終戦秘話(1)

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‖戦争にまつわるちょっとした事件にも、当時の「帝国陸軍」と言う権勢の‖

‖化け物が如何に良民を苦しめ社会を苦しめた上に、更にその陸軍内部の ‖

‖下層部の兵隊さん達の心まで踏みにじっていたかということを書き残して‖

‖二度とこのような戦争も、又社会を毒する権勢の怪物の発生のない世の中‖

‖にして戴くためのお役に立てたいと念じて、これまで50年余、殆ど書き‖

‖残されたモノのないお話を書き留めることにいたしました。      ‖

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愛知県立津島中学武器隠匿事件(起の章)

 名古屋の西、濃尾平野のまっただ中に、終戦後1ヶ月余、突如米海兵隊1個旅団が緊急上陸、海部郡全域と中島郡数か村に戒厳令が敷かれ、公共施設神社仏閣はもとより、当該地域の全戸の床下天井裏仏壇の裏を含む家宅捜索が虱潰しに行われたこの事件は意外に語り継がれておらず、米兵の泥靴土足で上がり込みいきなり仏壇をひっくり返された住民の記憶からも風化して殆ど消えつつあるかのようです。

 何から語り始めたら分かり易いのか、当時の海部郡津島町(市制50周年現津島市)のはずれ、字狐島に明治33年4月開校の愛知県立第三中学、当時津島中学がありました。明治17年に、木曽川下流の旧川、佐屋川の廃川現木曽川の今切以南の付け替え治水工事が終わった砂山を均した上に松並木と共に作られた20世紀を迎えるにふさわしい全寮制の中学校でした。時代は下って、大正時代第1次世界大戦が終わって世界的に軍備が拡大しすぎて各国経済負担が増し軍縮が叫ばれる。帝国陸海軍とも、ご多分に漏れず列国からの指摘も受け富国強兵を叫びたいが叫べず、帝国議会も2度に亘って、陸軍軍縮を決議した。

 陸軍もやむなくいわゆる山梨軍縮を断行する。このとき、軍縮によって行き所のなくなった、多数の小型銃火器弾薬が、軍事教練用に当時の県立中学、高等学校等に配備されたのでした。津島中学には、後の昭和19年-終戦直前時点ですが水冷式重機関銃1門、軽機関銃2丁、擲弾筒4門、38式歩兵銃363丁、陸式手榴弾8個、呂獲柄付手投弾4個、の他、軽機弾帯2本約90発,小銃実弾約6000発、狭窄弾約800発、赤空包約4000発等が銃器庫に収納保管してあり、教練の時間には小銃分解掃除から始まって、構造教育と一応の操作、空包による発射訓練、訓練後の銃の手入れ法までは習熟させられ、訓練後の手入れは、教官が気に入らなければ、理由も告げられずに、「よーし!」と言われるまで、日が暮れても何度でも「やり直し」をさせられたモノです。38式歩兵銃にも菊の御紋章がついており、手入れが少しでもお粗末では「大元帥陛下の御紋章をなんと心得るか!」と軍隊ではビンタの雨の対象だったのです。年に一度必ず行われた、3月10日は又雪の降る特別日でしたが、30キロ行軍で、教練服腹帯には弾箱牛蒡剣足はゲートル軍靴姿に背嚢に小円匙鉄兜の野戦重装備で肩に38式歩兵銃を担いで、津島から桑名まで往復が約30キロ。途中木曽・長良・揖斐3川を渡るが、大正の終わりまでは、人道用の鉄橋がなく渡船だったので、水位の低いときは歩いての渡渉だったという。3月10日雪の降る中で、腰まで水に浸かって敵前渡河よろしく渡った後、千本松原、幕末の頃薩摩藩士が、大勢犠牲になった、油崎治水堤防の治水神社で飯盒炊爨かねて、体を温めても、この30キロの雪中行軍は中学生にとっては死ぬる思いであったという。それはさておき.....

 昭和19年12月9日名古屋大曽根の三菱発動機付近の絨毯爆撃から始まって、名古屋市は灰燼に帰して行くのですが、この爆撃以降は、Bー29の爆撃は、進入ルートが定番化してしまった。硫黄島を発進してまっすぐ潮岬に達し琵琶湖にあがり直角に曲がって東進すると偏西風に乗って間違いなく名古屋上空に達する。燃料の節約にもなるというわけだ。300機以上の大型爆撃機が風に向かって飛ぶのと風に乗って流されるのでは燃料消費は1回分だけでも大変な差だったに違いない。こうして西から名古屋に侵入する大挺団の爆撃機群に対し名古屋西側には高射砲陣地がなかったので、高射砲陣地をやはり佐屋川廃川跡の津島町字河原の神官墓地内に作り、夜間に備え、照空燈陣地を津島中学の端、松並木のとぎれたあたりに設営した。B-29に対してはこれらは蟷螂の斧に過ぎなかった。高射砲弾の破片が町中にいっぱい落ちてきて、家並みの屋根瓦がめちゃめちゃに傷ついて雨漏りするようになっただけであった。高射砲陣地の近くの家は、ガラスに和紙で何重にも目張りをして、ガラスが微塵に割れても抜け落ちて風が入らないようにしていたという。こうして敗戦を迎えた。陸軍の兵隊は陣地をそのまま放り出して逃げてしまった。

愛知県立津島中学武器隠匿事件(承の章)

 戦争が未だ、せっぱ詰まるより前は、華やかな全体教育、戦時態勢化ムード強化で、学校はと言うと、全員武道化、即ち、剣道、柔道、あるいは、銃剣術の何れかに属し始業前、放課後及び休日は、指導教官の指揮下に入って、練習を行わなければならなくなった。昭和18年4月に同窓会先輩から学校に、訓練用滑空機1台と、その格納庫用資材一式が寄贈され、校門前廃川荒れ地をモッコ担ぎで整地して、グライダー滑走練習場にするため生徒各人が1週間当り5−8時限以上分を労力供出を行った。私は昭和19年4月入学したが、ポプラ土手が残っていて土砂運び整地に週12時間以上、ポプラ伐採製材作業に週8時間以上働いて、滑空部入部資格を貰った。夏休みには、250m滑走は可能なだけの平地が出来た。その横に格納庫も完成した。秋の県競技会で、早くも、個人2種目以上優勝選手も出て、団体優勝もしてしまい新聞社賞のグライダー2機を独占、12月には搬入されることになり急遽格納庫の3倍拡張を急がねばならず/~グライダーだけに「飛んだ」嬉しい悲鳴だ、と河合校長がなれぬ冗談を触れて歩いたのを思い出す。

 この格納庫に新調のグライダーが入った頃、12月のはじめ、遠州灘沖地震、名古屋三菱発動機付近無差別絨毯爆撃。そして我々1年生にも学徒動員令が適用され工場に通勤する身となったのです。2年生以上の生徒は学徒動員で、学年が2つ割れで動員先の違う学年を除いては休日も動員先で教練日を過ごし、学校に出ることはなかった。1年生に入学した後はは、苗代作り、代掻き、田植え、と近隣農家の農作業優先にかてて加えて、促成教練と武道錬成に明け暮れていた。我々の教練は、教練教官退役陸軍中尉池山中尉と、陸軍籍の配属将校予備役田中少尉であった。代々生徒が付けたあだ名は、池山教官は「大尉」、田中配属将校は脳味噌が「お留守」。何でも罰直(バッチョク)に掛けてシゴキャいいというタイプ。池山教官なら誰もがついて往くが、お留守が突撃命令だそうものなら先ずお留守を突き殺してから突撃しようぜが合い言葉だった。我々の動員先が1工場だったから、月1日の半舷休日には、半数が退役陸軍伍長水谷某を実戦訓練教育に工場に連れてくるお留守に朝早くからしごかれる教練日であったのです。8月は17/18日が半舷づつの教練日、つまり工場を半分休む予定でした。ところが7月から3回に亘る艦載機P-51の銃撃と硫黄島からの双胴の悪魔P-38、TBFアベンジャーの銃撃と小型爆弾攻撃で、工場は息の根を止められてしまったのです。徹夜の復旧工事の甲斐もなく、復旧でなく残骸整理にしかならなくなったのです。近くに昔からの自転車の製作所があり、開戦前は全国的に売れた自転車とリヤカーのメーカー荒井製作所がありました。我我は廃墟と化したキー67飛龍に積む3式砲架や、4発重爆連山改用のハ-211の燃料ポンプ/潤滑油ポンプの製作は止めて8月15日午前にこの工場の退所式を行い、同日午後新たに、元リヤカーを作った機械で木製飛行機を作る予定の荒井製作所の入所式が予定されました。従って、16/17日の教練日は学校校庭に集合、銃手入れと射撃訓練と水谷伍長が触れて来ました。 妙な案配ですがこの予定で行きながら、間に「終戦」が飛び込んだのでした。

 運命の8月15日。我々2百数十名は、廃墟と化した工場に別れを告げる退所式を終え工場の庭に僅かに残った藷を掘り上げたのを下げて、昼飯を学校でこの藷と藷の蔓で済ますべく荒井製作所との通り道にある学校へ立ち寄りました。正午にラジオで何か重大放送があるから講堂に入って待つよう指示があり、徹夜作業の後、暑い中を歩いて、ひもじさも一塩の体をようようの思いで、講堂のイスに辛うじて引っかけて、ガンガラ声の講堂のスピーカーが鳴るのを物憂く聞いていたのを覚えています。突然級長が何かを叫んだ、とにかく起立した。腹は減っていようが眠かろうが、反射作用で体が反応したのでした。級長の言う大元帥陛下の玉音でありました。「朕ここに、世界の大勢と、帝国の現状に鑑み、、、、、」(ああ天皇陛下も眠いのだな!)生まれて初めて聞いた玉音は中学2年の私の第一印象はこんな、とても口には出せぬはしたない、、、自分の眠さをモロにだしたモノでした。

 やがて、横の列で誰かが、ククッッ、、、と嗚咽をこらえました。父と長兄を戦死でなくした、Y君でした。玉音が終わるや彼は「何だ、コレハ、畜生、親父も、兄貴も、これでは、犬死にじゃネエカ、母ちゃんがあんまり可愛そう過ぎるジャねえかあ、、」他にも言葉にならない声を発して、泣きじゃくり、慟哭した。講堂中がもらい泣きした。

 「お留守の野郎生かしちゃオカネエ。俺は奴をぶっ殺しに行くぜえ」バッチョク傷の絶え間ないKが講堂から走り出ていった。、、結局Kはお留守を見つけきれずその後腑抜けのようになった。お留守はそれっきり行方不明。

 翌日、もう戦争は終わったのだから、教練もないだろうがとは思ったが、何の連絡もないから、一応ゲートル姿で、予定通り集合時間に学校へ行った。だって、他に着る服はないのだから。着た切り雀の学校。いつもの教練と変わらない、ただ、昨日泣き狂ったYは、朝早くから、父ちゃんと兄貴の墓所の掃除に行ったとのことだった。「俺は今まで、天皇陛下と国のために生きてきて死ぬ積もりだったが、これからは、生きて生きて生き抜いて母ちゃんと家族のために活きることにした、学校は後回しだ、悪く思うな。取りあえず今日は墓所をきれいに掃除して親父に報告してあやまらんならん。」と朝早く友人の家に知らせに来たそうな。

 その日の教練で、「銃を分解手入れして検査合格したモノから5名ずつ、裏の砂山の実弾射撃場で、20発づつ実弾を撃たしてやる。実は銃器庫にある空包は残り少ないが、実包が6000発余ある。鬼畜米英を打つはずであった、しかし日本では織田豊臣の世はいざ知らず、平時では、人を打つモノではなく、キジ山鳥、イノシシ鹿など獣ヘンの猟に使うべきモノだった。刀も人切り包丁ではない。鉄砲も同じだ。弓矢と同じ、心して打たねばならぬ。解ったな。解ったらカカレエ。」とさすがの古参兵、水谷伍長はこんな訓辞をした。こうして約200人が20発づつ少なくとも4000発を消費した。射撃後、当然分解掃除。特に入念に掃除したように思う。

 こうして、何とかもやもやは吹っ切れそうに思った。しかし、Y君のような、何時間も悶え死ぬのじゃないかと思うほど泣き狂って、朝までに、吹っ切れてお母さんのために、、、と生き返ったほどの180度の見事な切り替えはとても出来なかった。どちらかと言えば、腑抜けたKと同類に近かった。

 その後これらの銃を含む銃器庫の収納物が、短時日のうちに、校門前の広い滑空機訓練場のグライダー3機を格納する格納庫の地面の下に、油紙に包んで隠匿されようとは我々の学年のモノは知らなかった。全く関わらなかったからである。

愛知県立津島中学武器隠匿事件(転の章)

 1945(昭和20)年の夏はギラギラと暑く、土埃が舞い上がる、無情な夏でした。その中で、すべてを失って敗戦。その晩からアメリカ軍が上陸すれば女を見つけて弄ぶ、女子供は山奥に逃がさねば、、、と言うデマが、まことしやかにあちこちから囁かれた。相当な頻度であった。嘘だとおっしゃる堅物がおいでのようだから、歴然とした傍証を示しておく。現在の高校の日本史の参考書にある。敗戦から4日目の同年8月18日、内務省は戦後初の通達で、各地方の長宛、占領軍向け性的慰安施設の設置開設を指令している、とある。警察筋が如何に慌てたか、想像に余りある。(例えば、山川出版社刊「日本史小年表」笠原一男・安田元久編著)

 しかしそんなデマとは裏腹に、いつ上陸していつやってきていたのか気がついたときには、高射砲陣地にも、照空燈陣地にも、迷彩服に鉄兜姿の海兵隊工作大隊の歩哨が立ち、有刺鉄線が張られた。やがて8月末、コーンパイプくわえて、色眼鏡掛けたダグラスが、コンソリデーデット、コンステレーション・バターン号で、厚木飛行場に降り立って、日本占領憲章宣言すると、その翌日から、アリが這い出てきたかと見まがうほどの数の海兵隊工作兵がオリーブ色のジープを乗り回し散らして走り回り、高射砲は2−3日で解体されてどこかに姿を消した。照空燈陣地の機械や反射鏡身は、津島中学の運動場に集積されたはじめは、別に近寄るな触るなの標識もなく、縄張りもなかったので、見に行った。沢山の芯アリと芯なしのアーク棒の山があったし、ごつい銅板を何枚も重ねたフレキシブスバーの出た整流器が10数台もあった。反射鏡の制御装置は、小型のセルシンモーターを多用したモノで、友人はドライバーを持って来ていて、20個ばかりのセルシンモーターをギヤメカ付きで外して持ち去った。

 話は前後するが、終戦前のいつ頃からか、中学の柔道場の建屋の床が抜かれ、三菱キー83高空双発単座戦闘機の事故機体の輪切りがおいてあった。こちらの風防ガラスの擦るといい匂いのするポリメタクリル酸メチル有機硝子も終戦直後全部失敬したのも彼であった。こうモノが外して持ち去られると、アメリカ兵も気になったのだろう。そこいら中に OFF LIMITの札を掛けたり白ペンで書き殴ったりした。OFF LIMIT って、何のこっちゃ?だった私たち。敵性語とされた英語は習う暇がなかったです。習ったとしても、なぜ、off limit が「立入禁止」なのか?絶対直訳出来ないこのセリフ!自由主義も民主主義も習っちゃいないのだから。お互い自由だとしたら、その自由の範囲には、自づと限界が生じる、なぜなら隣人の自由範囲に知らずに踏み込んでいるかも知れないから。これが自分の自由のリミットを越えて居るぞと言うことで、英語の表現の自由世界と、日本の官憲支配の世界との180度異なる受け止め方の違い。困ったことです。

 それはさておき、ついに、学校に出てくるなと言うことになって、工作大隊による照空灯の爆破作業が始まったのです。放物面鏡のガラスは直径1.4m程厚さ25mmはあって、表面に銀メッキが施され、更に透明釉薬が焼き付けられている。かなりの強力爆薬が使われたが、鏡の破片の対角線が2インチ以下に細かく破壊せよが、隊長命令だったと英語が片言喋れるようになって、工作兵から直接聞いた話だった。そのころ既に、敗戦から1ヶ月は経過し、町の本屋に新聞ガミ全紙大の「日米会話必携」だの「米会話ハンドブック」だの、日常米会話ポケットブックだの、3−4種類の会話本が売り出されていたのです。イヤ本ではない、紙です。買って来て、切りながら半分に5回ほど折ると2の5乗32枚の裏表、64頁の本になるモノでした。友人と3人で一冊づつ違ったのを買って来て、見せ合い写し合って、3冊分を覚え、町へオフ・デユーテイで出てくる米兵を捕まえて、本のカタカナ米語を、ベランメエ米語の発音に置き換えて覚えていきました。そんなある日、急にある早朝、町中にジープが溢れ、鉄兜が迷彩でなく、黒鉄兜とブルー鉄兜の、MPとSPが、校長と、英語の先公と、何と我々3人組を探し始めたのです。私は校長の家を正確に知っていましたから、SPの隊長に捕まった直後ジープで河合校長宅に直行しました。校長は、当時有名な英語学者市河三喜の弟子。英語は任せだが、ベランメイの米語は苦手で、その上に正しい英語にいちいち言い直そうとする変な先生癖があった。とにかく、SPの隊長が説明した。グライダー格納庫の砂の中から、数百丁の小銃と弾薬、それに機関銃と擲弾筒などが、現在も掘り出されつつある、この町と半径20マイル内の町村に戒厳令を敷き、それを徹底させたい、翻訳と仲介の労を執って貰いたい。又、英語を理解し、通訳の役に立ちそうな生徒先生を総動員して、やってくるMPと、SPの言うことを町村民に解らせる役に任じたい、実は軍側の通訳もいるが、これは、指令及び本部から余り離れられない立場にあるので理解してほしい。暴動と解するととんでもなく収拾が出来ない事態も惹起しかねない。本官は、単純武器隠匿で、武装蜂起を意図したモノでないと考えたが、その状態と数量があまりに多く、かつ保管状態がきわめてよいのが、司令部の心証を害し事は重大と考えられている。従って校長は逮捕する。ただし住民をことさら刺激しないため、手錠、捕縄は行わないが、身柄は拘束するので、左様承知願う。氷室は解ったかどうか簡単に復唱しろ。

 しどろもどろで、ただ、アイテムバイアイテムで覚えておいたので、敵の使ったボキャもオオム返しして、何とかナイス、アンダスタンデイング、と信用を得た。これが忙しい日々が始まる原因でもあったのだが。

 その日の夜ジープが私を迎えに来て、学校に連れていく、用意せよという。何と教室という教室、そして寄宿舎、講堂の中まで、兵舎になっていて、溢れた兵隊の群が、滑走路から砂山の土手の方まで、テントを張って無慮数千名が野営して居るではないか、ジープの分隊長に聞くと、海兵隊一個旅団が、上陸してくるがその数は1万4千名という。当時の津島町の人口は疎開流入があって、一万4千なにがし。丁度1対1だ。夜目にも黒々と道路を埋めスペースというスペースを埋め尽くしたジープの数。幌かけトラックの数。

 学校に呼び出されたのは、この地区の地図は見つかって、各町の拡大図は工作兵が作成中だが、その文字を全部横文字に直せ、今夜は徹夜でやってくれ、夜食と朝飯はレーションを支給する。私はタバコの支給をも要請した。朝会った隊長がチェスターフィールドのカートンを下げてにやにやしながら現れた。以降、彼が私にモノを頼むときはタバコを下げて現れることになる。一枚づつ地図が現れ始めた。青図が撮れるようにトレーシングペーパーに書かれているが日本字が入っているわけではない、原図を見ながら、大きさの違う拡大図の中に地名や施設名を書き込むのは全く骨の折れる仕事だった。このため眠気が吹っ飛んだのは幸いでした。3人組の後2人も連れてこられ、3人になってなかば分業にしてやっていたら、俺達は明日があるから寝るとやってきた、工作兵が暫く、分業でやっている私たちのやり方を見て居て、ファインジョーブと首をすくめて、褒めていきました。23歩行ってからポケットからチュウインガムとチョコレートを取り出し、図面台の上に投げてよこしました。

 翌日から海兵隊による各戸、各施設の軒並み虱潰しの家宅捜索をするため、この図面を青焼きして各隊に配ったのでした。その日は私たちは疲れ切って、一日家に帰って寝ていましたが、大問題が起こっていたのでした。でっかい大男が多いアメコウは、鴨居で頭をぶつける大騒ぎ、日本の各家庭は、靴も脱がず上がり込んで仏壇を引っかき回し裏返して調べ、その天井裏までひっぺがすやり方に腹を立て、かけやや、木刀を持ち出して楯突くモノが各所で現れ、これであの埋められていた武器があれば武装蜂起もあり得ると判断されそうになったことでした。ここで例の冷静なSPの隊長が、河合校長に意見を求めなかったら、一触即発の危機もあり得たかも。あの金ぴかのトリの巣箱や注連縄張ったとトリの巣箱は、祖先を敬うこと誰にも負けぬ日本人が命に代えてでも守る大事なモノ、その床に土足で上がるだけでも頭に来ているのだから、仏壇に手を掛けてひっくり返せば命がけで反抗する者も出る、文化の違いを理解してほしい、その配慮がほしい。出来れば靴は脱いでほしい、仏壇や神棚には形だけでいい、頭をちょっと下げてから丁寧に扱うように指示してほしい。多分そうすれば反抗する者は居ないはず。と河合校長が言ったそうな。翌日、3人組が、その周辺地区の3組について行くことになった。なるほど荒っぽい。言葉で説明しにくいのはやって見せた。これは大成功だった。アメちゃんは、出来ないのでなく知らないのだと、みんな理解してくれた。これで殆どにらみ合いは回避され、言葉は通じなくても冗談が出ることもあった。どの家からも、どの施設からも、武器らしいモノは出なかった、一番出たモノはネズミの死骸だった。ネズミの巣が紙幣で作られていた家もあって、敵味方腹を抱えて大笑いした家もあったそうだ。私の担当ではなかったが。

 別の一隊は、津島神社の宝物殿他床下から近くの沼まで浚ったよし。そして、重要文化財の、織田信長寄進の飾りはい刀他の古刀3振りを押収していったらしい。講和条約成立すれば返還するという英文の預かり証文をおいて。5年余して2振りは帰ったと新聞記事に出た。1刀は更に20年ほどして、アメリカの何とか美術館から、ヒョットかして津島神社の財物が、返却忘れになったモノではないかという付箋付きで、津島市に送られてきた。外国の美術館の鑑定能力と調査能力の高さに敬服するという新聞記事を見た記憶がある。

 更にこの捜索作業の別の隊が、海兵隊工作艦の製作になる作品の威力を見せてくれた。一つが、金属探知器である。現在では、地雷の埋設を地面の上から発見するスキーのストックの化け物のようなあれ、今ならみんなが知っているが、当時初めてお目に掛かった。土に埋もれた3寸釘,5寸釘、鎹、鎌の刃などは、検知増幅感度調整で、見事に検出してしまうモノであった。蓄電池付きのラジオアンプはかなりの大きさで、検出兵が背中に背負って、農家の庭や堆肥の山、鶏小屋の中まで、これで、検出を行った。大変な数の探知センサーとラジオアンプが出動したが全部工作艦で作られたモノだと聞いた。途中からは1つのラジオアンプに複数のセンサーがジャック差込でつけられるタイプになったようでした。特に防空壕の跡埋め戻した後などを数人で、集中的に探査するのはこのタイプを使っていました。今のアニメで言うなら、海兵隊工作艦はドラ右衛門の秘密のポケットだったんです。

 工作艦の作品で、もっとも驚いたのは、スペア部品と、廃材を使って組み立てられた新しい乗り物スクーターの登場でした。今あるスクーターの生みの親は、海兵隊工作艦です。艦上機の尾輪のスペアタイヤが車輪であり、ゴムボート用の補助エンジンがエンジンなのでした。ハンドルや屋台骨のパイプは船の手すりハンドレイルの廃材の利用だとのことでした。一台現れて、将校用に使われたかと思ったら翌週には、5−6台も配備され、伝令軍曹用やカメラ班用にオリーブ色塗装のが、SPにはネービーブルー塗装のが走り出しました。その生産力の早さ、これでは戦争に勝てるわけがないと思わざるを得ませんでした。隊員達もはじめは物珍しがって、おいちょっと変われとばかり乗ってみて、悦に入っていました。今のモノとは比べモノにならぬ、ゴツ臭い、後部がツンボリ縦長のモノでしたが、その技術力をかいま見せられた思いでした。

 秋だなあーと言う頃、CIAが岐阜県下で水谷元伍長を拘束したと聞かされました。田中お留守は、全国指名手配で、CIAと陸軍とMPが捜索しているが、未だ捕まっていないとのことでした。これで、事件は一挙に終局に向かうことになりました。彼が、当時の訓練日記を提出したのです、これには、お留守の指示事項もお留守の直筆で記入されお留守の署名というか花押も記されていたという事で、この武器の隠匿行為の顛末が克明に記されていて、責任と命令系統が明らかにされ、米軍が事件の経緯を理解するに十分な証拠となり、その後横浜のC級戦犯裁判でも、事実審理済みで、一日で、水谷氏は無罪が宣告された由。

 泰山鳴動して、ネズミ700匹。泥靴仏壇返しの家宅捜索も、中止となり、その証拠日記の事実検証だけが行われることになり、工作大隊が半数を残し、海兵隊もSPもあっと言う間に海の彼方に消えていきました。3ヶ月の予後監視期間と言われましたが、クリスマス前には帰国できると兵隊は喜んでいました。この前後に学校の教員室から-校庭の端のポプラの間に、ロングワイヤアンテナが張られ教員室には、無線機と受信機が置かれた由で、、生徒は立入禁止となりました。各ジープにはハンデイートーキイー(BC611)が配備されていました。


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