戦後アマチュア無線史(17):戦中戦後の真空管概史(三)

 真空管の話だけに60年近くも経過するとボケるのかも。 しっかりご指摘を蒙った。 訂正しお詫びします。 飛何号無線機も敗戦間近、確か飛六号になると、僚機と組んで飛んでいるとき、例えば戦爆連合で、爆撃機や隊長機は基地と通信できる型を積んでいるが、戦闘機は直ぐそばの飛行機と交信できる程度のモノで佳いではないかと云うことになり、1球式のオートダイン受信機ををかなり強く再生発振した状態で、受送信した型があったらしい。 球はUt6F7だったようです。スーパーヘテロダインに使う、周波数変換混合用の七極管6A7の不安定さを補うために足接続はそのままに差し替え可能な、3極5極複合管で、2組の電極が背中合わせに入って、トップグリッドは5極部のグリッドでした。

 FM2A05Aには、純正6F7Gとも言うべき東芝ソラ型で、トップグリッド感慨に打ち抜き丸アナが沢山あるアルミシールドの付いた球と、前項に記述したひょろ長いSTのトップグリッド型と2バージョンがあったように思います。 3極部と5極部が縦に2階建てに造る工場もあったのだと思います。 戦争末期には、私の学徒動員された工場でも、機銃掃射と小型爆弾の1回の空襲で、みんな壊れてしまったように見えても、動くモーターを外してきてこっちの減速機に繋ぎ、此の動く機械部分を集めて3台を1台にする4台を1台に作り替えるとうとうすることで、1/3 - 1/4の台数の機械が使えるのです。 然し2回空襲を受けるとその2乗、100台のうち7 - 8台の機械しか使えないところまでしか回復できず、機能が麻痺してしまいました。 毎晩2 - 3時間の仮眠だけで、機械をばらして運んで、補修部品を加工して突貫工事で総員掛かりで組み上げて5 - 6日でです。 見かけは全くやられてなくても肝心の所にたった1発の12.7ミリ機銃弾がめり込んでいてどうにもバラシも出来ないモノもあり逆に油が燃えだして焼けただれてこれは駄目だろうが兎に角ばらして洗って磨いてみようやと消し炭をヤスリ代わりに使って磨き上げて組み直してマジ動いたときは感激したり。 戦争の痛手の運不運は量り知れません。 此のツンボリFM2A05Aもひょっとするとそんな工場で作られたのかも。

 カラスカアーで夜が明けたように戦争に負けて灯火管制がなくなって、薄暗い電灯ながら、街の家々に明かりがついたり灯ったり。 然し直ぐ停電、又停電。 朝早くは電圧元気、日が高くなると電圧は低下し、日が暮れると電灯もポカポカ暗くなる。 ナミヨンや3ペンラジオは再生バリコンを回して、「ピーと泣かすな子供とラジオ」の戦時標語を守って、発振してピーと泣く寸前まで上げて蚊の鳴くような音。 なのに朝早くのラジオ体操はピーギャー近所のラジオの再生発振を貰うほど電灯線電圧変動は大きく、又再生ラジオの調子は電圧変動に連れてしょっちゅういじり回さねばなりませんでした。

 戦前からスーパーヘテロダイン受信機がなかったわけでわありません。 スーパーへテロだけでなく3極管時代から、インフラダインもスーパーヘテロダイン受信機もありました。 戦後はスーパーへテロだけになってしまったからスーパースーパーになってしまいましたが、FMの受信機では最近でもインフラダインになっているモノもあったのです。 局部発信周波数が受信周波数より中間周波数分高いのが上側ヘテロつまりスーパーへテロ、受信周波数より局部発信周波数を中間周波数分低く取れば内側つまりインフラ。 各ダイン受信機。 同じ周波数でのがオートダイン。 再生検波受信回路もこれらもみんなみんな、LC同調回路を見つけたアームストロング教授の業績。 閑話休題。

 戦後直ぐの東京の真空管ラジオ部品のメッカは、秋葉原ではない。 あそこは焼けハッ原だったから。 駿河台下、小川町、淡路町、須田町そして神田駅まで。 ここらが焼けて居らず、但し、淡路守様屋敷には1トン爆弾が落ち粉砕され、直径30m深さ6-7mの擂り鉢型の大穴が空いていたが、これ以外は不思議に燃えていなかった。 此の電車通りの南側歩道にリヤカーや戸板を敷いて、ラジオ部品や真空管をパラパラと並べて売る露天市が並び、淡路町付近に店構えが両側に2-3軒、須田町神田だ間には真空管主体の店が何軒かあった。 地下鉄は銀座線が昭和の初めから開通していて、須田町と末広町の間に万世橋駅があったが爆撃で水が入り、戦後廃駅して路線復旧したが、須田町駅は営業しており、神田駅から地下東側に歩廊があって須田町駅まで歩くことが出来たが、須田町駅に近い地下にジャンク屋が2軒あった。 1軒には真空管があった。 省線万世橋駅は戦中昭和17年に廃業したが、その後爆弾攻撃で半壊した。 そのガード脇に日米ラジオというジャンク屋がありガード脇から万世橋南詰めまでびっしり、針金磁気録音機の今の洗濯機か冷蔵庫ほどもあるがらくたが山積みされていました。 ワイヤーのワッパの束は松住み町のガード脇にガードの高さまで山脈が出来ていました。 テープレコーダーが出来て、横浜C級戦争裁判は続いていましたが、それまでのワイヤーレコーダーはイランワイヤー!とばかり投げ出されていました。

 此の神田露天市場に出ていた真空管は、出所から云えば、日本軍、米軍、隠退蔵物資、米軍持ちだし。 新品、中古、入り交じり、S/ST/MT、軍用管、がみんなそれぞれの装いで。 それぞれの思いを込めて。 それなりの値段で。 と言っても1本100円以下のモノはなかった。 省線初乗り10円。 都電10円の時代に。 未だ公衆電話は復活していなかった。 神田鍛冶町鍛冶橋の川が堰き止められて、暗渠になった頃から、真空管の戦後生産品の販売が各社出揃ってきて、華やかになったと思う。 戦前のブランドも幾つか復活。 BESTO:RODIN(ロダンと読む)TVC:マツダ:そして改名組、住友真空管がNECマークの日本電気に、川西真空管が、TENマークの神戸工業に、理研真空管が財閥解体で、日立が買い取り、日立は戦前からの真空管工業へ参入のの宿願を果たした。 戦後の生産開始当時は未だST管の全盛でした。 神田で作られた偽造マツダマーク品いわゆる「かんマツ」も次第に姿を消しました。

 敵性語廃止敵性真空管記号廃止日本式も、和洋混淆に成り下がりました。 トランスレス用の12YV1/12YR1/24ZK2/12/6ZP1等は残りましたが6D6/6C6/は復活しました。 トランスレス管もマジなバラストチューブB-36/B-42等の復活で、チャンと使えるようになりました。 12v管3本+24V管で合計電圧は60ボルト、電灯線が100Vなら差は40V、これを純抵抗で入れると、真空管フィラメントに突入電流がメッチャ流れて、点火はメッチャ早いのですが寿命はメッチャ短くなる。 純鉄は、高温で赤くなる温度では水素を吸着して、金属水素として捉えて抵抗値が上がる、逆にフィラメントは赤くなると抵抗値は下がる、此の原理を利用して純鉄抵抗線でバルブの中に抵抗を入れ一旦高真空にして、水素を必要量充填して封じた球をバラストチューブと称しトランスレス管とシリース結線して使用しました。 戦時中は純鉄も水素も、軍需品で、民間の取扱禁止品目でした。 水素は風船爆弾に必須なモノでしたから。

 戦中の1942年末に、決めた国民型1,2,3,4号はこうして戦後になって漸く真空管と部品をえてラジオとしての体を現したと言って良いでしょう。 ナナオラ、クラリオン他戦前からのラジオメーカーの他にも戦時合板キャビネットで横長セルロイドダイヤル式のラジオで参入したメーカーもかなりありました。 全てST管で,2.5V管シリーズではUZ58-UZ57-UY47B-KX12F:6.3V管ではUZ6D6-UZ6C6-6ZP1-KX12F:4号では6ZP1の代わりにUZ42そして整流管がKX80でした。 国民型の他にヴィクターなどは、中間周波463Kc/sのスーパーヘテロダインを高級ラジオ:オールウエーブ:高級電蓄用に売っていました。 球で云うなら、2.5Vシリーズなら2A7-58-2B7-56-2A5-KX80:6.3Vシリーズなら6A7-6D6-6B7-76-6A5-kx80:専用電蓄では、2B7-56-56-2A3などがありました。 5球スーパーが雨後の竹の子と現れる5年ほど前の話です。 1949年にでしたか50年かに、世界的にラジオの中間周波数は455Kc/sに統一しよう。 (それまでは163Kc/s、183Kc/s、463Kc/sなど:メーカー:受信範囲等によってまちまちでした)と決まり以来50年以上450-455Kc/sが守られています。 ((続く))

戦後のアマチュア無線史(18):戦中戦後の真空管概史(四)

 昔、戦争は発明の母と申しまして、真空管も例外でなく戦争の必要からいろいろ工夫発明改良が、新しい真空管を産みました。 日本のは苦肉の代用品が殆どでしたが。 1935年頃から、列国の間で電波探知技術が発展し、超短波が適するとされ、超短波の研究に必要な真空管が模索されました。 波長が短いことから真空管電極を小さくするのは無論ですが、電極からの引出線や脚とベースを何とかしなければならず、ガラス壁から直接脚を出す技術が研究されました。 当時のガラス素材と加工技術を持ってしてはなかなか実現困難でしたが、ガラス組成と、引出部の合金と加工温度と方法を組合せて遂に実現し955というドングリほどの3極真空管が作られ始めました。 東芝がノウハウを買って国産化を目論みUN955と称しましたが、残念ながら、此のガラス脚プレス接合部分の加工が今一で、不良率が高く、実用寿命が延びず、ガラス技術の難しさをたっぷり味わったようです。 此の技術はエーコン管のみでなく、引き続く、GT管や、ミニチュア管の脚の技術に必須のボタンステムと云う脚の一つのシステムとなりました。 その前に戦争末期、日本の神風特攻隊に係わって悲しい兵器の登場に大きく係わっていました。

 特攻攻撃で敵艦に与えた損傷は余程の運が働かねば大したモノではなかったようですが、同じ若者が命がけで突っ込んできて死んで行く光景が若いアメリカ人に与える心理ショックは量り知れず、ベトナム戦ほどではなかったにしろ精神耗弱を起こしたりドラッグに走るモノが相次ぎ始めたのです。 自艦に激突するよりもずっと手前で打ち落とした方が此のショックをかなり軽減できる、その為に高射砲弾にレーダー式の近接信管その名も「VT信管」付の砲弾が開発され、当たらなくても飛行機に当たったレーダー反射波が最大に近付くと爆発する信管でした。 小型にする必要があり、量産されたのは、レイセオン社などが作ったCK管日本ではサブミニチュア管と呼びました。 脚無しの細いミニチュア管を水平に置いて引出ステムごと扁平に潰したような形で、引出線は直接結線したようです。 CKに続く4桁又は5桁の数字番号で、品種を区別できたようでした。 戦後補聴器の直流増幅管などに再利用されました。 実は特攻隊対策の球だったのでした。

 上述のガラスのプレス融着によるボタンステムは、メタル管を平和目的管としてのGT管化に大きく貢献し、又ミニチュア管の開発量産化に大きく貢献しました。 このほか超短波用の小型送信管の脚の処理に此の技法が援用されました。 (832Aや829Betc)ミニチュア管は、戦中から先ず電池管として、通信機の小型化、例えば硫黄島作戦から使われた、有名なウオーキートーキーBC611等に使われて活躍したようでした。 戦後は占領軍が乗り回すジープのカーラジオ、東京の駐留軍向け放送はWVTRとアメリカのコールサインを使っていました。 駐留でなく占領だったのです。

 1.5V直熱管、4球スパーヘテロダイン。 1R5-1L4-1S5-3S4等でした。 後に手持ちのポータブルラジオでは1L4が1T4に代わりましたが。 巷では、インフレに次ぐインフレ、闇市場へ行けば何でもあるが、先立つモノがない町方の庶民は、着物を洗い張りして、綺麗にして、背負って、満員の汽車にへばりついて沿線の田舎農家を廻って、着物と交換に僅かばかりの米麦イモなど腹の足しになりそうなモノと物々交換に行ったモノだ。 これを買い出し、買い出し列車、着ているモノをドンドン脱いで行く生活をタケノコ生活と自嘲した。 米穀通帳と書いた通帳が配給の頼りで、行政から配られていたが、米穀は拝みたくても配給されたことはなく、イモ柄、随喜、カボチャならおやラッキー、イモなら御の字、粟ヒエ、コウリャンは、1升瓶に入れて棒きれでトントンついて、脱穀精穀をしなければならなかったのです。 1升をつくのに半日はかかる、電気が来ていればつまらないニュースでも聞きながら、ナンとかコウリャンの殻と実をつき分ける。 ラジオが鳴っていないと半日は未だか未だかだった。 マッカーサーは官営単一放送を全体主義復活の芽として恐れていた。 第一アメリカにはないモノ。 放送システムをどうするかをFCC(連邦通信委)に相当する電波審議委員会に諮問したが、NHKを解体という答えは遂に得られなかった。 イギリス並に天皇制を残した以上イギリス並に,NHKで良いという意見まである議事録抄録を見てマッカーサーは怒り、GHQ命令で直ちに民間放送の設立基準を定め、免許申請を受け付けることにした。 彼の日本嫌いはここで頂点に達し、日本にデモクラシーは決して根着かないとまで言わしめた。 これで1951年日本にも民間放送が実現したが、50年経過した今デモクラシーが根着いたかどうかは極めて疑わしい。

 民間放送が始まると放送電波が錯綜して混信だらけになるとラジオ屋とメーカーが宣伝し捲って、ナミヨンや3ペンは買換え、国民型は頭にスパーヘッドを付けて当面凌ぎましょう、将来は5球スーパーにしましょうキャンペーン。 ここで一挙に登場したのが今も讃えられる名管 6WC5 でした。 スーパーヘテロ受信に欠かせない周波数変換管。 Ut6A7;2A7等が、従来此の目的に使われたのですが、局部発信を別の球でやり周波数混合するか、Ut6F7に差し替えるかしたモノの、発振注入電圧の調整が難しく、スーパーが今一はやらなかったんでした。 それが6WC5はどんな電極設計になっているか知らないが、1球で5グリッド管に係わらず、局部発振電圧も常に注入に適当で、安定な周波数変換をやってのける世界で始めての球だったと思います。 マッカーサーの日本嫌いが民放の種を撒き、此の球 6WC5 が日本の民間放送の開始に当たってデビューしたことが、5球スーパーの普及、民間放送の発展の縁の下の力持ちだったといえるでしょう。

 5球スーパーのST管による定番ラインナップは、6WC5-6D6-6ZDH3-6ZP1(又は、UZ42)-KX12F(又はKX80)でした。 数年後に、6ZDH3のトップグリッドが取れて、6ZDH3AとAがつきました。 双2極3極管だったのが、双二極を管内結線にして、3極管のグリッドをトップから脚に移したのでした。 この辺りでJAコールが日本人のハムの呼出符号となり、いくつかの6球-9球通信型受信機が、ST管で作られ販売されましたが、日本の真空管工業でもボタンステムが難なく作れる時代が来て、かっこいいGT管、やがて直ぐミニチュア管が市場に溢れるようになるのでした。((続く))

戦後のアマチュア無線史(19):戦中戦後の真空管概史(五)

 戦後米軍ジャンク品(略してアメジャン)の真空管は、初めのうちはメタル管とG管で、希にエーコン管ST管がある程度で、GT管やミニチュア管は朝鮮事変が始まってからのジャンクで、それもGTよりはロクタル管が混じっていました。

 メタル管のはしりは寧ろ英国の軍用に開発が始まったモノだったのですが、直ぐアメリカが模倣し成功しました。 ドイツも情報を得て、真似したようですが、上手く行かなかったようです。 アメリカの開発品も、初めのタイプは、高周波用の球は、ST管の潜入見で、USベースですがトップグリッドのメタル管でした。 1940年頃までの6K8:6K7:6J7:6Q7等のシリーズです。 トップグリッドと云ってもST管のそれとは2周り細く、長さも一寸短いモノでした。 ここが弱点だったようで、そのころ改良型になりました。トップグリッド管を無くし全極脚に抜きました。 6Sメタルシリーズです。 6SA7:6Sk7:6SJ7:6SQ7:がトップグリッドの取れたメタル管で上記のメタル管に対応する新型でした。 普通受信機用のみでなく、hi-gm管の6AC7:6AG7:6AB7:中-gmの6SH7:6SS7:5極出力管では、6F6、高出力ビーム管では6L6、普通ビーム管では6V6が有名でした。 これらは日本では戦後1955年以降ガラス球GT管として全部お尻に-GTが付いて作られました。 技術レベルの差が、タイプの差と活躍時期の遅れを生じたわけです。

 但しこの時期の差で、タイミング良く進化した真空管もありました。 トップグリッド付のメタル管が6Sメタル管になったときは勿論進化のチャンスだったことは云うまでもありませんが6SA7メタル管も決して6A7をメタル管化したモノでなくかなり安定な周波数混合管/変換管として働く進化した球でしたが、メタル管からGT管化するに際して、外皮がメタル殻であるのとガラス球では、問題が違うことに絡んでチョイマチーが有ったのです。

 5極管誕生の処で一寸述べたように、熱陰極カソード等で発生した熱電子はスクリーングリッドで加速されて陽極に激突陽極電流を流すのですが激突により多くの2次電子を放射してしまう。 これが電極内へ戻るのは5極目のサプレッサーグリッドで捉えるのですが、陽極を突き抜けあるいは屈折して通り抜けて電極外側へ出るモノもあり、このため、原理的にこれを無効化出来るメタル管が考案されたほどなのですが、ガラス内壁に衝突して、静電気を生じさせ足り、無効電流のモトになったりすることを防ぐため、5極管ではガラス内壁に制電グラファイト塗装をしたり、陽極の外に管内シールドを設けたりして有りました。 メタル管の細さに比べ同じ記号のGT管が結構径が太く作られたのは此の管内シールドが必要だったが為です。 メタル管の6SA7では安定だった電極がGT管にしてみると存外トラブる。 いろいろやってみるが良い解決法がない、ガラス管で超安定なのは6WC5。 ジャーと言うことで6SA7-GTはナンのことはない6WC5の電極に管内シールドを付けたモノになりました。 看板に偽りアリですが。 名管は名管なのでした。

 ミニチュア管の6BE6は初めから6WC5の電極設計を頭に置いて設計されたと云う事です。 6Sメタル管シリーズとGT管化の間にもチョイとした苦労はあったのです。 丁度、これら、ST管からGT管への時機が前章で述べたトリオの通信型受信機で云うと9R4から9R42への頃、そして5球スーパー6球スーパー全盛で、それらもミニチュア管化されて6SA7GT-6SK7GT-6SQ7GT-6V6GT-6CA4GTから6BE6-6BD6-6AV6-6AR5-5MK9になり更にそれらにマジックアイ6E5同調指示管が付いたりした時機でした。 黒白TVが殆どGT管時代に始まり、ミニチュア管にになる頃カラーTVの普及が始まり、シャーシーの小型化のニーズから、複合管がやたら作られ、又ヒーターの複数直列点火等々で、ミニチュア管の種類は際限なく、増え続けました。 GTが受け持っていた高圧発生もコンパクトロン管が作られ、これらがアマチュア無線機に応用される時代が来るのですがそれは「もう戦後ではない」と言われた随分と後の世のことでした。((此の項終))


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