戦後のアマチュア無線史(9):7メガの水晶スポット、越前ガニの話など。

 ハイ。戦後の、日本人ハムにも、こうして免許が与えられました。然し、その技術的規制は、厳しいモノがありました。メーカー品があるわけではありません、尤も、これから10年経たないうちに、ハム女子大卒のYLハムで、嫁入り道具代わりに「アメリカ製を買うために、受信機に50万円、送信機に50万円、も用意すればいいでしょうか?」と言ったのを直接聞きました。当時、私の月給は、標準値の1万3千8ッピャク円ほどでした。ですからみんな自作の腕を競ったわけです。電波の確度については、アメリカ軍及びCIAから特に喧しい要求があったようです。と言うのは、大戦中から、スパイやパルチザン活動には弱小ヒョロヒョロ電波の発射が付き物で、探索検出班は、逆にオートワッチャーを使ったりして、割当外周波数の電波、QRHのある電波、自己発振電波、チャピルCW、キークリックのある電波、等を摘出して調べる手法を多用していたからです。

 後にJARLは、このために、日本を発信源とするアンカバまで含めたアマチュア局等の電波の周波数逸脱他について、アメリカの監視当局から再三に渡って、正式文書での警告書を受け取ることになるのですが、、、。

 免許に先立って、電波管理委員会から、アマチュア局の無線局技術基準が示され、電波の質と、電波の確度について、厳しい基準が示され、0.025%以下の誤差で周波数測定できる、ヘテロダイン周波数計の備え付けの有無で、指定空中線電力とガードバンドの幅が決まるという、二重の手枷足枷が示され、CW資格試験のない2級局が動作する7メガは、僅か2スポット周波数の水晶制御発振しか許されない基準でした。日本にも、電波監理局の他に、津、宮崎、石巻、etc10局ほどの電波監視局が稼働しており、日本列島全体を同時に見渡す、米軍沖縄電波監視隊と連携して、スパイ電波の監視のネットワークを作っていたわけです。

 7メガの指定周波数:A1:7013;7032;7063 A3:7050:7087.5kc/sの計5波。 (実は自分で使わなかったのでA1の周波数は怪しいが、3スポットは間違いない。)

 2級局はこのうちA3の2波で動作するのですから、次々免許されて局数は増えたのですから、大変なモノでした。3.5メガは翌昭和28年5月に、やはり、水晶スポット指定で、A1が、2波、A3; 3525kc/s 1波のみの指定で追加されました。もうこのころまでに、戦前の局数に迫るアマチュア無線局が予備免許を含めて免許されて居ました。予備免許中でも、落成届けと、試験電波発射届けを提出受理されれば、これらの指定周波数で、試験電波の発射を行うわけですから、スポットは当然混信します。然し、そこはハム。当時は皆、”king of hobby”のプライドを自分の電波に掛けていましたから、「互譲の精神」が、各スポット周波数に漲っていたと言えるでしょう。現在のような、先に使っていたモノが先用権を持つ、等という変なルールはなく、1交信ごとに、クリヤーされて、誰かが誰かを呼ぶのでなければ、さっきまでの人を自局コールだけで呼び出すなどと言う半端な呼出(無線局運用規則にはない方法)はあり得ませんでした。当然その間を縫うようにして、試験電波も出てきますが、無線局運用規則に従えば、大抵の発射試験は、ダミーロードで行い得ますし、各自がモニターしてからアンテナに乗せることを励行していましたから、本日は晴天なりがそれほどの長時間、スポットを占拠することはあり得ませんでした。各自、如何に短時間で、チューンするかを心がけていたのです。vvv de ja4hl bkの間に必要な全てを済ませられないとヘボの烙印を押される、そんな時代でした。

 所がある朝、7メガの1つのスポットに「本日は晴天なり、、、、、(無言)、、、本日は晴天なり、、、、(エッヘン、、、、クッシャン)、、、、、マッイイカ、本日は、、、」などのんびり局が出現、、、皆???私SWL JA1-1024@目黒区「誰の声、ン?」一寸電波が途切れ、JA1AL竹沢さんが、BK、然し応答なし。又本日はが始まる。やがて、JA2WAのCQがA3で発せられて、JA1ALがコールしてQSO、先ほどまで長いこと試験して居られましたがどうされたのですか?と1AL。JA2WA円間さん「あれ、私ダミーロードの100w電球でポカポカさせて、A3のチュウニング取っていたので、アンテナは繋いでおりませんでしたが?」後のJA9AA、越前カニのカードで名高い電波は、ラックの最上部の電気スタンドまでのコードで、東京まで飛んできておりました。SWLレポートして、越前カニのカードを5円(確か尾長鶏の図柄)切手を貼ったダイレクトで頂戴しました。太陽黒点数のサイクル18は既にやや下がり目でしたが、7メガのコンデイションは、時々頗る付きの素晴らしさでした。昭和27年、日本人ハム免許第1年は、暮れまでに本免許局は100局には達しないで、新年を迎えました。

 この年の秋から年末商戦に掛け、菊水電波KKからスカイベビー、及びスカイクイーンという通信型受信機キットが、又、富士製作所から、スターS-51Aなる通信型受信機キットが発売されましたが、当時の貧乏書生、よく言えば勤労学生の私には高嶺の花でした。(アルバイト(アルバイテン)なる語は、学生ドイツ語としては存在したが、未だ社会語ではなかった。)

戦後のアマチュア無線史(10):21メガなどは新参バンド

 戦後、台湾が米軍に占領されたあと、主権は中国然し事実上米国の軍事顧問団に軍政で委任されていた時代があることはあまり知られていない。この時、日本にJAコールで、駐留米軍人局があったのと同じように、台湾にもBV1@@@の3文字サフィックス局があった。戦前の米領フィリピンマニラの,KA1の3文字ルールのサフィックスと同じ。AA@~が陸軍軍人、NA@~からが海軍軍人、行政及び軍属が、US@~。台湾は今もBV1が無いが、それは此の影響、当時はBV1USAからBV1USF迄がよく活躍していた。SWLレポートに対してもカードを貰った。USA/USB/USFからはダイレクトの返信で感激したモノです。。つい昭和20年8月までは日本領土だった甘藷型の島の地図にBV1USAと言うコールサインが印刷されたQSLかーどを見た時は複雑な思いでした。戦争に負けたのだ、と言うことを再認識した瞬間でもありました。

 そのBV2A/Bで、台湾民間人(台湾コロンビア映画副社長、当時)が40m、20m、10mのライセンスを得て、1970年頃に始めて出てきたのですが、彼はアマチュア無線の戦前の古い本で読んだモノですから、80m、15mにもアマチュアバンドが出来ていることを知らなくて、郵逓局の啓蒙を行ったとき10m,20m,40mのこれだけかと聞かれたのに、そうだと言ってしまって損しターそんしたーと言っていた。

 そうなんです。15mと80mでは、戦前のアメリカで、ノビスクラスの設置が検討された時、初めはノビスバンドとして許可され、やがて、アドヴァンス級もゼネラル級も、ノビスの動作を承知の上で使うことを条件に許可されたモノ。従ってか非ずか、日本の戦後の許可も先ずは,40m,20m,10m,6m&2mが、1952年7月。80mが、1953年5月水晶スポットで、。そして、15mが、1955年5月だったと記憶します。

 40mの、5つの水晶スポットから、各自水晶を用意するなら、7007kc/sから7093kc/s の間でOK但し落成検査変更検査又は定期検査の際に、周波数及びドリフト量を測定して合格した指定周波数に限る、となったのが、1954年12月。私が2つの水晶周波数で、JA4HLの予備免許を貰う4日前の通達でした。急遽、ジャンク屋に手紙を書いて、ジャンクの水晶を買い、正月休みは水晶磨きに明け暮れました。幸い会社は金属鉱山会社、私の所属の研究室にも水晶磨く道具材料くらいは揃っていました。17枚磨いて13枚の発振に成功。然しその内2マイは磨きすぎて7095と7099とバンドはずれて薄くなりどうしも出来ずお釈迦で残念。7007から、7092まで11枚の手磨き水晶持ちは珍しいと、落成検査の技官に言われました。所が、その後半年足らずで、VFOで検査を受けてよいことになってしまうのです。これ、とても腹立つ乗り(原 辰徳)でした。ラヂオで赤胴鈴の助の歌が耳に付いている時代でした。水晶片を見ると今でも♪剣を取っては日本一に夢は大きい少年剣士、、、」が響いてきます。口ずさみながら無我夢中で磨いたのでしょう。ニクロム線ヒーター電熱で、かじかむ手をあぶりながら。

 1955年5月には、筐体を持ち運ぶことが出来る送信機受信機が一体に出来、且つ50W以下の出力の装置は移動局として申請することが出来ることになりました。そして急ぐ場合は事前連絡した上電監に持ち込み検査も可、と言う通達もでました。

 その年の7月、私の旧制中学先輩で当時のJARLの東海支部の役員、JA2AKが、7メガの送受信機を作って、持ち込み検査合格翌日、中部日本新聞社機朝風号で、同社カメラマン、JA2AEとAir Mobileの国内第一号を果たしました。小さい記事ですがJA2AE氏のカメラによる2人の写真付きで中日新聞記事となりました。JARL発行の、「アマチュア無線の歩み」の本は、連盟自身が行った此のA/Mの事実を見落としています。移動局許可から2ヶ月足らず、収録者が、まさかそんな早くと見落としたモノでしょう。因みにお2人ともご健在。但しもうアマチュア無線とは縁が切れた。縁の方で切れたのです。1952年再開当時の電波法で、アマチュア無線技士の資格は5年の有限期限。再免許申請が厄介でしたから、違うエリやで勤務中の若者には難儀で、期限切れが起こり得たのです。JA2AEさんはHAMより写真が面白くなって今は名古屋で押しもおされぬプロ写真家。写真教室も開いて居られる。アマチュア無線の歴史には、そんなことも載せた「時」が流れているのです。

 アマチュア無線が戦後は私設無線電信電話実験局などという理屈気な名前を捨てたのは、戦後の教育が、科学教育にもぐんと力を入れた青少年社会に科学する心を持った人を作ろうという動きにマッチさせる目的も持ち合わせていたからでした。いつの間にか、文部省教育は、入試と模擬試験偏重となり科学教育は何処吹く風になり終せて、アマチュア無線は金喰い電話ゴッコ、これでは、携帯とTVゲームやゲームボーイやプレイステーションにかなわないのが当然の帰結。6334制も弊害ここにきわまる50年。ソロソロ反省があって良いのでないか?

 「学校とは?」と子供に聞いてみるがいい。文科大臣が腰抜かすかも。「勉強って?」「何でせんならんの?」「学校って、先公いじめてみんなで遊ぶとこやろが。チャウカ?」、ゲームがみんな教えていまっせえ。映画には映倫が風俗には警官が時々。ゲーセンやゲームソフトには、、、、なーーんにもない。非教育ソフトにお灸は要らないのかな?


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