終戦秘話(2)

占守(シュムシュ)島独立守備隊玉砕記

 千島(キュリル)列島で、戦記に今も名高いのは、単冠(ヒトカップ)湾、それが幌筵(パラムシル)島にあるのか国後(くなしり)島にあるのか筆者も不勉強で知らないが、ハワイ奇襲攻撃には南雲艦隊の出撃最終集結地であったようでトラトラトラには必ず出てきます。 九七艦攻乗組だったJH2PCV加藤氏も、鹿児島錦江湾で低空攻撃の訓練を受けた後、挙母教育隊に集まれ、次は松島基地に集合、と行先も小刻みにしか知らされず、松島から沖待ちの駆逐艦へ小艇で夜陰に乗じてピストン輸送され行き着いた先が寒いヒトカップ湾。 先に待っていた空母には、愛機が既に積み込まれていた由。 後はトトト攻撃に向かって、暗い冬の北太平洋の怒濤の中を黙々と航海した由。 「おいこれは、ハワイかアメリカ攻撃だぞ」と艦内で誰言うとなく囁かれ始めたのが、3日目だったとか。 「おいそうすると、出航の朝暁暗の中で見たシュムシュ島が陸の見納めか?」「馬鹿を言え、これからハワイでも、アメリカでも好きなところにじゃんじゃん糞が落とせるじゃないか?」、、、。

 そのシュムシュ島は、千島火山列島最北端、僅かばかりの夏の漁師小屋が島に5カ所ほどあった湧き水の周りに集まっていた他は、越冬住人のない小島であった。 直ぐ南には江戸時代から漁師小屋が、大正以降には定住者が住み着いた千島列島第三の大島パラムシル島があった。 最北端の対岸は、火山半島カムチャツカ、つまり当時はここが日本最北端北の国境というわけ。 海軍のハワイ攻撃直後、陸軍はここに航空隊と、高射砲隊を含む独立守備隊を編成強化した。 その後、アリューシャン列島の飲み水のある2島を占領、アツツ島を熱田島とキスか島を鳴神島と日本名を命名。 守備隊を配置するが、2年後、南洋群島サイパン島の玉砕と前後して、アメリカ艦隊の艦砲射撃に屈して2島を放棄、僅かばかりの生存者を海軍駆逐艦で救出、救出不能者は自爆する。 再びシュムシュ島は最前線となって、1945年8月のソ連の対日参戦を迎えることになる。 同年7月、対日戦中の3国即ち米英中国がポツダムで会談、対日ポツダム宣言で日本に無条件全面降伏を迫った。 ソ連は、ヤルタ会談で4月から連合国と会談中だが、対日不可侵条約を楯に、漁夫の利を獲んとしたところへ「蚊帳の外」のポツダム宣言。 誰だって泡喰うわなあ。 実際には長崎の原爆を見てから宣戦布告と同時に蘇満国境を越えて満蒙に大挙進入開始、あわてた中国が8月14日中ソ不可侵条約を締結。 それではとソ連は、取るモノも取りあえずカムチャツカにあった戦車32台、兵員700名余を砲艦2隻で、千島の一番手近なシュムシュ島の占領に向かわせた。 実はいずれも実弾の補給不足。 まさに取るモノも取りあえず。 うまく行けば日本降伏が先で無血占領だろうと言うソ連側の読みだったのかもしれないとは、シュムシュ島玉砕総攻撃を指揮させられた、陸軍航空中尉鈴木氏の談。 以下も氏の談で繋ごう。

 8月13日の晩は、航空隊は徹夜だった。前線基地で使い古して半分壊れたような機体を持ってきて、もう半年以上もエンジン回したこともないし機銃弾の補給もない1式戦闘機「隼」5機を全部暗いうちに飛び出せるよう整備しろとの守備隊長命令、残ったドラム缶1本にも満たない燃料を5機にほぼ均等に補給せよ、と言う。 どうしようと言うのか解らなかったと言う。 北の夏は夜が短い。 守備隊長H少佐、副官E大尉、参謀D大尉、参謀伝令将校F中尉、航空隊長S中尉が全員を集め訓辞。 自分たち5名は陸軍命により司令部に出張する、本日付けを以て鈴木航空少尉が中尉に進級する。 今日にもソ連軍が上陸してくるかもしれぬ。 鈴木中尉の指揮のもと善戦敢闘以てシュムシュ島を死守せよ。 と。

 「おい、俺達3名は、操縦士3名を帯同するぞ、FとSは自分で飛べるから後から来い。」と早々にそれぞれ2人乗りして飛び去った。 Fは命令だから自分は気が進まないが、、と言いながら飛び去った。 S中尉は、俺は霧が晴れてから上空なるべく高く上がって、哨戒してから、どうするか決める。 それまで無線を切るな。 とゆっくりたばこに火をつけて、晴れるのを待っていた。 それにしても誰も無線を打ってこないのが少し気になったと言う。

 やがて日が昇ったのか霧が薄れ始めた。 「ジャーな。行くも地獄、残るも地獄だ、幸運を祈るぞ」と握手して隊長は飛び上がった。 隊長から「敵発見。砲艦2隻。戦車数十台を積んでこちらに向かっている距離20キロ」、の意味のトンツーを打ってきた。 了解を叩く。 次の瞬間耳を疑った、「我故障、敵艦に自爆す」。 弾も爆弾も積まず燃料も少ない隼で、敵艦に当たったところでどうなるというのか。 「馬鹿っ!。止せっ!」とっさに口をついては出たが、トンツーにそんな信号はないのが辛かった。 平文で、止せ、帰れ、を繰り返したが無駄だった。 トンツーも絶えた。

 霧が晴れ上がってみると、吃驚するほどの距離に、甲板に戦車を並べた軍艦2隻が迫っていた。 甲板から、戦車を岸に上陸させるにはあそこしかないと、工兵隊長が言った。 そこは、高射砲3門が置かれている丘陰から絶好の打ち下ろしの小さい噴火湾の岸。 敵艦もそれを知っているかのようにそちらに回り込んだ、全員に知らぬ振りせよ、高射砲は下向きに倒し、信管はゼロ信管にして命を待て、を伝える。 湾に近寄るな、を号令。 高射砲隊から、あそこなら1発で1台づつ壊せると伝令が来る。 船の上のも壊せそうか、とにかくうまくやれ、近づくまで悟られるなと返す。 しびれが切れるほど待って、漸く日が高くなって、湾に入ってきた、崖の高さが甲板の高さに合うようになる潮加減を待っていたのだった。 不思議なことに砲艦からの艦砲射撃がないのが逆に不気味だった。 やがて外海にいる砲艦から大砲が発射されたが、監視兵によるとそれは、砲艦の主砲ではなく、甲板に積載してワイヤロープで固定している曲射砲の発射だった。

 この号砲と共に、崖に横付けした砲艦から戦車がおり始めた、3台降りた途端にこちらの高射砲が一斉に3門火を噴くとどの戦車も始め白い煙、次の瞬間大爆発黒い煙で見えなくなって、わっと火の手が上がって静かになる。 距離100mもないのだ。高射砲の装填時間を狙って、降りようとした2台が鉢合わせして、もたつくのとその後ろの甲板上の戦車が又撃たれて爆発。 これで、横腹を見せている戦車の砲塔より下キャタピラの直ぐ上を狙えば、1発で吹っ飛ぶことが明らかとなり、甲板上のそういう位置の戦車を撃ち、更に前向いて降りてこようとする戦車は上陸して横向いたとたんを狙い、甲板上で動かなくなった戦車を海に押し落とそうと向きを変えても高射砲の餌食、ではじめの砲艦に積んだ17−8台は、1時間ほどの間に全滅した。 兵員をおろすことなく、砲艦は逃げ去った。ここで戦車の揚陸する限り水際で、全滅間違いなしなのだ。 夜遅くなって夜のとばりが訪れた頃、再び2隻がやってくる気配があった。 夜明けと共に決戦だ、少しでも眠っておけ、炒り米と煎り豆を頬張って眠る。 艦砲射撃で目が覚めた。 ところが音はすれども弾が飛んでくる音がせず、どこにも着弾しない。 ホントにおまえは屁のような。 と誰かが冗談を言った。 後から露助から聞いた話では、この礼砲用の空砲弾を除いて、6月駆逐艦が長途バルト海から補給してくれた6000発の弾は、木箱の標識と内容が食い違っていて、開けてみたら大砲の口径より弾の口径が僅かに1mmちょっと太いモノだったという。 補給があったことでストックは実弾訓練で撃ち尽くしてしまい、この度の出撃に使おうとして開梱して誤梱包に気づいたのだそうな。 とんだお笑いだ。誤標記か誤梱包かいずれにせよノーベル平和賞モノだ。 しかしこの朝は島の砂浜に乗り上げるように近づくと浅瀬に、デレッキで、戦車を釣り落とすように投げ込み始めたという。 この浜めがけて撃てる高射砲は島の南端にある1門と昨日の3門のうちの1台計2台。 歩兵も手伝って、高射砲弾をこの2門に運ぶ。 戦車が50台以上あれば叶わないが、20台以下なら、横さえ向いてくれれば勝ち目はある。 そんな状況で、8月15日の朝は明けた。 上陸用舟艇が卸されて敵兵が浜に戦車の周りに寄り添ったところでゼロ信管の高射砲の水平戦車砲撃再開。

 戦車は大体攫座するが、厚い外套の露助は用意に倒れない、ウラーと雄叫び挙げて浜へ散開して上がってくる。 怖いモノ知らずの観がある。 芋畑の中に未だ蛸壺はあるかと部下に尋ねると、訓練蛸壺なら10個ちゃんと残っていますと言う。 おい古刀持っている者は切り込むぞ集まれ、10人でいい。 と言いながら芋畑まで匍匐前進、蛸壺に這い込む。 そうとは知らずに小銃片手に何か言いながら通り過ぎようとする奴に声を掛けて振り向いたところを抜き打ちに切り上げる。 露助の外套は容易に切れない、仕方なく返す刀で喉突きに突く。 鈴木氏は、明大時代戦前最後の全日本学生剣道大会の優勝者剣道4段。 武道専問学校の並み居る5段を全部突きで破っての優勝と言う。 これで、10人ほどで、10人ほどの露助を斬ると水打ち際からのこのこ出てこなくなってしまった。 2門の高射砲も、戦車が釣り落とされるたびに、砲塔を回し切らぬうちに、掴座もしくは破壊してしまうとその数14台ほどで戦車は品切れ、その戦車の残骸を楯に数百名の露助が引き潮の浜に、小銃の濡れていないのが一番前にいて、人影のありそうな芋畑あたりにバラバラ打ちかけて来たりした。 砲艦の上から機関銃が木陰を狙って打ちかけてくる以外昨日の曲射砲もなく、機関銃はこの一丁らしい。 この機関銃の弾が残り少なくなって惜しくなってきた頃に総攻撃を掛けることにしよう。 船に未だこのくらい残っているとしてもほぼ頭数は1対2。 最後の腹ごしらえして、丁度12時、切りもよし、ここで玉砕総攻撃と行こうと各隊に伝令をとばす。 12時に用意の電文を打電、最後の爆薬で、無線機を破壊。 連隊旗を腹に巻く。 「8月15日正午、司令部宛、本電文打電後、無線機を破壊し、占守島独立守備隊、隊長陸軍航空中尉鈴木健以下362名、皇国の武運、皇運の長久を祈って上陸ソ連軍に対し総攻撃を敢行玉砕せんとす。天皇陛下万歳。、、、、」

 「小銃は近づいて敵が発砲しても必ず当たる距離までは打つな、腰だめで全弾撃て」とあらかじめ訓辞、さて行くぞと全員横隊に並んで、浜に向かって歩き出したとき、小隊長が叫んだ、「敵は白旗を掲げた。トマーレー全員伏せ。」何がなんだか解らなくなった。 頭の中真っ白。 暫くして、我に返ったとき、敵の将校が2人民間人のようなのを連れて白旗を掲げて歩いてくるのが見えた。 「我々は一応降伏するが、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。 つまり君たちは死んではならない、我々に降伏し、次の我々の提案を受け入れるべきだ。 ラジオは聴いていないのか、先ほど12時から、日本の天皇陛下の玉音放送があり、帝国臣民に対し速やかに戦争をやめよとの放送があった。 船にラジオを用意している。 もしどうしても我々を信用できないなら、ピストルを持って我々の船に来てラジオを聴いてよい。 5人までなら短艇で運べる。  どうするか。、、、、」10mほどのところから通訳の男がしゃべりながら両手を挙げて、はっきりした日本語でこう言いながら近づいてきた。 小隊長が、手旗信号の出来る兵を連れ、小銃を持ちもう一人、剣術の強い曹長が軍刀をたづさえて船にゆくことになった。 10分ほどして、信号兵が、「無線司令部からも終戦通報が出ているし、日本の大将鈴木貫太郎首相閣下もラヂオで停戦を呼びかけた」と手旗で知らせてきた。

 こうして、全員玉砕は、その寸前で避けられた。ソ連軍は戦車32台損壊と兵員150名ほどが戦死、10数人が怪我しているという事だった。 「戦いは馬鹿なことだね。 先日も日本飛行機が1機、撃墜しないのに船のそばに落ちてきたよ」とこのイルクーツクの伝統ある日本語学校で日本語を習った通訳が、後日鈴木氏に語ったそうだ。 隼で飛び立った8人が全員行方不明。 それだけが、シュムシュ島の人的損害のすべてだった。 この8人も飛行機で飛び上がらなければ、生き延びることが出来たかもしれなかったのに。陸軍の飛行機乗りは海の上での航法を知らない。 しかも燃料はわずか。 ただ逃げたいの一心以外の何者でもなかったらしい。

 「俺達幹部は逃げる。 逃げたことを知ったおまえ達を生かして置くわけには行かぬ。 俺達が居なくなった後敵軍が来たら、玉砕せよ。 もし敵が来なければ、あの島にはもう誰もいないと報告しておくから餓死せよ」と言うわけです。 陸軍の上層部のエゴだったのです。 上層部の期待に反し、幸いにも弾の足りない敵が来た。 戦闘には勝った独立守備隊363名は日本が負けたことでシベリヤに送られ、3年の使役の後334名が生きて舞鶴の地を踏んだそうです。 帝国陸軍というのは、奇々怪々な人殺し集団だったのです。 心ある人が偶々居ても、よほどのチャンスに恵まれなければ、下っ端の兵隊さんは束ねられて戦火の中に葬り去られてしまうことが多かったのでした。


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