戦後のアマチュア無線史(22):当時の社会背景の一端など

 例えば、第1次南極観測隊越冬隊。それは全く未知の世界行とも言えるモノでしたろう。 敗戦国日本の政府貧乏予算の範囲内で、しかし何とか国威発揚と国際的南極発言域も確保したい、そのぎりぎりのタイムリミット、ぎりぎりの予算、南極未知の人ばかり。 何せ、明治維新以来南極に近づいたのは、白瀬中尉と郡司中尉ぐらいのモノ。

 その第1次観測隊長を引き受けた永田武隊長にしても決して確たる勝算があったはずはない。 雪と氷に閉ざされた中に置き去りにされて半年、少人数の命を限られた施設と装備糧食で預かる西堀越冬隊長の決意は、未知の冬山に向かう決意ごときの比ではなかった筈。 氷の海を乗りきる観測船にしても、海上保安庁の貧乏予算の中で使い古した燈台補給船「宗谷」を僅かばかりの改装費予算を掛けて、改装した船で、向かわせようと言うのだから、ふんどし担ぎ「宗谷」が三役力士「南氷洋」にいきなり本場所で初顔で取り組むようなモノ、そんな風刺漫画が雑誌に出るのも当然だった。 一寸脱線。

 昭和30年夏。 もうJA1エリアでは、JA1VZ迄の2文字の発給は満配して半年以上、既に、JA1ANE 塚本さん等も本免許になっておられた。 前年信越電波監理局と、北陸電波監理局も正式に発足して、JA1WA-JA1ZZも、JA0AA-JA0DZに再割当てJA2WA-JA2ZZもJA9AA-JA9DZに再割り当てを完了したので、3文字の途中から、再び2文字コールサインの再割り当てが始まっていた。 塚本さんは運悪くあぶれた組の一人であり、JA1YL菅さんの奥さんは、ラッキー組の一人というわけ。 又JA1AEQ阿部さんの奥さんの方が、菅さんの奥さんより免許は古いというわけ。 JAIGメンバーのJA0AW吉成先生は、JA1WWと言うダブルコールを無理矢理引っ剥がされ、現在のJA0AWをこの時割り当てられたのでした。

 JA4HLでは、中国電監が予算がないからと落成検査に来ないまま、私は、病名不詳の奇病で、食事を全く受け付けなくなって、やせ細り当時清純女優として売れっ子の久我美子と同じ体重、39.7kg迄やせ、郷里津島市に強制送還され自宅療養していた。 名古屋の胃腸病院黒川病院で「岡山玉野の奇病なら、流行性肝炎さ」と瞼をひっくり返して「間違いないまもなく黄疸が出る、出たら4人に3人が死ぬ。 石に囓りついてでも死ねないと言う強い意志がないと、、何でもいい俺は未だやり残したことがあるう、と言う生きる執着心がないと死ぬぞ。 未だ女を抱いてない等は駄目だ、それ以外に何か無いか、無線?何じゃそれ?」それでもいいことになって、津島市で免許申請したのが5月から許可の移動局。 JA2RMで予備免許になった。 JARL東海支部が2局コールを確保するらしいから返せ、と言われたが間違いで、直ぐ検査に来てくれた余録があった。 此の病気の名前は後に流行性劇性肝炎、現在は劇性B型ビールス性肝炎と言い、今も死亡率 は75%程度とされる。 何とか生還した。 最初、問診だけで見抜いてくれた黒川老医師には今も敬服と感謝の念で一杯。

 検査本免許の翌日、CQを出していたら、JA3JK/MM能登半島沖から呼ばれた。 そばでお袋が洗濯物を畳んでいた。 「、、、海上保安庁の燈台補給船「宗谷」の通信士やっています、移動局が許可になって、とても楽しみが増えました。 非番の時する事が無くてね、受信機聞いてりゃ、腕がムズムズでしょ、電波は出せない、胃に悪いですよ。 で殆ど小説本読んで過ごしていましたが、人生の無駄時間です。 こうやって、ハムやっている方が気分が和みます、リラックスできますよ。 移動局の許可は本当に私たち船乗りには何よりの贈り物でした」、、、

 此の交信をそばで聞いていたお袋は、後に燈台補給船宗谷が、南極行きの改装をすると言うニュースを聞いたとわざわざ岡山まで葉書を寄越したし、それからあとも、時々お前は未だ宗谷が燈台補給船だった頃、通信士の林さんという人と、話したことを私は覚えていると言った。 当の私はJA3JKさんが林さんという名前かどうかはもう忘れていたのに。 当時、燈台を守ることがどんなに大切でその割には大変なことか小学校で習ったし、「燈台守」という小学唱歌も習った。 そこに、生活必需品を補給して回る、此の船の役目も負けず劣らず大変なモノだったと思う。 その後佐田啓二、高峰秀子主演の「喜びも悲しみも幾歳月」燈台を幾つも転勤して回る家族の生活の厳しさを、そして心をモノの見事に描いた映画を見て感激した。

 現在は測地航海衛星のおかげで、燈台の役目はごく補助的なモノらしいがつい最近まで、燈台勤務のハムが居たように思います。 「喜びも悲しみも、、、」の頃は、殆どの燈台勤務の方が逓信講習所上がりの通信士の割には燈台勤務が大変で、ハムをされる方は少なかったようです。

 一寸話は、前後しますが、1954年昭和29年から30年に掛けて、自衛隊編成から1年余が過ぎて、米軍から防衛通信網や電波監視業務も引継が完了してMARS(AJ2AA等3.5-3.8/7.0-7.2メガで動作していた軍用補助局)が無くなったこともあって、急速に先ず、水晶発振でならガードバンド内で自由(1954/12)に緩和されついで、VFOもOK(1955/3)となり更に、max50W制限付きながら移動体が許可になったのでした。 21メガは未だ解放されませんでした。

 此のあと、6か月毎の業務日誌抄録提出の省略他、電波行政が、GHQ推奨の委員会形式(FCCの真似)から、日本官僚好みの省庁監理形式に移すための電波法放送法等の抜本(氷室註=反動)改正目指しての改正案が水面下でドンドン進められていたわけで、アマチュア無線局も無線局の範疇に入れると邪魔なところは、トカゲのしっぽしておこうとばかり、かなりの事務手続き上の緩和が成されました。 1957年までに、定期検査が廃止され、従事者免許は5年だったのが終身免許に、局免許は3年が5年に延長されました。 電波法の抜本改正は1959(昭和34)年施行され、アマチュア無線局は、アマチュア局に、旧法でのノーコードクラス2アマは電話級にそして新2級と電信級が新設されました。

 此の同じ年に抜本改正された有名な法律がもう一つありました。 それは特許法です。 特許法は、大正13(1924)年に大改正されて以来、戦時凍結、その解凍、特別措置令はありましたし、手続き規則の改正はありましたが、大改正は大変なので、GHQも、世界の動きに倣う改正をするように勧告はありましたが、改正はありませんでしたが、いよいよその宿題の提出の時期で、新しい世界の特許との摺り合わせも視野に入れた大改正が成されました。 こちらはその意味では、前向きの改正でした。 それに比べると、電波法、放送法、放送事業法、のいずれをとっても、此の昭和34年法は、FCC(米国連邦通信委)方式から、NHK帝国主義へのフィードバックとも言えるモノで、さぞかし官僚や、逓信族議員や、ドンは、ほっとしたことでしょう。 GHQ方式からの戦後最大の寝返りではないでしょうか。 FM民間放送はFM東海を除いて全く許可されずNHKのモノポリーが10年以上も続くことになっていました。 FM東海の大学学長は無装荷ケーブルの逓信のドン、松前重義氏でありました。 と言えばお解り戴けましょう。 ここに戦後は終わったと言わざるを得ないのです。 あと五年で、東京を作り直し、オリンピックで新生日本を世界の人々に見せねばならないその槌音が漸く高まりつつある頃、戦前の官僚主義を懐かしむ電波行政に逆転回したのでした。

 幸い、族議員のゼニコになりそうもないアマチュア無銭は、あれは無線局でないよって、アマチュア局だと法定義されたお陰で、法規制は随分緩んだが、その分モラルは地に落ち、戦後復活まで歯を食いしばってボランテイア精神で運営されてきたJARLにも、天下り精神と商業主義が棲み憑き始めて増殖し累卵の危うきにある今日の因を成したと断ぜざるを得ない。

 JA1JG/M 南極。、、、、決して、8J1RLと同じではないその発祥と経緯。 作間隊員のご苦労。 と周りの並々ならぬサポート。 文部省の管轄と言うことで、積極的でない人も居た某集団。 似て非ではあるが、それならシアナイ俺達でやるか、と西武クラブが起ち上がってやってのけたいくつかのプロジェクトのうち、余り紹介されないハム女子大の話を、掻い摘んで書き残しておこうと思います。

 

戦後のアマチュア無線史(23):JA1JG/南極第1次越冬隊

 古い喩に「馬を水辺に連れていくことは出来るが馬に水を飲ますことは出来ない」というのがある。 文部省が、アマチュアの免許を持つ馬を南極という水辺にもつれて行く、水を飲むのに反対はしない、ここまでは、いつものお役人の精一杯の限界でしょう。 ここまでは、小林記者と、小澤編集長のアイデア、コネで、おしゃべりチャックを走らせ、走ったチャックが、JA1JGと言う文部も電監も呑む、コールサインを調達したことを書いた。 なぜ「JARE」に拘った文部がJA1JGを次善としてOKしたか、私だったか小澤編集長かが、Japan Gavernmentでもシアナイかと言ったのをチャックが覚えていて、作間隊員に話していたらしい。 電監では話題にもならず手続きに問題ないからOK。 文部では先ず難色、何だそれ、暫く無言、作間さんが「日本政府という意味ですがそれでも駄目ですか」と言う言い方で言ったらしい。 これが結局功を奏して、OKと言うことになったらしい。 お役人とは事程左様に難しいモノらしい。 ここから先は、作間隊員が、開局手続きを進め又、永田隊長西堀越冬隊長に説明了解して貰って、馬は水を飲む気で、水辺に行くことになった。

 私は、後年、偶然の機会から何度も西堀さんの講演行脚の汽車電車車でのお供をする事になって、講演はもとより、南極での貴重な体験談、そして私も古いハムの端くれと名乗ったために、問わず語りに、JA1JG/南極、そして、西堀さんの東芝時代の部下だった、JA1DO小石久太郎さんの話、南極と小石さんとの交信の笑い話などいろいろお話しいただくチャンスがあった。

 西堀隊長は、アマチュア無線の良い意味での理解者であった。 アマチュア無線の評判を落とすような、又越冬隊は何てことして居るんだ、と世間から後ろ指刺されるようなきっかけを作間君の電波が作っちゃならないとJA1JGのデビューの機会を待っていたのだそうな。 つまり、水辺に来ていた馬に、おいしい水が来たときに呑んでいいよと手綱を緩めようとしておられたのだ。

 燈台補給船だった宗谷を、僅かばかりの予算で竜骨とロンジ強度と外板を厚鋼板の溶接補強しただけで、大半は、隊員の居住区と厨房の改造で費消してしまい、氷の海を割って通るだけの力さえ改造で与えられなかったという。 それでさえ此の時代、未だ鋼船の建造は溶接でなく鋲打ちで建造される時代で此の国家的プロジェクトを聞きつけて、手弁当で結構ダカラやらせてくれと全国から浅野ドックに馳せ参じた腕っこきの溶接職人の日当を度外視した協力無くしては期限内に、宗谷を海に卸すことは出来なかったのだという。 期限ぎりぎりに東京港を出港した、宗谷の観測隊員、殊に越冬隊員達は、50%50%家族とも今生の別れを覚悟したという。 最終寄港地ケープタウンは、同国及び港湾司令の特別配慮があって予約に遅れたが入港している。 ここで家族からの郵便と声の入ったテープなども受け取って、氷の張り始めた未知の海南氷洋に向かった。 果たせるかな、自然は時を待たず。目的地オングル島迄100キロ余の海で宗谷は氷に挟まれて進退谷まった。 アメリカの船が救助に向かうが近づけず。 幸い100キロほどの所にソ連の誇る強力砕氷船オビ号が居た。 アメリカの救助船にハムが乗っていて、偶々オビ号にもハムが居て交信して、日本の観測隊がのったSS宗谷が氷に閉じこめられている、砕氷船だったら近寄れるだろう、是非助けに行って貰いたいが、。。。「お安いご用だ」と言ったかどうか、とにかく艦長に掛け合いに行った、押し問答しているところへ、外交筋を通した援助要請に応えて宗谷の救出が出来ないか、本国から問い合わせが来た。 艦長は、本国のOKの取り付けの面倒さで、逡巡していたのだから二つ返事で、まっすぐ宗谷の救出に向かうことにした。 此の知らせに3つの船上に拍手がわいたのだった。 西堀さんの話では、とにかく氷を割りながら進むオビ号と、オビ号が明けた開水面を抵抗なく進む宗谷の船足では、ともすれば全速の宗谷が遅れがちで、文字どうり水が開くので、直ぐ又氷が道を閉ざさないか冷や冷やし、それにしてもオビ号のような強力な砕氷船を日本が作れる時代はいつのことかと寂しくなったという。 青息吐息でオビ号の後について、オングル島に接近し、既に定着氷が形成していたので、うまく荷下ろしし、宗谷は、オビ号に連れられて、氷原を突破して帰国できた。 此の「自然は人の都合を待たず」の教訓が翌年の第2次に生かされず、やはり時季が遅れて第1次越冬隊員を辛うじてヘリ救出しただけで、慌てたため定着氷と見誤った氷が溶けて、荷卸しした機材食料を失って越冬を諦め、樺太犬も置き去りにして、這々の体で帰ってくる事になってしまったのは翌年の話。

 JA1JGが南極で越冬することになった。 アマチュアからみれば確かにそうだ、いつ電波が出るか、今か今かと待つのは当然。 ところが、1週間待っても出ない、1ヶ月待っても出ない。 これ又当然。 アマチュアやりに行っているのじゃないのだから。 太陽がいっぺんも顔を見せなくなって、オーロラが夜空を飾る頃になって、ブリザードが何度か荒れ狂うと、圧縮合板をタイロッドで締め付けてプレハブ建設した宿舎も変形して、夜通し悲鳴を上げて軋むようになったという。 寝付けない、夜中に軋む音で目が覚めるともう眠れない、で、みんな寝不足。 不機嫌。 集中力を欠く。 食欲減退。協調性がなくなる。 で西堀隊長は、ブリザードが収まったら、どんなに寒くとも、投光器を用意して、なるべく全員で、タイロッドのまし締めに挑戦させたという。 「こんな凍り着いたモノ締まるわけがない」と初めから投げやりな者が居ても、叱って、とにかく体を動かせと激励するうち、みんななぜ肉体作業を隊長がさせたか気づいたという。 「腹減ったな」、「久しぶりだぜこんなに腹減ったの」「いやいい風呂だった、今夜は寝られそうだぜ」に繋がって皆生き返るのだったそうな。 しかしある時、幾晩もブリザードが続いて、タイロッドまで悲鳴を上げ、遂に建て家の一部が破損変形して、徹夜作業で応急処置をしなければならなくなったことがあって、みんな疲労困憊した。 晴れ上がればどんなに草臥れていても観測は欠かせない。 オーロラ観測室は、明かりも暖房もないただガラス張りの部屋。 窓や広視野望遠鏡が曇っては仕事にならない、明かりに目が訛っては観測できない。 オーロラ観測の北村隊員は、野帳にスケッチを書き込むのに、半周を紙で覆った蝋燭たてを明かりにしていた。 今回の建家なおしに大活躍だった北村隊員は、観測の途中で不覚にもそのまま眠り込んでしまって、此の蝋燭たてから紙に燃え移り、観測室が燃え上がって、他の隊員が気づいて駆けつけた時、北村隊員は炎の下で、横になって熟睡していたので、飛び込んだ隊員は北村さんは死んでると思ったらしい。 ドアと壁を破って外からスコップで雪を炎目がけて投げつけたら、その下から北村隊員が、おい何だ冷たいじゃないかとムクムク起き出してやっと火事と気づき、以来その悄げようと言ったら、慰め様のないほどだったという。 次の日曜日、隊員はモノも言わず、壁にもたれ、みんな物思いに耽って、本を読むモノも手紙を書こうと言うモノも、麻雀しようと言う者も居ない状態であったという。 これは異常だ、何とかしなければ、西堀さんは、集会室にいた作間さんに、アマチュア無線出来るか、皆を連れて行ってやって見せて呉れんかと言った。 作間隊員の顔がぱっと紅潮したそうだ。 真空管に火が灯り、ダイヤルにもランプがつき、作間隊員が電鍵を叩くとジージジジーと無線機が音を立てた。 誰かが、日本に届くかと当たり前の事をポツリ言った。 マッテロと言うと作間隊員の電鍵がカタカタとリズミカルに暫く音を立てた。 思いがけなく早く、作間隊員が、頭のレシーバーを外しながら、隊長小石さんです、電話に出て貰いますね、と言ったので、西堀さんは、無線というのはもろに繋がるはずはないのにと吃驚したそうだ。

 小石さんの方はこうだったようだ、何かの折りに、作間隊員が南極から最初に出るときCQでは、決してAntiarcticとも「ナンキョク」(和文)とも叩かないで「NANKYOKU」とローマ字でお願いすると、言って置いたらしい。 無駄なパイルアップを避けたいため。 ここ3ヶ月以上日曜日のたび、14メガCWでJA1JGが出てこないか一日中ワッチを欠かさなかったという。 この日コンデイションが一寸落ち加減だがと言うところで、おやW8とやっている此の局 JA1JGと相手が叩いたようだと気がついたが、、、まさか、だった。 交信が終わって、CQ叩いている、来た!JA1JG/NANKYOKUと叩いている。 他の人にではない。 間違いないのだ。 そう自分に言い聞かせて、応答したのだという。 隊長が聞いているなら電話に出よう、と叩いたという。 西堀研究室の直接の部下だった小石さんJA1DO。こうして、JA1JG/南極の第1局はWに譲ったが、直ぐ続いて、小石さんがJA1JGを捉え、愛弟子の声を師匠が目を潤ませて聞くことになった。 南極の声が日本に届き、日本からの第一声が、信頼すべき西堀隊長の極親しい人で、しかも話が進むに連れて、関東近間の隊員ご家族に報せて、次の日曜日に小石さんのしゃっくに集まっていただいて、バックノイズで声を聞かせましょうかと言うおいしい話が南極に聞こえて、隊員一同オングル島に来て以来最高の日曜日に勇気百倍したという。 でも北村隊員だけ、申し訳ない申し訳ないが続いたのには西堀さんもほとほと草臥れたという。 自分は焼け死んでお詫びすべきだった、とまで言わせてしまった隊長は失格に等しい。 叱るのは容易だが叱って済む事じゃない。 隊員を一人手ブラで帰すことになる。 西堀隊長のたどり着いた結論は、「北村隊員を一人だけ手ブラで帰すわけには行かない」このことだった。

 西堀隊長はこれを悩み、手を動かすことで気を紛らわす事にした。自分の老眼鏡の弱い方のスペアレンズを使って、組み合わせルーペをアイピースにして、ブリキ細工で、広視野望遠鏡の代用品を作り、北村隊員に贈り、勇気づけ、焼けただれた彼のスケッチノートのうち紙の芯は焦げていないはずで、一度だけは読めるはずだから、日付順を追って、折角のスケッチを、記号化数量化して、一表にまとめ直せないかやってみるようにアドバイスしたという。 北村隊員が感激し折角の焼け残りのスケッチを、何か有効に再生するように誓ったのは言うまでもない。 瓢箪から駒。 一念一心の矢は岩をも貫くという。 ここで、北村隊員が試行錯誤、オーロラのスケッチと記憶から、その型、模様、色、動きの様、形、サイズとスケールの観察記録の符号化、数量化の試みは、その後の観察員にも受け継がれて、洗練され、北村氏のその後のライフワークとなって、現在、コンピューター解析できる精度での指標のオーロラ観測の標準となっているそうです。 その原点は此の火事.で焼け残ったボロボロのフィールドノートのスケッチからの読み出しから始まったというのはとても教訓的な出来事ではありませんか。

 その後、小石さんのshackは勿論の事、立山ガイド組のご家族は、室堂平らから有志アマチュアが移動設営して、更に関西組もどなたかのshackに集まって、アマチュア無線のマイクのバックノイズとして家族の声を南極に送り届けることが出来たのです。 これで、隊員のホームシックは消し飛び、明るさも協調性も取り返し、この上ない力になったようです。 もちろん極普通の交信も行われましたし、隊員毎に応援者も現れ直接は話せなくても、誰々隊員さんの郷里の者で、何隊員さんにこうお伝え下さいというメッセージハンドリングに近いことも大目に見てくれたようです。

 逆もあり、とても有名なのは、良く南極とQSOしていたJA1MP長谷川さんは、あるQSO中に奥さんの女児出産の電話が入ったと南極にご披露、偶々南極は、夕方のトワイライトに夕霧がダイヤモンドダストになって、えもいわれぬ情景、バックノイズの藤井隊員の命名で、JA1MP長谷川さんのご長女は夕希子さんとおっしゃる筈です。 長谷川さんが、その後も、世界中のペデイション特に離島のペデイに積極的に協力なさる様になられたのは、こうしたことと決して無縁ではないと思います。

 

戦後のアマチュア無線史(24):南極が結んだ真空管とポップ・アップ・トースター

 も少しだけ、南極第一次越冬隊にまつわる話を。 これは西堀さんの講演をお聞きになった方には2番を煎じることになろうかと思いますが、お付き合いを。

 西堀さんに掛かっては「逆転の発想」の糸川英夫博士も形無し。 あれじゃ、南極でブリザードの中で雪上車が故障したら生還できないと。 「サバイバル」は「頭の中真っ白の状態中で如何に頭を瞬間的に冷やし素早く巻き戻した後如何に早くマジに正転して、記憶の中にある確実に応用可能なモノを検索するかの勝負」で、「アプセットした頭を決して逆転してはならない、冬山では、アプセットして逆転の発想すれば徒労 死が待つのみ、遭難死がすべて物語っている」と鋭い。

 零下5度の倉庫内で整備した、雪上車の駆動ギヤを駆動デイスクに止めた、12本のボルトや、シャフトと決め込むキーが、マイナス55度になると、どの程度温度収縮するか、想像出来ますか?金属の焼嵌は、どうやりますか?此の原理で当然のように雪上車の駆動輪のボルトは増締めも出来ず,雪と氷が絡まって、ドンドンナットを失って、気づいたときにはガタガタに緩んでいたそうです。 零下55度、オングル島の昭和基地から25kmは離れた大陸探検中の突然の雪嵐の中で。 雪嵐の止むのを待って、スペアパーツを探すが、ナットは皆サイズの大きなモノばかり。 締めてみるがゆるゆる。

 雪をブッ欠いてお湯を沸かせ、ナットは緩くていいからいっぱい送り込め、一つ一つ丹念にお湯をかけろ、ゆっくりだ。,,,,一瞬キョトンとした隊員の顔がほころんだ。南極でみんな経験している常識なのだった。 その温度で出来た氷はその温度に縮む金属より堅いのだった。 雪上車は何事もなかったようにオングル島に帰り着いた。 これは決して逆転の発想ではない。 冷静なかつ緻密な観察眼的経験の正転の応用に過ぎないと言うのが西堀隊長の言葉なのです。

 終戦近い戦時中、万能真空管として有名な真空管に「ソラ」と言う球がありましたが、これは西堀さんが、東芝真空管研究室長時代に軍部の要請に応えて開発された、フィラメントが切れない球でした。 ヒーター電圧がバッテリーが揚がり掛けた低電圧でも何とか熱電子エミッションが確保され且つ、充電直後のバッテリーに繋いだラッシュカーレントでもフィラメントが切れないと言うタフな合金を開発、使用されたのでした。

 西堀隊長は越冬隊長を拝命するよりも早く、南極は行きっぱなしだぞ、途中補給は効かないぞ、送信機用の球は特に、フィラメントが切れないように考えておいて頂戴、と、1番弟子の小石さんに頼んでいた。 それはいいのだが、、、。 業務用に、送信機を使っていると、割と早い時期に、送信管起因の事故が起きた。 冷えた送信管を見ても、回路をチェックしても、思い当たる原因はないし第一送り初めはマジに、波は出ていたのが時間経過後に、球の中で何か起こったと言うことは、、、。 と実験装置を作り、送信管にフィラメント電圧を掛け、規定より一寸で電圧を上げて観察すると、、、これはイカン、小石君やりすぎだ、フィラメントが随分弛み出すのだ!そしてグリッドにタッチするのだ。 どうしよう?今度は発想の逆転どころか、真空管を逆さつりにして実験。 かなり伸びてもOKと判明。 じゃ、送信機をひっくり返そう。 業務連絡電報が東芝宛打たれ、ひっくり返して使うための注意事項が回答された。 真空管はJA1DOの管轄だが、送信機は、JA1AG黒川瞭さんの管轄。 なんだなんだどうしてなの?ってことになった。 南極では、作間さんが、釣り糸と、縫い糸を出してきて、ひっくり返しても部品が落っこちないように縛ったり、熱風の通りを良くするためにいくつかのドリル穴を開けで何とか転倒使用で、その後の使用は可能になった。 一方の東芝、フィラメント用の合金の、成分と、熱処理を再検討しているうちに、もっと凄い、伸び方をする熱処理法があることが判り、偶々そういうヒーターがあったら面白いトースターが作れるというトースターの開発係に引き取られて行き、世界初の、パンが焼けたら自分で飛び出し、冷たいパンを入れると自然にヒーターが入ると同時にパンも入っていって、、、と言うあのウオーキングトースターともポップアップトースターとも言う今は当たり前の、トースターが昭和30年代の途中で急に現れたのは、実は、此の南極第1次越冬隊用の、送信真空管のフィラメントの失敗が、ヒントになったモノなのでした。 失敗は成功の元。 失敗を失敗に終わらせず、成功に結びつけるのも、人間の知恵の大事な使い方なのです。

 


(C) Copyright 2002-2003 JA2RM and JA9IFF All right reserved.