戦後アマチュア無線史(20):予備免許/試験電波

 電波管理/審議委員会とアメリカのFCC(連邦通信委)を真似てGHQが電波行政を委員会形式に育てようとしたにもかかわらず、官僚主義政治しか体験したことのない政治家にも官僚にもナンのことか分かりはしなかった。 アマチュア無線局も一寸の虫にも5分の魂、無線局の端くれだろう、スパイ電波横行時代に、緩めることまかりならぬ、だっただろう。 一般の無線局並の手続がそのまま課せられた。 なんと言っても笑えたのは、無線局免許申請に当たって、オペレーターは誰がやるか「無線従事者選任届」というのを出す必要があったのです。 7メガ弁では「アマチュア無線局長」なる方言があるようですが、1959年法の現在では、アマチュア無線局ではなくなりアマチュア局、無線局長の試験を受けた人は一人もいない筈で、みんな平等の無線技士の筈です。 委員会形式法の昔こそ、局長が、従事者つまりオペレーターを選任していたわけでしょうが、電波を発射しているのは選任されたオペレーターに過ぎなかった筈。 局長が直に電波の発射は出来ない。

 予備免許が来ると、無線局の工事を落成して「工事落成届」「試験電波発射届」を出し、既免許局などとレポート交換、アドヴァイスを貰うなどして、機器空中線を調整し検査合格できそうなら「工事落成検査願」を提出して、落成検査を御願いする。 5Wの局でも100Wの局でも此の手続にはいささかの省略も許されなかった。 7/3.5メガを聞いていると、今は、色々な試験電波が聞こえるが、当時は、無線局運用規則に試験電波の発射方法も規定して有り、「只今試験中こちらはJA4HL」(CWならvvv de JA4HL)「本日は晴天なり」(CWにあってはexexex)の繰り返し又は連続であった。 当然全国10局の電波監視局の監視対象であった。 現在マイクをフーフーザーザー息で吹いている人が多いが、当時はそれが、マイクの寿命的にも許されない行為だったのです。 金持ちやそのドラムスコならいざ知らず、当時の無銭局ではマイクロフォンは、クリスタルマイクオンパレードでした。 AIWAの砲弾型スタンド型が買えない私は小林理研、RIONマークのクリスタルラペルマイクを襟に付けて唾の掛かるのを避けて喋っていました。 昔の話好きとこの頃のマイクはと聞くとクリスタルラベルなあ、と「ラベル」というが間違い「ラペル」(洋服の襟)が正しい。

 クリスタル、結晶で圧電素子ですが、水晶や無機質セラミックでなく、ワインの中から固めて取り出した、水溶性の酒石酸カリウム・ナトリウム塩と言う有機物の結晶、ひっくるめて云えば、味の素のようなモノでした。 ワインを寝かせておくと酒石と称する白い粉が沈殿して溜まる。 これをアルカリ再結晶精製して単結晶成長せしめ適宜切り出して、防湿処理を厳重にして、マイクやイヤフォンの素子として使っていたのです。 これは1935年頃、ロッシェル教授によって圧電現象が大きいと発表されたので各国大いに研究したのですが、日本に持ち込んで研究しようとするといずれも直ぐ役に立たなくなったのでした。 元々水に溶けている物質。 それを高温高湿度の日本でそのままか欧米並の防湿程度で使おうというのが無理。 特にマイクは1語1句唾吐きとの真剣勝負。 直ぐに寿命。 それまでのカーボンマイクでも、湿る度に中のカーボン粒を取り出して日光乾燥したり軽く焙烙で炒ったりしたモノでしたが、真逆ロッシェル塩の単結晶を焙烙で炒るわけにも行かず、戦前も随分話題にはされました(戦火拡大時代無線雑誌は次第に情報管制で書くことが少なくなってよく此の関係記事が取り扱われている)が実用化には達しませんでした。 戦中戦後新素材として研究は続けられ、味の素の日本特許が戦時凍結解除特例延長でも50年の特許期限が切れて、巷に、旭味だの、味日本だの5社ほどのグルタミン酸ソーダが乱立乱売された1949年頃、小林理研がクリスタルイヤフォンを更に続いてクリスタルスピーカーを発売1951年頃 Primoがクリスタルマイクを、更にAIWAも砲弾型マイクを発売したんでした。 然し電話局のカーボンマイクは随分長命ですが、クリスタルマイクは、いつか矢っ張り湿気に負けたか、流行らなくなり、コンデンサーマイクに取って代わられました。 だからといって、試験電波でザーザーズーズーマイクを吹くのは邪道だと思います。 外国での食事マナーに喩えるなら、スープやスパゲッチイをずるずるつるつる啜り込んだり鼻をズルッと啜ったりするようなモノです。 鼻を啜るくらいなら、膝の上のナプキンで思い切りよくチーンと鼻をかみましょう、げっぷは御法度ですが、おならはすかして平気です。 変だがルールはルール、無線は通信規則を守りましょう。 それがルールです。

 NHKが呼んだベニー・グッドマンと彼の楽団が来日した1955年1月、JA4HL落成届と試験電波発射届、落成検査願を電監に郵送しました。 落成したJA4HLは会社の寮のT室でしたので、会社の総務課に届け出ました。 ナンと総務係長が、寮住まいで、しかも、元シュムシュ(占守)島独立守備隊(陸軍航空)通信士官(少尉)で、非常に興味を持っていただき、社内での便宜も図っていただけ幸運でした。 手紙が広島に着いた頃、長距離電話で聞いて見ろ?と繋いでいただき電監に電話すると、「何い、玉野市?1局だけ?それは今年度はおろか今年中も無理な話や。 宇野玉ならのお、又船舶局の申請出りゃあ纏まって一緒に、と言うこともあろうがノウ、予算がないしそんなに出張予算はとれンケエナア、そりゃいつかはわからしまへんでえ、岡山から2時間なあ?岡山と足して6-7局溜まらにゃーいかれんぞな。」と情けないお返事。 しっかり落ち込んだ。 S士官殿は、それがお役所仕事っちゅう、自棄酒割勘ならいつでも付き合うぞと笑う。 決して大きい人ではなかったが、シベリヤ抑留時代、地区司令部の付属道場へ連れて行かれて毎週3回ソ連将校に剣道指南をさせられたと言うのが自慢の戦時中最後の学生剣道選手権覇者「突きのS」(本人は4段と言っていたが此の優勝で5段の筈)の戦後の在りし日でした。 若くしてなくなられましたが、陸軍の内情について時々語っていただきました。 いつか書き残したいモノと思っています。 特に占守島の終戦のことは。

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 【お詫びと訂正】真空管概史の初めの方で:ノモンハン事件の発生地点をブラゴベシチェンスクなどと間違った記憶が出まして失礼しました。 お詫びして訂正します。 マンチュリアのハルハ川の対岸はザ・バイカリスクで此の付近は西南西から東北東に掛けてかの成吉思汗力作の「千里の長城」(秦の始皇帝の万里の長城の北約千キロの処にある)の切れ目なのですが、その未だ西のハルハ川を渡って長城の切れ目から一旦蒙古領に進入したソ連軍が、満州里の南、小興安嶺西麓の満州領の湿地沃野に回り込んで進入したモノです。 満州里から見ているととても迷い込んだとは見えない明らかな侵攻だったわけです。 現在も中国領で、ここの夏には大きな湖が2つも広がる沃野で、渡り鳥の水鳥,冬日本に渡ってくる水鳥の殆ど全てがここで夏に繁殖しているようです。

 

戦後のアマチュア無線史(21):ステーション・タイトルの元祖と小林記者

 フォネチックコードで、コールサイン、現在は呼出符号でなく識別符号と言うようですから、コールサインと言うよりはフランスでずっと言っていたようにインデイカチーフの方が、相応しいのでしょうがJA4HLならマジにフォネチックコードで言えば、ジュリエット・アルファ・ナンバーフォア・ホテール・リマですがこれをもじって、ジャパン・アマチュア・フォア・ハム・ライフとやらかせばれっきとして「ハムライフのための日本アマチュア」と意味を持ってきて、単なるJOAKとは一寸違ってくる。

 こんな感じで呼出符号をもじってステーション・タイトルなるモノを使ってCQを出す局が昭和30年春ゴロ現れました。 高田馬場駅の近く当時ゴム歯ブラシなるユニークな歯ブラシを売っていた製薬会社の湯沸かし場に無線機をおいて。 「CQ.CQ.CQ.こちらは、ご存じ、中山安兵衛仇討ち高田馬場、ステーションタイトルの元祖JA1KC just attempt one kissing chance キッスをするならこの時だ、のJA1KC。 お聞きの各局コール下さい、スタンデイングバイ」今時の7メガと違って、あの歯の浮くような、何々コーリングユー。 みたいなのはない時代。 三人称単数現在進行形なら、何々「is calling you」だろうに。 英語ぶって馬脚を現している。 よっぽどこのステーションタイトルの方が気が利いていた。

 このステーションタイトルを作らせたのは前述の朝日新聞社会部記者小林氏。 「おい味も素っ気もないのよりは何か気の利いたセリフでやってみな?チャック。 お前のお兄さんのジェイ・エイ・ワン・アロハ・ハワイはかなりいいけどな、JAの1キロサイクルじゃ、冴えないだろお兄さん英語堪能なのだから何か考えてもらえよ」ってことで、ジャスト・アテンプト・ワン・キッシング・チャンスはアロハ・ハワイことお兄さんのJA1AHの作品。 チャックは、小林記者とは、昼休みに会うときは藪そばで、夜明かし喋るときは、駅近くの木賃宿「高田馬場ホテル」でが定番だった。 今高田馬場ホテルは横町に引っ込んでいるが、当時は駅に並びの表通りに面した奥だけ2階、店先は平屋の木賃宿であった。 私も彼と会うときはこの定番ミーテイング方式でした。

 あだ名の通り、口にチャックを付けて五月蠅い時にはチャックを閉めろと言っても駄目だから、いちいち締めてやらねばならないしゃべり好き、ほおって置けば、飯も忘れ、喋り続けひょんな時におい、ところで、お主腹へらねえか?とくる。 こっちはとっくに背中から臍が透けてみえてらあ。 いい加減口のもう一つの役させろってことよ、と言うことになる。 夜道に日は暮れないというモノの、彼が喋り出すと、日が暮れないどころかあっと言う間に夜が明けるのだ。 誰かが欠伸する、彼はやっと気づく、ああ未だ8時半じゃねえか? そう出勤時間だぜ! ええ?、、、っと、高田馬場ホテルからご出勤ということになったこともあった。 製薬会社勤務と言っても、彼は人事課給与係。 月に2日しか忙しくないと嘯く。 でも勤務時間中はなるべく人に話しかけず、結構忙しげに電話を取ったり、メモを作ったり、そろばんを弾いたりして金を数えたり、しているのだという。 アロハハワイ兄から下請けしたアマチュア西武クラブの会計の仕事をこなしたり、お知らせメモ、連絡メモの作成などしていると、係長も文句を言わないが、勝手に出歩いて油売ったりしていると「お前は自分の労働時間だけでなく相手の労働時間まで盗んでいる」ときついおしかりを受けるのだそうな。

 戦前戦中戦後に掛けて人類の敵は戦争という人為的なモノの次は結核の脅威でした。 若いうちに3人に1人は羅患発病しその3人に2人は長期療養しその2人に1人が、20-30台に死亡したのでした。 特に栄養摂取自然回復だけが治療法だった戦後直ぐまでの時代にこの戦争の食糧難は結核患者死亡率を押し上げ、中日戦争開始以来、それまでの毎年10月1日の人口動態調査も軍部の圧力により死因調査の病名は書かないことになった程です。

 戦後、未だ特効薬が出る前には、結核の人工療法として、先ず空気を入れて患部を圧迫し封じ込める人工気胸法、更に、肋骨をむしり取って、患部を物理的に潰してしまう胸郭成型法、などが登場した。 チャックはこの2法を経験して、やっと死の床から、せむしになりながらも生還した肺の片方が無く、もう一方の肺も3分の2しかない体だった。 彼の生き甲斐はハムを通じて自分の生きた証をこの世に刻み残すことだった。 自分は体を切り刻まれて生き残った。 今度は自分の生きた証を世の中に刻むことだと、熱っぽく小林記者に語ったし、私にも良く口にした。 肺活量は人の1/3っきゃない俺だぜ、だが俺はやるぜ、その意気込みが多くの人を巻き込む原動力になった。 彼がアマチュア無線の為にした仕事を数えるには両手を持ってしても足りない。 小林記者が角川新書に残した彼の名はその一部に過ぎない。 他の人たちが仕上げたプロジェクトでも、初めや、重要なポイントなどでは彼の踏み込みがなければどうなったか解らないモノがいくつもある。 当時から、電監が落成検査に来てくれないから7メガで試験電波で出ていると良く意見を求めて来、上京するときには週末を彼のスケジュールに会わせて、高田馬場ホテルで夜明かしできるように出張予定を調整したことはもちろんである。 休日で、朝からとか午後からの落ち合い場所には、いつも編集長が出勤してお湯の沸いている、西丸町ののCQ出版社の小澤編集長兼社長のお世話になった。 皮肉っぽい編集後記に利用されるのは覚悟の上で。 ある日南極観測隊にアマチュア無線がついて行かないのは理不尽だ、と私。 それを誰に談じ込めばいいのかとチャック。 議論が進みかねると、隣室から難しい顔の小澤編集長の顔がぬっとドアを開ける。 「そうだ、どこの国も南極にはアマチュアが隊員で行っているよ。 あれは文部省の管轄だ、官僚は堅物が多いからな、午後いい人がここに来るよ、コネが効くかどうか聞いてみるがいい。」現れたのはJA1BZ林さんで、氏の紹介でコネは何とか文部秘書官まで繋がった。

 私は行けなかったが、チャックが乗り込んだ、チャックは文部大臣に会ってまくし立てて来たと言ったが小林記者によれば、それは文部大臣秘書官長B氏であった。 しかしその方が良かったという。 やがて、条件付きで、アマチュアの免許を持つ通信隊員が越冬するので、これに南極での免許を持たせ、日本の探検隊と解るコールサインで活躍させるなら文部省は反対しない、後は、郵政と話し合ってくれと言う返事が来たという。 結局JA3M何とかで免許を持っている毎日新聞大阪通信室の作間さんが行くことになって、ご本人が、電波管理委員会に掛け合って文部省の言う日本の探検隊の局と解るコールサインの発給と言うことになって「JARE」を文部は望んだが、電監は肯んぜず、JA1REは既に発給済み本免許活躍中で、今更入れ替えもできなかった。 偶々既に発給済み予備免許中のJA1JG巨海氏が体調不良らしいと言う聞き込みがあり、チャックが往訪して、廃局してコール返上していいと快諾を得て廃局届けを預かってきた。 凄い行動力には皆舌を巻いた。 チャックは電監と文部を作間さんと周り、JA1JGの南極移動局の免許の取り付けに成功した。 (南極JA1JG記は別章で続く)又、彼は、誰か、国鉄総裁にコネはないかという。 私の叔父が、関東鉄道局の支配人をしていたので、紹介した。 叔父も苦笑していたが全く物怖じしないで総裁秘書室に行き、アポを取り付け総裁と面会し、予定時間過ぎても総裁がOKしなかったので、秘書がお時間ですと言いに来たら、時間をオーバーしたのは、総裁が決断しないでぐずぐずするからだ、総裁決裁して下さい、と迫り、遂にOKを取り付けたという。 実現するには更に面倒な手続きを要したが、遂に彼は日本鉄道史上初の6m電波による特急「ツバメ」号からの官許列車モービルをやってのけたのでした。 知っていますか?三木鶏郎の冗談音楽で有名な特急。 東京大阪間を最後には5時間55分で走ったツバメ号。

 ♪僕は特急の機関士で、 可愛いあの子は駅毎に
  居るけど3分停車では、キスする暇さえありません
  東京、京都大--阪、ウーウ、ウーウウ、ウウポポ。

 ♪ハモニカ娘は浜松の、ドレミファソラシドべにのあと
  それに見とれて浜名湖の、チョイと鰻に笑われる
  東京、京都大--阪、ウーウ、ウーウウ、ウウポポ。

 ♪名古屋にお城があるキャアも、金の鯱ほこあるキャアも
  守口大根細長く、あの子のアンヨに似るキャアも
  東京、京都大--阪、ウーウ、ウーウウ、ウウポポ。

 此の歌の1番の歌詞、JA1KCのステーションタイトルによって解消されるでしょう。
Just Attempt one Kissing Chance!----How Copy?


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