三民主義でなく三「官」主義ね。「官のモノで、官のための、官が支配する政府」だとアメリカはこの時読み切ったんだと思う。これが日本のデモクラシーのベイシス。

 閑話休題ならぬ官は休題!兎に角、行政も電波管理委員会でスタートした。放送局、無線局だから猫も杓子も局長になりたがる、7メガ並だ。電波監理局、その上に屋上屋を重ねて監理総局。又の名を官吏層局、電離層の親戚。真少しだけ冗談。

 昭和25年6月に第1回アマチュア無線技士国家試験が実施された。うん矢っ張り許可されるのが近いのだと皆頬をゆるめたのだ。がこの翌日、朝鮮事変が新聞で報じられた。これによって全てが回り道することになった。UN軍とUS軍と何処がどう違うの?国連軍が戦争始めた最初の戦争。兎に角国連軍が、ドンドン退却して、10月には、中国軍も国境を越えて入ってきて、黙々と南下、クリスマスにはソウルも落とし、旧暦正月には、韓国軍と国連軍避難民を束ねて押しやって、川に1本しか橋が架かっていない洛東江に追いつめ追い落として凍死させようとした。マッカーサーは、言うことを聞かない海軍には頼まず独断専行して陸軍の船を使って、仁川に逆上陸を敢行して、背後を襲った。戦術として立派これしかなかったのだ。然しこの独断専行は、アイゼンハワーが大統領になるためマカーサーの失脚に利用する事になる。大統領になるために手段は選ばない。マカーサーは、「老兵は死なず消えゆくのみ」の名せりふを残して退場。38度線が残った。リッジウエイ中将が、取って代わる。元帥マカーサーは舐められたもんだ。中将様の露払いやったのでした。漸く決着して昭和26年10月先ずサンフランシスコで日米講和条約調印。漸く第2次大戦が終わったのです。マーだ済んでいないことが、、、、占領軍の統治が続いていた。

 昭和27年1月、日米行政協定で、日本の行政が日本人の手に否、日本官に返されることになった。3月、GHQは、日本政府に対し「アマチュア無線の禁止に関する覚え書き」を解除した旨を通告。J2JJ大河内氏が電波審議委員会委員として加わりアマチュア無線の諸規則について啓蒙する。アマチュア無線にCWを試験しないクラスを設けるか否かで、紛糾。大河内氏は、IARUのアマチュアの資格要素、

 ことは、世界のアマチュア共通の要件。日本だけがこの要件を外す制度を作ることは、世界の孤児への道を歩むことになる。とまで発言されたが、「官」にとっては馬耳東風。

 大河内先生は、そんな制度のアマチュアならば私は倶に天下を戴かず免許を受けない、と席を立って、免許申請書類も取り下げられ、十数年雌伏されたのである。JP1BIRで免許取得迄。これを世に「見識」という。官はしばしば不勉強、無知蒙昧、鉄面皮である。これを世に「不見識」という。但し50余年の昔。JARLの会長も退かれ、梶井謙一氏が新任。

 電波管理委員会が日本人ハムによるアマチュア無線の再開に向け委員会としてほぼ最後の仕事。30局の予備免許の2日後で委員会改組翌8月1日電波監理局発足。委員会は形骸化し、亭主の好きな赤烏帽子の官僚制度に戻るが。

 この約2ヶ月前6月、、突如それ迄JA2-JA0の2文字(例JA2HPやJA0IJ等)を使っていた駐留米軍人局が、急に、半月ほど掛かって全局、KA2-KA0,または沖縄はKR6プリフィックスに変わったのであった。例:JA2HP−>KA2HP:JA0IJ->KA0IJ(いわうじま):JA6AH->KR6AH(沖縄)etc.

戦後のアマチュア無線史(8):待望久し、日本人の手にJA局免許

 敗戦、占領から7年、米英と開戦して短波を取り上げられてから11年。然し今度は、はっきりと、法的に「アマチュア無線局」なるカテゴリーでのスタートだった。実際にはIARUがアマチュアのrequirementで要求している、CWコードの試験無しの人も含むので問題ではあったのだが。後に、昭和34年の法改正で、アマチュア無線局カテゴリはなくなり、「アマチュア局」と称して現在に至っているが。ともかく、昭和27年7月29日付翌30日官報告示で合計30名のアマチュア局に予備免許が交付されたのでした。予備免許と引き替えに、工事落成届、試験電波発射届、及び落成検査願を同日電波管理委員会に提出して、急いで自宅に帰り、その日の内に、14メガA3の試験電波で「万歳三唱」を唱えた人が居た。JA1AB市川 洋さんであった。後年、このことを何度も悔やんで居られた。「電監にも、皆さんにもアンカバをやっていたことが見え見えだったのには気付かないほど興奮して万歳3唱その日にやっちゃいましてね、、8月3日に電監が落成検査に来て意味ありげに顔見合わせて、頷きあっていたので冷や冷やしましたよ。アンカバはしっかり身に覚えがありましたから。その後も罪の意識にさいなまれて随分奉仕的なことして償おうとしましたが、身を清めようとすればするほど、汚点を際だって感じてくるのですねえ、アンカバを知らないで、アマチュア始められた方は幸せですね。」、、、と晩年、この日の万歳の話が出る度に、こう繰り返されました。この日予備免許のJA1の6局のうち、戦前のコール持たない戦後派は市川さんだけであった。

 JA1AA = J2IB: JA1AC = J2MI: JA1AD = J2PU: JA1AE = J2KM :etc。JA1AAのコールが下りた庄野さんは、戦前の錚々たるメンバーを差し置いて、トップコールを取得されたことで恐縮して居られた。未だ若手でしたし。然しこれにはそれなりの理由があるのです。当時、電監委の免許部は、庄野さんの勤務先の気象庁と同じ庁舎内にあった。このため、折に触れて、庄野さんが、電監の意向や意見や、情報を聴きに殆ど毎日顔を出して居られたらしい。このため電監側から見るとアマチュア側の代表・要人に見えたというわけ。で、書類が一番上に載ったらしい。それだけ足繁くこまめに推進役をされたのだから、これは当然のことと、皆さん認めていたらしい。

 市川さんはいち早く本免許局となったのだが、妙な気持ちだったという。国内に、正式QSOの相手がいない。CWで海外局とばかり交信、外国に住んでるような錯覚の3週間であったという。本当にJAに免許が下りたのだろうか、本当にこのコールサインで交信していていいのだろうかと幾度自問したことだろうと。その国第1局、大昔官許JXAXなる実験局免許で、かつて草間貫吉氏も味わったという同じ感慨を味わわれたのでした。

 JA1AC村井氏は、ハンドルをROYと叩いて居られたのをJA1-1024時代にSWLしただけでした。次の、JA1AD齋藤さんは私たち工作少年、ラジオ少年には、神様的存在でした。敗戦後何の読み物もない時代、漸く印刷用紙の配給出版が始まり、新聞紙大の裏表印刷紙を買って、勝手に読む方が2の5乗、2つ折り五回して、ナイフで袋を切り32ページの雑誌にして読む本から始まった、唯一少年向きの一枚紙月刊誌「少年工作」誌に「健ちゃんのラジオ」の連載欄を持って居られた。戦前も昭和一桁、マサチュウセッツ工科大を出られ、当時帰りの船の中から、盛んな投稿活動、K・S生なるペンネームは、初鰹の活きのいい技術内容と評された。がやがて、老舗雑誌「無線と実験」の編集サイド、質疑応答の回答サイドに、K・S生のペンネームを見るようになった。敗戦後免許後は、フナソコ帽子の進駐軍のベランメエ米語に答えられる数少ないに日本人アマチュアでした。JA1ADを、14A3のCQでは「ジェイ エイ ワネエデイー」でした。つまりoneと次のAとはリエゾン発音なのでした。ここが「アメション」*)のアメリカ帰りとは訳が違うところ。


*)註:アメション:昭和30年代から、仕事や、政財界で、アメリカに行って来ただけで箔が付く風潮があった。通訳・ガイド・上げ膳下げ膳付き、自分の身体で直に出したのはションベンだけという手合い。これをアメションと称して軽蔑した。


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