戦後のアマチュア無線史(11):アマチュア無線と社会の接点は。

 戦犯釈放、吉田内閣の保守化が進み、「反動」から流行語「逆コース」が流行ります。アマチュア無線は逆コースは辿りませんが、ホンダカブから始まったモーターバイク;スクーター、蛍光灯の普及が先を走り、街頭テレビなるモノが現れ始めても、なかなか社会との接点がないまま昭和28年半ば、年は半ばでも、雨は多く、梅雨は半端じゃない未曾有の豪雨が各地を襲います。中でも北九州は、激しく、関東の坂東太郎に次ぐ筑紫次郎こと筑後川が大氾濫、筑後、八女、久留米、大川付近一帯を有明海状態にしてしまいました。更に熊本の白川も濁流が河岸を削り流してしまい洪水、衛生状態悪化。此の両地区でガスエソ(瓦斯壊疸)が流行蔓延。応急治療用血清が必要とされた。東京赤十字にはストックがあったが、運搬方法がない。敗戦で翼はもがれ、国内に飛行機もない時代。まともなトラックだってない。東京から下関まで、通しで走れるようなトラックは?行ってみなくちゃ解らない時代。ぶっつけ本番一刻の猶予はない、血清が間に合わねば確実に死。6月26日全国のアマチュアは、7メガのなけなしの2スポットを此の「ヒゼウ」通信に丸っと明け渡し固唾を呑んだ。トラックの給油、積み替えは時間のロス、なれば、各通過地で整備した車両と荷積み人足を準備して、到着予定をヒゼウ通信で報せてアマチュア関係者の多くの人足協力も得て、運送の円滑化を助けようと、一丸となって協力したのです。(無線局通信規則で、当時は旧カナ使いでしたから「ヒゼウ」でした。戦後始めてのヒゼウ通信でした。)未だ移動局は許可されていず、トラックは昼も夜も走り続け、エンジンタイヤの調子を書いた紙をあらかじめ用意し、沿道のポイントに待つアマチュアに渡して次の中継点の予定、予備車の要不要を7メガで報せて貰うのです。

 こうして、ほぼ昼夜走り続けた血清は、九州アイランドに入ったのですが、此の方法にはかなりの無理がありました。東海道、山陽道を走り抜けて行く先ざきの中継点が、固定点でないために、各地の準備状況を誰かが覚えていて、トラックの状態道路状況を勘案して、じゃあその状態なら次の給油点は何処で、何処まで突っ走れ、トラックガソリンの状態で道路冠水なら無理せず何処で、中継荷を積み替えた方がいいと、判断指示する必要があり、此の人はおいそれとは勤務交替できなくなってきたことであった。九州まで走って貰うからにはこれは必然6エリやの人の肩に掛かってきた。その人は筑後八女福島で孤島となって孤立奮闘する JA6AS 浄土宗無量寿院院主三浦長栄師であった。朝の勤行も手短に済ませてくる、夕方のお勤めは母ちゃんに代わって貰う、など肝腎の坊主業をそっちのけで、ヒゼウ通信のセンター局にさせられてしまっていたのでした。ここで悲劇が襲います、食中たりしていた三浦さんの子供さんが急性肺炎で発熱、引きつけ、席を外せなかった三浦さんが死に目にもあえず息を引ききってしまったのでした。7メガの電波は先ず奥さんの声と思われる女声の悲鳴でした。皆何が起こったか解りませんでした。続いて九州弁で、三浦さんの絶叫、「アチャーッ、なんばしよったつじゃいろ、ヒトンコツば心配しよって、吾がドンの娘一人よう 助けでな見殺しにしてくさ、こげいになっと、、、,なんばしよったつかん、馬鹿じゃったあ!馬鹿じゃったあ!、、。」世にこれをJA6AS さんの血の絶叫と呼んだ。

 貴い犠牲として此のヒゼウ通信の概要とともに新聞記事になった。アマチュア無線と社会との接点が、戦後始めて世に報ぜられた悲しい事件となりました。

 幸いこの頃血清は久留米赤十字の手に渡り、更に第2トラックも関門海峡を渡りつつある旨が報ぜられて、皆1つだけ胸をなで下ろしましたが、、、。ふっつり切れてしまったJA6ASの電波のことを思うと、皆胸が痛みました。

 近所や檀家の手前もあって「お勤めの手抜きのばちかぶりましたけん、、、」とこの後、三浦さんは此のお子さんの33回忌を済ますまで、免許は繋ぎながらも電波の発射は控えてこられ、漸く昭和62年頃からアマチュア無線を再開されました。33年余の長さを思うとき、親として長い長い冷たい冷たい冬だったことと同情を禁じ得ません。

戦後のアマチュア無線史(12):アマチュア無線を書き捲った記者

 1954年はチョイとした悲劇で明けた。皇居に一般参賀が押し掛けた1月2日。参賀に並んだ押すな押すなの列が、押してしまって将棋倒しとなり16名が死亡。三五は15参賀は16洒落にもならず。うすら寒いお正月でした。翌1月3日、QSOパーテイー、正月は初めてながら第2回。始めて3.5メガが加わり3.5/7/14/50メガで開催。コンテスト形式だった第1回より好評裡に終わった。松が取れる頃から、朝日新聞夕刊に囲み記事でいきなり「CQ・CQ」が連載され始めた。私は購読していなかったが、下宿のおばさんが、こりゃ氷室さんが絶対切り抜くだろう?と翌日呉れた。「連載らしいから全部切り抜くから毎日頂戴!」「えっ毎日?朝日でしょ!」「そう朝日の夕刊を毎日頂戴ちゅうの!」「ああややこし」。

 記者の署名は当時はコラム記事でもなかった。連載の終わりに書き込みがあって、社会部の小林幸雄記者と判明したが。当時も未だ紙不足で土日祭の夕刊はなく、確か10回の連載、2週間でではなかったろうか?此の連載を切り抜いてスクラップブック代わりの古いノートに張り付けて整理した翌朝東京は大積雪、全ての交通機関が全面ストップした。都電30番通り小川町から九段青山とラッセルして、渋谷でお昼背負いのおにぎり食べて、東横線の線路伝いに、伯母の葬儀準備に都立大の親戚まで。丁度柿木坂を降りるとき、開通した東横線下り1番電車が通った。午後1時半だったのを覚えている。あれだけの積雪量はその後の東京では見られない。

 脱線が過ぎたが、「CQ・CQ」の連載がどんな順序だったかは忘れたが、「世界を結ぶ声」「Aクラスのハム国日本」などのタイトルで、2回分で世界のハムとアマチュア無線の概要を要領よく説き起こして、日本の現状に及び、3回目辺りでハム独特の用語解説を面白おかしく交えて興味を高め、そして、(順不同)JA8AA、JA1FM(富平静代嬢当時唯一のYL局)、JA1KF/exJA8AB,JA1AH,JA1AC,JA1COの6局だったと思うが、6回に亘って紹介し、その活躍振りのハム生活を活写、QSO相手のDX局をも解説、アフリカ、チベット、オーストラリヤ、セイロンのYL局、アラビヤの王子、刺身の妻的にはアラスカ、そして国内ではJA1CR、JA1KC、などが登場したと思う。最後に締めくくり一回。の計10回ではなかったか。相当な情報量を実に面白く且つ解りやすく解説された。例えば札幌の病院勤務から東京の病院に転勤されてJA8ABからJA1KFと活躍の石田docの話。東京に転勤して仕事が忙しいのに無線も止められなかった頃、息子に一本取られたことがある。当時4歳だった息子がこう言い放ったモノだ。「お父ちゃん!お父ちゃんはいつもムセンデンシンばっかりやっているけど、本当はお医者さんなんだろ、ねえ、ラジオ屋さんじゃないんだろ?!」と。

 当時ハム側では、社会の接点、啓蒙の道がなかなか開けず、巷では、三橋事件と都通信社スパイ電波発射事件が相次いだりして、まさにハムも暗濤(シュトルム・ウント・ドランク)時代に引き込まれ掛けるのをどう逃れるか焦っていたときの太陽の暖かさでした。これだけのハム啓蒙の記事が新聞にでたことは後にも先にもこの時だけでしょう。記者にもデスクにも並々ならぬ理解があって始めて出来た快挙ではなかったか。ハムにとってその タイミングの良さは絶妙、これはデスクの冴えではなかったか。

 小林氏はその後も、ハムの見聞を広められ、いろいろ書かれたようだが集大成として、当時の新進書店角川新書発売に際して「日本のハム」が昭和33年3月に出版されています。今から20年以上前に既に廃版となっていますが、当時のハム事情をこれ以上生き生きと書かれた本を私は知りません。此の本には、西武線ハム倶楽部の暴れん坊コンビ、SWL時代に一世を風靡した曉の珍局リスナー小林知司氏、後のJA1IO/引っ越してJA1BBOとJA1AHの実弟で口にチャックが要るからあだ名もチャックのJA1KC,が小林記者の水先案内を勤めている。昭和30年代の終わりに小林記者が病で、40年代の初めにチャックらが車禍で相次いで他界して久しくなり、生前チャックと親しく付き合う機会を得た私が書き残さないと、あまり詳しくは知られていない事件もあり責任重大と痛感しています。生き残ったモノのつとめでしょうか。


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