戦後のアマチュア無線史(14):戦中戦後の真空管概史

 無線史(13)でトリオの9R4通信型受信機を主体に、その変遷を書いてみたところ、2セクションバリコンと2連バリコンの意味がお判りでない方と、真空管はミニチュア管しか見たことがない方が、ST管とかGT管とか一寸だけ教えて下さいとのリクエストがありました。

 前者はバリコンの構造とその部分用語が解らないと解説のしようがないわけで、用語がお判りを前提に言えば、2連/3連/4連は、単連バリコンを回転軸方向に何個並列に繋いだ構造かを言います。それぞれの単連は一般には単セクションで、1-4個でも各単位同じ容量変化するモノが基本形です。2セクションバリコンは、2連でも3連でも4連でも、それぞれの連のステーターが、二つのセクションに分かれて端子が出ていて、各430pF x 2連、3連、4連でも使えるしセクションを切り離せば、各180pF x2連、3連,4連、に使えるモノでした。9R42に使われたモノは3連の2セクションで、4バンド用のコイルパックKR-42のバンドスイッチでバンドに合った容量端子に繋ぐようになっていました。9R4はmax430pFなのでSWの各bandの幅が、周波数比にしてほぼ3倍に対し、2セクションmax180pFでは短波帯の各バンドが周波数比にして約2倍でありました。


 9R49R42/9R42J/9R59
放送帯550-1500kc/s540-1505kc/s
短波帯(1)2.4-7.2 Mc/s3.5-7.1Mc/s
短波帯(2)6.0-18.0Mc/s7.0-14.35Mc/s
短波帯(3)11.0-30.0Mc/s15.0-30.0Mc/s

 と言ったところです。

 コイルパック、バンドスイッチなどの解説まではご容赦下さい。勉強して下さい。ラジオ考古学までは手が回りかねますので。

 真空管考古学はさておいて、形而上学的に歴史を追ってみます。ついでに一言言うと、only 期間的に、真空管の栄枯盛衰は、共産主義の栄枯盛衰とほぼ同じ時期です。両者間に何の脈絡もありませんが。

 トーマス・エヂソンが炭素線で電球を作ってから、そこから出るのは光だけか?が謎でした。エジソン自体も、中に電極を入れた実験をしたようです、然し、高電圧を掛けなかった為もあって、発展はありませんでした。高電圧交流が整流されることが解り2極管が作られ、ダイナトロン発振する事が見いだされた頃、ド・フォーレ教授が3極管の格子制御作用を見出し、3極管実用時代突入です。この頃までの未踏分野開拓時代は、真空管のフリースタイル時代。要るモノを作らせる、作れる大きさに作る時代。腕と頭のコンテスト。

 同じモノがもう一度欲しい、もっと沢山欲しい、もっとしっかりしたモノが欲しい、時代になって、抜き差し簡単な、ベークライトのベースとそれに出た金属足が着いた。それをはめ込むソケットが要る。折しも、人造樹脂ベークライトの工業生産が始まった時代。上のガラス球の部分は、電球同様吹きガラス球。これが定番の真空管の形になった。「バルブ」ですね。ですから、尤も古く量産型となったのは、電球の形をもじった、いわゆるナス管後にS管と名付けられました。ベースの方にステムが固定され、電極も此のステムに固定されているタイプ。電極保持がいかにも頼りない。2極管3極管ならこれで何とかなりました。

 然し、フィラメントとグリッドの間にモヤモヤした電子雲が漂って、プレート電圧をウントコサ高くしないとマジに働かない事もあると解って、グリッドと、フィラメントの間に此の電子雲を吸い取るグリッドを入れたのです。空間電荷格子横文字でスペースチャージグリッドと呼びました。第四の極の登場でした。電極の保持方法と、線の出し方がいろいろ考えられ、結局電極は、大きめの電球バルブにステムと直角水平保持して、制御格子を頭に出しスペースチャージ格子は下の4本足に収まりました。S管で電極が水平に保持されている球を見たら、UX111Bという空間電荷格子4極管と思って間違いありません。

 フィラメント電圧1.1ボルトでプレート電圧が18ボルトかそれ以下でも働く面白い球です。このほか戦後アメジャンで、VT717というドアノブ管が、6AK5の電極を水平に保持したGTベースの中に半分沈んだドアのノブ把手の様な球がありました。電極の水平保持は難しいのです。熱で電極が膨張してたるむからです。 電極の垂直保持も下部で支えるだけでは当然心許ないモノです。空間電荷格子だけでなく、スクリーングリッドが発明されて4極管、更に陽極に強く当たった電子が二次電子を撒き散らして、スクリーンや制御格子に影響するのを抑制するサプレッサーグリッドが付いて5極管になると、電極間隔が微妙に揺れてどうにもならなくなってきました。電極を頭の方でも支えたい!此の願いに登場したのが、アメリカ大陸では大量に産出する板状の天然雲母:マイカでした。電極は使用時は200度以上になり直接ガラス壁では支えられないが、熱も電気も良好な絶縁体の雲母を介してならガラス壁で固定できることになり、電球状のバルブの頭を絞り肩を付けてここで雲母板で支えて電極の上部を固定支持することで、安定な4-5極管に出来ることが解り、それまでの球も含めて、真空管の量産タイプの標準型は此の肩付き、ST型と決まりました。1930年以降の球は殆ど此のSTタイプです。

 それまでのS球は古くからラジオ用は、3桁の100番台の番号から付けられていました。ドイツ系のN161,N169などはバナナチップの足がベースの真ん中にも1本の計5本足、これらを除く130番台からのアメリカ系111の辺りから、アメリカでは番号だけ、日本でライセンス生産されるとラジオやさんの便宜のために使用するソケットの記号が頭に着いた。アメリカで112なら日本ではUX-112と言う具合。ただ、使用法に向いた小改造があるとアルファベットの記号がお尻につく。フィラメント関係に使うA電源にかんするのはA、プレート関係の高電圧電源B電圧にかんするモノにはBが付けられていました。商用交流がラジオに使われる前にはラジオは電池で鳴らしたのですが、フィラメントを赤くともす電池がA電池。プレート電圧を掛ける高い電圧の電池がB電池。グリッドにマイナスの12-15vを掛けるバイヤス電池をC電池と呼んだので今でもB電圧などと呼び名が残っています。S管時代には112には、オーデイオ用のAつまり112Aと、3極管だがエリミネーターラジオの商用交流をトランスで、B電源用に整流するためグリッドをプレートと一緒に繋いで2極管として使う112Bとがあった。

 これらが、ST管化された際、112Aは12A日本ではUX12Aと、112Bは12F日本ではグリッドをとって整流専用の印KX12Fと3極管と2極管に分化した。12には更に電蓄時代に入って、ST管に12Aの電極2本を挿入双3極管にしたUZ12Cが作られダイナミックスピーカーなどを鳴らすのに、パラレルでもプッシュプルで使っても1球分場所をとらず重宝しました。商用交流の配電が普及して、ラジオも交流が使えたらの要求から、上記112BなどでB電圧を整流し、直熱管の交流点火が始まり、226/26Bや112/12Aがトランスの1.5v中点付き巻線や5vの中点付巻線で使われ、中点タップのないトランスの場合にはハムバランサーを使って中点を探って、中点代わりに使いました。こうして、A;B;C電池を一挙に省略して商用交流で鳴らす電池無しのラジオをエリミネーターラジオと呼んだのです。検波には真空管以前から、方鉛鉱などの鉱石と鉄針の接触を使った鉱石検波器が多く使われていましたから、S管ラジオの時代には、鉱石検波器で検波するラジオ でした。勿論エリミネーターラジオの時代でも踏襲されましたが。上記する直熱管の交流点火はハム音の処理に頭を悩ましたほか、検波を直熱管交流点火では事実上無理でした。交流を整流のが検波なのですから。このための必要からS管時代の途中で227と言う傍熱管が作られました。交流点火して問題ないので、電池時代と同じく検波が真空管で出来る時代が戻ったのです。こうなるとじゃ4極管も作ってみようかが224。じゃ5極管はどうだ?で231, 232, 234, 235などがS管時代に作られて、電極保持方法で行き詰まっていったのです。

 S管時代に作られて名前の残って、特にST管に引き継がれたモノを列記します。112B/12F;224/24B;227/27A;226/26B;239/39;241/41;242/42;243/43;245/45:超245/超45;247/47B;250/50:などです。(S管名/ST管名です)こうして交流で鳴るラジオと電蓄全盛の時代に入っていきます。電蓄とは電気式蓄音機の略です。じゃ電気で鳴らさない前はレコードをどうやって鳴らしたんだ?って困りますね、ここで威張ってないでかのトーマスエジソンに聞いて下さいね。

 因みに交流点火前の真空管のフィラメント電圧は、乾電池又は鉛蓄電池のでかい容量ので点火した都合上、2V-1.5V若しくはその倍数からレオスタット制限抵抗で落とした1.1(111Bなど電池専用管)/1.5/2.5/4.5(ドイツ管)/5Vが主流でした。電池時代のB電源用の電池は、12/24/45Vそれのx2 x3:90V/135v。更に135の半分の67.5vがアメリカで登場して戦後に引き継がれます。((つづく))

パピイの台湾話(1):童謡「里の秋」と「OFF LIMIT」

 20年ほど前、5年近く台湾のお臍南投県に住んで居ました。沖縄より南、きっと常夏の島と期待したのですが、案に相違して、春夏秋冬があるのに驚かされました。古諺に「馬には乗って見よ、人には添って見よ」と言うのがありましてはたと納得ですが、「島には住んで見よ」を付け加えたいと思いました。田舎こそその土地の文化を伝えます。「フランスに住んでいました6年」と言うと殆どの人が「うわあパリに6年もですか」という。パリに6年も住んだら確かにおかしくなる。パリは確かにいいところです、但しフランス人が居なければ、です。台北は確かにいいところです、但し、バイクとスクーターがむやみやたら居なければです。

 台湾に16の県がありますが、1つの県を除く15県が、皆海岸線をもっています。南投県だけが海岸線をもちません。日本に海岸線をもたない県は何県あるのか答えられますか。正解できないのは一寸恥ずかしいですね、地図をしっかり頭に入れましょう。南投県は先年大地震で、逆断層の山が大変だった県です。

 地球上に現れている断層差で最大はフランスのグルノーブル地溝帯の2000m以上ですが、台湾には逆断層で800m弱に達する凄い梨山断層が苗栗県にあります。このほか台湾には沢山逆断層を見ることが出来ます。大陸プレートの下に入り込む筈の太平洋プレートが、ナーンデか大陸プレートの上に乗り上げるのが逆断層です。南投県の南崗工業区も此の1つ田中逆断層の東側傾斜地にあり、私が立地を独断と偏見で決めていたので、集集大地震では震源から僅かに35Kmしか離れていない近さで心配しましたが、幸い田中逆断層は何故か動かず殆ど被害ナシだったのでした。ここの工場に建設から工場立ち上げ操業黒字化まで通い1年住込み4年技術責任者として勤務しました。初めから遭遇したのが言葉の問題です。町では日本語で押し通していれば、困った相手が何処からともなく日本語の分かる爺さんか婆さんを連れてきてくれます、当時戦後40年、40年前までは日本語の国だったのですから。枕が堅くて熟睡できなかった私は、南投に住み込んで2日目町の寝具屋に行って、昔の日本のソバガラ枕がないか聞いたのです。

 店頭の小姐が奥に向かって「おばさん、ジップンナ来了。拝託!」 アレッ?小母さんって言った日本語解るのか?いえいえ早まってはなりません。日本語が台湾語の語彙を補って外来語化して使われているのです。小父さん:小母さん:にいちゃん:運ちゃん:など。で奥から小母さん登場。日本人て?はい今日は。何でしょう。ソバガラの枕ないかなあ。台湾ではソバガラの枕はないねえ、ファンタウで作るですから。黄色い小さい豆ですよ。作って上げましょうか、2-3日掛かりますけど。おねがいします然し小母さん日本語正しいねえ。驚いた。と言ったら小母さん曰く「戦争に負ける日迄私も帝国臣民だったのよ。日本の女学校に通っていたんですから」と。

 そんなところで、地元の人と付き合うには台湾語、仕事の申請関係では役人と北京官話を覚えなくてはなりませんでした。役人の特に偉いさんは皆大陸から来た外省人でしたから台湾語も日本語も通じません。苦労して思いついたのが、自動車にカーラジオとカセットレコーダーが付いているので、これで、歌詞カード付きのテープを買って、耳から覚えようと言う寸法です。会社の小姐に誰の歌がいいかと聞いたらトンリーチンがいいだろうと言うので、テープ屋に行ってみてみた。摎君だというから解らないが歌を聴けばテレサテンじゃないか、ナーンだ。こうして暇さえあれば通勤途上も仕事で台中に出るときも車の中はいつも、テレサテンの歌をテープと一緒に口ずさんでいました。歌詞カードは亡くすので、テープを買ったら直ぐ3-4枚コッピーを取っておくのです。これを皆亡くす前に覚えてしまうのです。今でもいくつかの歌は中国語で歌うことが出来ます。日本語の翻案でない「月亮代表我的心」などは忘れがたい歌です。忘れようとしても忘れられないと言う意味の中国語は「忘不了(ワンプウリャお)」と短的です。

 ある時、秋だったと思いますが、他人の車を使うことになりテープを積んでないのでラジオを掛けていました。リクエスト番組で、テレサテンのリクエストが、、、なんと、童謡「里の秋」ではありませんか。しかも日本語でした。

 「静かな静かな里の秋 お背戸に椎の実の落ちる夜は
 ああ母さんとただ二人 栗の実煮てます囲炉裏端」

 「静かな静かな里の秋 鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
 ああ父さんのあの笑顔 栗の実食べては思い出す」

 「サヨナラサヨナラ椰子の島 お船に揺られて帰られる
 ああ父さんよ ご無事でと 今夜も母さんと祈ります」

 皆さんは此の歌の歌詞から、戦後の引き揚げの父さんを待つ母子家庭を想像しやすいのではないでしょうか。実はこの時私もそう思って聞いていました。然し後日、此の私が偶然聞き入っていた放送が台湾で問題となったのでした。

 なんと此の歌は昭和17年の秋作られた、勝ちいくさ時代最後の日本の歌で、当時侵略を完了して兵隊である父が日本へ帰るときの歌であり、全くもって怪しからん歌の放送であると言うモノ、こうして、一切のテレサの歌から此の「里の秋」は抹消されたのでした。

 そして、ついでと言っては語弊があるのですが、リクエスト番組のオンライン放送がこの場合問題になり、自由を認めてきた台湾放送にも「OFF LIMIT」が出たことから「自由とそのLIMIT」が暫く話題になりました。

 中国語の感覚は、靴を履いて生活、靴を脱ぐのは寝台で寝るときだけの5千年の生活から西洋人の生活感覚に共通です。男も他人に裸を見せたがりません。ですから地図の上には海水浴場があっても殆ど閑散としています。自由の受け止め形は西欧人のそれとほぼ同じです。他人の自由も尊重するため自ずと他人の領域を侵さないLIMITを設定します。これを越えるのが「OFF LIMIT」です。日本人の日本語の感覚では、OFF LIMIT は「立入禁止」的で西欧中華的感覚の「自由枠からのはみ出し」それは人間性的破廉恥行為の一種、乃至は堕落の始まり感覚なのとは水が空いていて何か放埒な自由に止め度さがない、そんな感じが特に最近の日本社会の自由のはき違えが目立ち始めたように思います。子供のやりたい放題がそのまま大人になった人たちの社会。焼肉定食でない弱肉強食放埒の社会。自由にはおのづとリミットがあり、それを越える off limit は他人の自由の領域に入り込む不逞の行為という、人間として恥ずべき事という常識の欠如でしょう。

 ♪サヨナラサヨナラ椰子の島、お船に揺られて帰られる、日本人はご無事でいいでしょうが、理由もなくいきなり乗り込んできて、ドンパチ引っかき回し人殺しをして逃げて行かれた椰子の島の人たちの心の傷は、奪われた自由は、、、。一体どうなるというのでしょう。心すべき事だったのです。


(C) Copyright 2001-2004 JA2RM and JA9IFF All right reserved.