戦後アマチュア無線史(15):戦中戦後の真空管概史(一)

 大相撲の内規にちょんまげが結えなくなれば引退、と言うのがあり実際に横綱で髷結えず引退したのに大正の終わり、栃木山がいます。 その後大相撲は低迷期混迷期に入り6-7年もガタガタになります。 昭和6年、日本オープン相撲選手権が開催され、引退後7年目の栃木山が、シード出場から並み居る現役横綱大関を次々なぎ倒して優勝してしまったのでした。 この跡離反していた朝潮らの大阪相撲が、日本相撲協会に、朝潮が横綱になるのを条件に復帰します。 横綱男女の川の登場でした。 この頃から、時々相撲の実況中継というか現場からの勝敗放送と言った方がいい程度の放送がされたようです。 放送はニュース株式市況の他は長唄常磐津位だが1年に1月5月それぞれ12日ずつ、24日で暮らす良い男の時代の後半3-4回くらい。 何しろ中継線が大変だったらしい。 この頃までがラジオは鉱石ラジオかABC電池で聞くラジオの時代。 アンテナを屋根より高く上げて。 真空管はS球型。

 此の年春、日清日露の見返りに獲た日本の南満州鉄道の権益拡大を阻止セントして、平行鉄道や支線を張り始めた清朝の軍閥一家の張作霖が新設の鉄道橋ごと爆殺される。 日本のスパイによってでしたが関東軍は匪賊によるモノと譲らず遂に9月18日柳条湖の1発の銃声を理由に開戦してしまう。 15年の戦争による日本がボロボロになる末路への第一歩だったのでした。 翌春1932年満州帝国建設日本の傀儡国の発生。 陸軍の独走。

 ラジオ聴取登録料は、この年2円から1円に値下げ、8月更に50銭に値下げで漸く登録者数100万人突破。 更に2年後1934年に只になる。 此の1934年夏ロシアの陸軍が大演習をして、ブラゴベシチェンスク付近の渡河訓練を装ってか方向音痴してか、満州側に進入。 日本軍が警告も発せず全て実弾で応戦してしまい、ノモンハン事件。 日本はこてんぱんにやられる。 日本の飛行機も戦車もブリキの玩具同然全く役立たずだったらしいのに国民にはそれは知らされず。 この頃から、ラジオに、長唄や、浄瑠璃、株式市況 浪花節などが加わり、相撲放送も連日実況中継放送となる。

 かなりの田舎まで、電灯配電が行われ、定額燈時代。エリミネーターラジオのためには電灯のソケットとから電気を取る、松下幸之助氏の発明、二股ソケットが必需品、売れない筈がない。 国中に薄暗いながらも電燈が灯るようになって、蓄音機も手回しゼンマイ駆動・メガホンラッパから、モーター駆動・ピックアップ電気真空管増幅スピーカーへ徐々に普及していったのでした。 これを電気式蓄音機、俗に電蓄と呼びました。 ラインアップは227-226-245や出力3極管では更に超245などという陽極抵抗rpがKΩ以下の球も現れます。 此の球の電極を一個背中合わせにパラに大型ST球に挿入した球がかの有名な 2A3 なのです。

 この頃ST管型で安定化した4-5極管の製造販売の本格化に備えて、多極真空管及び電極に関する特許が出願されていますが、当時の交通事情郵便事情による先願たるべき外国からの出願が後願となってしまうことがあり、ジーメンス事件が起こります。 ジーメンスが特許を用意している頃,日本の青年が早稲田の学生を装ってドイツに渡航し、ジーメンス社の研究所の真空管試験所の担当ドクトルに面会、4極管と5極管がドイツではメタルチューブに作られていると言うが、、、と質疑応答に抱き込み、多極管の構造と保持方法の概要を聞き出し、帰国の船の中で、ゆっくり特許明細書を作り上げ、帰国そうそう特許局に出願した。 偶然此の船にドイツ語のジーメンスのパテント草稿が郵便で積まれていたようですが、郵便局から日本特許出願代行弁護士事務所に配達され、翻訳され日本特許の形に作られて、出願されるとどうしても半月ほどの日数は経過し、後願とならざるを得ないわけ。 こうして何日かの先願特許申請と同じ趣旨として拒絶査定された。 ジーメンスは怒り狂った。 スパイ行為である、先願出願者Aは、明らかにジーメンス社の研究者から説明を受けて何月何日の船に乗って帰国、直ぐ出願して先願を果たしている。 これがスパイでなくて何であるか。 此の係争はこの後2年半続くことになる。

 戦争が一段落しそうになった時又1発の銃声が1937年7月華北濾溝橋に起こり、政府の不拡大方針に逆らって陸軍は進撃、戦火拡大。 この頃からS球は在庫品のみ、生産はST管の格好良い真空管になる。 局型111から123型まで、ラジオの顔が決まる、ナミヨン更に3ペンの登場。 ナミヨンは、ごく並の安い球4つで出来ているラジオの意。 一般には227-226-112A-112Bか、ST管なら27A-26B-12A-12Fの再生検波式ラジオでした。 少し遅れて登場の3ペン式は、同じ再生式ですが、3極管でなく、4-5極管特に5極出力管使用のラジオでした。 3球で、ペントード(5極管)を使ったラジオという意味で3ペン。 始め、224-239-112Bなど、ついで235-247-112B:ST管になって、24B-47B-12F更に57-47B-12Fなど。

 更に戦線は拡大し中国を縦断しメチャクチャデゴザリマスル状態。 横山エンタツ・花菱アチャコも戦線へ送る夕べのラジオ番組に登場する。 ラジオが戦争をあおる。 歪められた日本歴史の、皇紀2600年で、1940年は大騒ぎだった、ラジオがである。 ラジオなかりせば、2600年も戦争も国民はもう少し冷静になれたのではないだろうか。 ♪電波は踊る勝鬨に、」という歌があったが、国民がラジオによって電波に踊らされて付和雷同した。 2月10日、式典の前日、津田左右吉著「古事記と日本書紀」発禁。 だから正しい皇紀2600年を祝おうとラジオは叫んだのだ。 2600年の式典歌を覚えさせられたが、タバコの値上げの替え歌しか覚えていない。

 ♪金し上がって15銭 栄えある光30銭、翼を広げた鳳翼は
  騰がりに騰がって50銭 ああ1億の民は哭く。
 (多分:♪金糸輝く日本の 栄えある光身に受けて
  今こそ祝え 此のあした 紀元は2600年
  ああ一億の胸は鳴る。」だったと思う)

 式典が済んで新年度を迎える頃から、1億総動員態勢への動きが見え始め大政翼賛なる言葉がラジオの用語に頻繁にでるようになった。 然しアメリカの経済封鎖は始まっていたが、鉄鋼石油、自動車、真空管の輸入は細々とつづいていた。 RCA命名法の2A7/2B7/2A3(後の6D6/6C6なども此の命名法)のST管の登場。 これより先此の年春、日独伊3国協定が締結され、ドイツと日本は盟邦となる。 上述のジーメンスの特許係争は未だ片が付いていない。 全体主義指向国威発揚の日本としては先願は捨てられないし、国粋主義者が後押しする。 真空管業者も。 真空管分野に色目を使う日立まで後押し。 とうとう陸軍大臣が逓信大臣を叱りつけた。 盟邦ドイツをなんと心得るか。 即刻示談しろ、と。 後1年掛かって、後1年以内に特許封鎖があるだろうと言うところで、2件とも公告に至っている。 (但し戦後、連合国権限でドイツの賠償として戦中ドイツ技術がPBレポート及びその付随物としてドイツの戦中出願特許も剥奪されたがそれまでの間)1941年6月、アメリカの経済制裁最後通告によって、それまで続いていた東芝マツダマークによるGE/RCAの真空管のライセンス生産も停止された。 7月出荷分までで全ての日本及び日本領土向け輸出品の全面船積み禁止であった。 これで、日本は孤立し狂気じみた世界を相手の全面戦争へ決意したわけ。 残り少ないパチンコ球を賭けて、軍艦マーチに乗せられて、メクラめっぽうパチンコ球はじくあの心境と選ぶところがあったろうか。 軍艦マーチを町に轟かせたラジオ屋のアンプも学校の朝礼や教室にもアンプとスピーカーが普及したが、、大型STかんUX50のB級パラプッシュプルのアンプだったと思う。

 1941年12月8日世界を向こうに回した戦争に。 私設無線電信電話実験局も、海外放送聴取登録者も、此の2日間に官憲の立入封止により息の根を止められた。 拡大した戦争は初めは勝った勝ったも、僅々半年1942年初頭まで。 直ぐに息が切れ始めた4月、マーチンB-26中型機を空母に積んで、ドウリットル中佐率いる36機の日本本土空襲があった。 東京、横浜、焼津、浜松、豊橋、名古屋、四日市、大阪神戸、相生、因島、三原、北九州、と通り過ぎながら列島縦断全機投弾して、機銃掃射も撃ち尽くして、長崎沖に不時着、潜水艦が乗員救助して去った。 邀撃は全く間に合わなかったし、第一、空襲警報のサイレンが鳴った頃は、敵機が縦列に並んで、機関銃の短連射で脅かして通り過ぎた後だったのだ。 軍も政府も慌てた。何たる情報伝達警報手間の掛かる組織である事よと。 第一気持ちが引き締まっておらん。開戦後直ぐの国民総動員令に引き続き、色々な戦時体制令、治安維持法再々強化、警報情報機構組織単一化、政党完全解散大政翼賛会強化、更に、今でも有名な敵性語廃止使用禁止措置。 (野球も全部日本語でやる)等々泥縄政策目白押し。

 1942年10月1日、機構簡素化・単一組織化のモデルケース、いや敵性語廃止でなんて言ったっけヵ、兎に角東京都が発足。 35区5郡はそのままいずれ計20の行政区に統廃合予定されたが、、、未だに掛け声のママ。 (戦後35->22区に、直ぐ練馬区が出来23区。ここでストップしたまま)それと時を同じくして1942年秋日本真空管工業会が、新しい日本独自の真空管命名法を決定実施。 6WC5や、6ZP1,6ZDH3などの名付け親です。 戦後のモノとお思いの方が多いが、此の敵性語廃止に伴う国粋主義の所産です。誤解しないで下さい。 日本独自のモノで外国では全く通用しません。

 頭の数字、四捨五入のヒーター又はフィラメント電圧。2/3/5/6/8/9/12等
 第2字:記号で、ベース型44本足から;X/Y/Z/W/G:7ピン=M;9ピン=R
 第3字:記号で、真空管機能を表示:A=低増幅率出力;B=ビーム出力;
 C=周波数混合;D=2極検波;E=同調指示;H=高増幅率3極;K=整流;L= 低増幅3極;
 P=5極出力;R=定ミュー増幅;T=サイラトロン;V=可変増幅など。
 第4字開発順数字
 第5以下必要あれば末尾記号で改造又は専用途を示す。

 これで、6WC5や6ZDH3Aや6ZP1のお里が知れますね。 2A3などは2XA3だったりして。 uy47Bは戦後傍熱管化して3YP1と呼ばれました。 此の命名法の踏襲です。 此の直後、戦時統制令法下でラジオ「モトイ」放送受信機の規格統一が図られ1942年12月に、国民型放送受信機規格が定められました。

  国民型1号(省金属資源型) 12YV1-12YR1-12ZP1-24ZK2
   ”   2号           6ZV6-6ZR6-6ZP1-5XK1
   ”   3号           3YR1-3YP1-5XK1
   ”   4号(傷病兵慰問用) UZ6D6-UZ6C6-UZ42(高級拡声器)-KX80
         (音盤再生用端子付)

 1,2号は1-V-1再生検波、マグネチックスピーカーで、1号はトランスレス管が特徴。 2号は何のことはない、6D6-6C6-6ZP1-12Fの新命名法による読み替え。 3号は局型123号の踏襲による3ペン再生検波受信機。 4号はレコードプレーヤーと組み合わせて電蓄にしても良い、外国部品の在庫も軍病院用なら使って良い余地。 軍の我田引水笑えてしまう。 何が敵性語だ!敵性ラジオじゃないか。

 その軍用真空管はアメリカ英国で開発されドイツもどうにか作ったが日本の当時の工業力の粋を集めても作れなかったメタル製真空管の代用をどうするかだった。 ドイツは模倣の最初、真空封止部分にガラスを使っていた。 米英のは最初から金属板でのプレス封止。 日本の当時の薄板では第一深絞りさえ出来ないのだ。 ましてプレスで高真空を封止出来る技術は夢の又夢だったのです。 ドイツ法も模倣できず各真空管メーカーの技両任せの観があった。 真空管のベースとソケットが合って、結線が合っていれば形は多少どうでも働くという逃げはあったから。 更に日本軍の通信機の取り扱いと米軍のそれは又大いに違っていたし。 米軍は既に野山をジープでデコデコガタンピシャンとはね回るに対し日本軍の地一号受信機は全備重量100Kgと言われ、コイルセットとアンテナを背に2人で受信機を、更に2人で電池と充電器を更に2人で発電機と燃料を運んだらしい。 馬3頭と換馬2頭が正式運搬仕様だったとも言う。 受信機だけで。 送信機は発電機が車付きで、馬が引くことに決まっていたようです。 これでは米軍にメタル管が必要でも、日本軍には要ったかどうだか。((続く))

戦後のアマチュア無線史(16):戦中戦後の真空管概史(二)

 大和魂で戦争しようと言う精神論も大きく作用して、ない資源となけなしの材料を使って出来る真空管が作られることになっていました。 夢は矢っ張りメタルチューブだったのでしょう。 それに、STの大型管の輸入物の中には、6L6だけでなく幾種類かのG管と云ってST管の管球ににオクタルベースの付いた球も現れていました。 オクタルベースとはメタル管の足で、真ん中にキー溝付きの丸棒のある8本足、後にGTのベースの標準。 これがST型の肩付きガラス管に付いた球をG管と云った。 6L6Gなど、大型の出力管や整流管など、足の数が3本や4本ではヌケ上がりやすい為、オクタルにしたモノと思われる。 メタルチューブの足はこれでした。 暗闇でも向きを間違わない、ヌケ上がりにくい。 軍用向きに違いない。

 日本で先ずメタル管の真似型軍用管としては、少しgmの高い感度の良い球が必要だったらしい。 住友真空管では、ST管トップグリッドのUZ78と同じ大きさで、gm6500-8000マイクロmhoの球を試作してMC658Aと名付けている。 MCは相互コンダクタンスの略だろう。 6.5-8ミリmhoを記号に特に使ったモノ臭い。  Aはアバウトか?

 メタル管の6AC7とほぼ同等のgm。 こうして他社も交えて、オクタルベースで、メタル管のように寸胴のガラス球に此の手の電極を挿入、金属管の真似した、ドーム頭のトタンの薄い板で覆った球が作られた。 苦肉の日本式。外見金属板球。RH2,RH4,RH6、RH8;などである。 数字はそれぞれgmをミリムホーで示したつもりのようだが、RH2は良いとして後は4も6も8も大して変わらず、戦後測ってみた処では、3.5-5.5の範囲で見事にどれも万偏無くばらついていた。 MC658Aはよく管理されて作られたのか6-8の間を実現していたのだが。 オウデイオ用の出力管は、此のトタン板の外皮を被らない、いわば戦後のGT管に似たガラスの寸胴の管にオクタルベースを履いていた。 PH1とPH2があり、PH1が5極管でPH2がビーム管だったと思う、さしずめ、6F6GTと6V6GTみたいなモノ。

 このほか、ドイツの潜水艦用の抜き差し用の取っての付いた球の日本コピーで、足が横腹から、水平放射状にでた飯蛸のバケモノのような形だった。 RE-3とRC-4で、前者が発振用の3極管、後者が5極増幅管だった。 送信管も、東芝のライセンス生産が封鎖されてからは、各社の思い思いの設計生産だったようです。 住友のステアタイトベースの807によく似た電極のビーム管とか、ハム再開に当たっては結構活躍しました。 このほか、RCA系の6D6;6C6などの呼称が使えなくなって、住友は、CZ-106シリーズを作ったようです。 理研真空管は、6.3V海軍錨印は、UY76;UZ77;UZ78;でした、2.5VシリーズでのUY56;UZ57;UZ58に対応してH電圧が変わっているだけです。 軍艦レーダー用などに東芝は、RCAの955/954/956超短波用のエーコン管をライセンス生産していましたが、マツダUN955/UN954/UN956とベースナシ記号UNが付いていました。 これはライセンス封鎖前に在庫を持ったようでした。

 戦争が激しくなって、飛行機の損耗が激しくなり、空襲で工場や倉庫も破壊され、補充用の真空管に事欠くようになり、僅かに残った製造設備で、作るために、万能機能真空管が作れないかと云うことになり東芝他に軍命令が出て、作られた苦肉の万能管が、FM2A05Aと、東芝 ソラ でした。 ソラの発明者は,♪山よ岩よ吾等が宿り、、、や南極越冬隊長をやってのけた西堀栄三郎氏ですがソラが当時「ソラソラオシャカ」と新品でも灯がともらない薄暗いヒーターだったので不評だったことを知って居られ「耳で聞けば働いているのに差し替えに際し明るいところで見るからいけない、あの球は、4.5V以上12.6vまで、電圧が変わってもヱミッションが出て、且つ絶対にヒーターが切れてはいけないと云う軍の要請項目を満たしたので5-6.3ボルトではヒーターが薄暗くて明るいところでは点いていないようにしか見えないのですよ」と笑って居られました。 此の球は、管内シールド板も省略勿論外皮トタン板無しガラス管内壁制電塗装のほぼGT管、ただ頭ドームがGT管よりつんぼりまるい形、東芝のマーク色の金灰色の角が取れた四角の中に「ソラ」とカナ文字でした。

 此の意味ではGT管型というのは、日本のメタル管指向代用品時代の所産なのかも知れないですね。 ソケットと足が違うじゃないか? 代用品時代の日本にはモノがなくても知恵がありました。 ソケットに合う二重ソケットが別売されていました。 戦後は変換ソケットと呼ばれ、結構再利用されました。 4.5V以下の2.5V球も飛行機用にあったようで、飛行機用の飛び何号と言う無線機の銘板記号がFM、それの2.5V以下を示すのが2A;アンペアが0.5A程度と言う万能管がFM2A05Aと言うひょろ長いST管型 世にも不思議な真空管でした。 足は2種あったように記憶します。 真空管だけでもこんな苦労をして戦争していたのですから。 他は推して知るべし。 イロハがるたにさえあるじゃありませんか、負けるが勝ち。 止めておこう戦争。((続く))


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